刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

「空白の150年」に何があったのか?(その3)大国主参上

2023-09-11 01:12:40 | 古代史
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地図の件のコメントを受けて鍛冶遺跡の分布図を修正しました。ご確認ください(^^;)

倭国が魏を後ろ盾にしたことを知った狗奴国王(記紀の崇神天皇)は、ようやく倭国征討軍を送る決心をしました。軍を率いるのは比古御子(卑弥弓呼)と同じニギハヤヒ大王の子孫の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀では仲哀天皇)と推理しました。副将を倭国大乱で戦死した英雄の狗古智卑狗の子久々遅彦(記紀では五代の天皇に仕えたという三百歳の武内宿禰)として、東海・山陰・近江・北陸・畿内などの人々の混成部隊だったことが、三世紀中頃の纏向遺跡や北部九州の遺跡の外来土器から推理できます。先日話題になった吉野ヶ里遺跡には近江の武将が使う手あぶり土器が出土していますし、東近江市神郷亀塚古墳がその発祥と考えられる前方後方墳が南内郭付近の丘陵部に4基見られます。近江・北陸のムナカタ海人族を率いるのが息長宿禰王(オキナガスクネノミコ、記紀の神功皇后の父、神話の少彦名命)でその娘台与(記紀の神功皇后)が姫巫女として従軍していたと推理しています。その謎のエリアの石棺墓の被葬者はこの人物だと考えています(「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?」)。「日本書紀」は建国時代の史実が不都合ですので誤魔化していますが、仲哀天皇の熊襲征伐の話にしています。



魏志倭人伝によると、正始八年(247年)に帯方郡に新しい太守が着任したので、倭国王は使者を送り、以前から仲が悪かった狗奴国との争いを報告しました。それを受けて帯方郡から塞曹掾史の張政が倭国に派遣されました。到着した時にはすでに卑弥呼は死んでいて、急いで径百余歩の大きな塚(直径約150mの日本最大の円墳「三柱山古墳」)を造って卑弥呼を葬り、百人ほどの奴婢を殉葬したと魏志倭人伝に述べられています(「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。また、難升米に魏の正規軍の軍旗「黄憧」を授け詔書も渡し、張政が激を告げていますから、難升米が軍事を預かる、自ら卑弥呼の男弟とした人物で、儺升米は師升の一族の頭(かしら)という意味ですので伊都国男王だったことも分かります(注1)。

それでは卑弥呼に何があったのかですが、247年3月24日日没前に北九州で皆既日食があったことが分かっています。伊都国に居た難升米は夕日が欠けながら海に沈む現象を見たようです(「卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか!」参照)。丁度、狗奴国の大軍が攻め寄せて来る情報を聞いたので、日食を不吉な予兆と考えたようです。魏志倭人伝にある持衰(じさい)と同様に、太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎で霊力が衰えたからと考えて、部下に暗殺を命じたと推理しています。卑弥呼の世話をする男が一人いたと魏志倭人伝にありますが、難升米のスパイだったと考えられます。伝令から暗殺を命令されたその男は卑弥呼の生活を熟知しているので、河原の露天風呂でいつものように入浴している卑弥呼を襲って殺害したと考えられます。卑弥呼を警護する部隊長には卑弥呼が急死したということにしたのでしょう。上で述べたとおり、急いで土を20mほど盛り上げさせて円墳を作り、石棺を据えて卑弥呼を埋葬し、その後、暗殺の口封じもあるかも知れませんが、百名ほどの奴婢を西側の原野で惨殺して殉葬したと推理しています。「血野」という地名が残されていました。卑弥呼の墓の遥拝所と見られる河原の地名が日食示唆するヒカケで、そこに三女神の石塔が墓に向けて建てられていることなどから推理できます(「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。

卑弥呼の死後、代わって男王が立つも国中が従わず、千人以上が死ぬ戦闘が起こったと魏志倭人伝にあります。この男王が難升米であるならば、最初から倭国王だったと考えていますので、そうでないことは明らかです。ですから、狗奴国軍が到着したと考えると、卑弥呼が死んだことを知った弟赤坂比古(和邇氏の祖、記紀の日触使主)は、琉球神道で見られるおなり神信仰がこの時代の縄文系の信仰を受け継いだものと考えられますので、難升米と共に戦う気力が一気に失われたのだと思います。そうなると難升米ひとりで戦うことができないので、司馬懿の援助によって再起を図るために金印を持って帯方郡に逃亡したと考えられます。

そうであれば、この戦闘は狗奴国軍内部の抗争・内戦だと推理できます。もしも狗奴国王が直々に軍を率いていたのならば、狗奴国勢の中に不服な者など居るわけありません。ですから、先に述べたように尾張王乎止与命が大将であったと考えると自然です。奴国を滅ぼした恨みがある師升の倭国を無傷で手に入れることができたので、捕らえられた魏使張政の誘いもあって狗奴国を裏切って倭国王に立とうとしたのだと考えられます。それに不満を示したのがムナカタ海人族を束ねる久々遅彦だったのでしょう。尾張王に従う勢力と戦うことになったので、赤坂比古は先代が狗奴国を裏切ったことの償いのために同族を率いる久々遅彦の軍に加わったと考えられます。そのために尾張王の軍勢は劣勢になり、赤坂比古が所領としていた鳥栖市まで追撃されて討たれたと推理しました。九州の最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと考えられます。この事件はヤマト王権の歴史に大きな影を残すことになりますが、また後で述べます。

そして、卑弥呼の宗女で13歳の台与が女王に立てられて、争いがようやく収まったとあります。倭国大乱の時と同様で、外交上立てられた女王に統治力などあるはずないと分かります。内戦に勝利した久々遅彦は狗奴国王の親族の有力者だった尾張王乎止与命を討ってしまったことの処分を恐れ、再び張政の進言によって、息長宿禰王の姫巫女台与を、外交上女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗奴国を裏切ったと考えられます。久々遅彦はすでに配下としていた日本海沿岸部のムナカタ族に加えて、赤坂比古が味方に加わったので邪馬台国連合倭国の人々も従ったと思います。半島南部の鉄資源を独占でき、帯方郡との交易によってたちまち隆盛になり、畿内と東海などの狗奴国の勢力を除き、列島のほとんどを支配下に置いたので、久々遅彦は、後世、大国主命と呼ばれるようになったのです。このことは、下図のとおり博多遺跡で見られる高温鍛冶炉と同じ技術の鍛冶炉が見られるようになりますから、大国主が各地に先端技術を与えたと分かります。気前のいい大国主は死後も日本で一番人気の神様になっていますね(^_-)-☆。



(注1)後漢光武帝が奴国王に授けた金印に倭を委としています。当時の流行だったことが師升王が作ったと推理した室見川銘板にも二か所ニンベンを省略する例が見られましたから分かりました(「【わかった!】室見川銘板のなぞ」参照)。師升は宮廷楽師時代の名前ですので、儺升という名前に変えたと分かります。「」は追儺(ついな)、つまり鬼やらい、神やらいを意味する言葉です。師升らが奴国王スサノヲを殺して倭国王となった史実を意味する文字なのです。そして、「日本書紀」の仲哀紀に博多を儺縣(なのあがた)としていることから、「日本書紀」の編纂者だけでなく日本建国で活躍した豪族の子孫もその史実を知っていたと考えられます。スサノヲの怨霊を多くの人々が畏れていたことは、今も残る祇園祭や茅の輪くぐりの行事からも伺えますね(^_-)-☆。

(つづく)





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「空白の150年」に何があったのか?(その2)魏志倭人伝の真相

2023-09-09 08:27:01 | 古代史
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前回は倭国大乱から卑弥呼の登場するところまでおはなししましたが、初めての方は、そんな馬鹿な!魏志倭人伝にはそんな風に書かれていない!卑弥呼はそんなところに居るはずない!とそっぽ向かれた方も居たと思いますが、申し訳ありません(^^;)
日本の古代史が謎な理由?で述べましたが、文献に書かれたことと、事実、つまり考古学や民俗学などの成果とが合致しないから謎が存在するわけです。事実に基づいて文献を正しく解釈するのが、万人が理解できる科学的な手法ということですのでご理解くださいネ!それでは、この先に進めましょう。お付き合いください( ^)o(^ )

狗奴国王卑弥弓呼は、正しくは比古御子(ひこみこ)という名前だと思いますので、偉大な大王の子孫(御子)という名前の男(比古)の王という意味です。その大王とは、前回見たスサノヲの王子イタケルと同様に奴国を脱出したスサノヲの弟で、両親はスサノヲと同じと推理しました。父は第17代奴国王伊弉諾尊(イザナギノミコト)です。母はムナカタ族の姫イザナミですから、恨みのある師升一族の倭国に交易に出かける裏切り者たちを集めて繁栄している吉備の勢力を、ムナカタ族の支援を受けて討ったニギハヤヒです(記紀では鬼退治をした吉備津彦としている)。記紀の国生み神話で大八洲のひとつの吉備子洲(児島)の周辺地域は当時は海でしたので吉備穴海と呼ばれ、重要な海洋交通路でした。汐待ちなどで人々が集まり、交易も行われる港町ですので、ニギハヤヒが吉備を抑えたことで隆盛となりました。吉備で奴国を再興し、ヤマト王権の基礎を築いた大王なので、王年代紀で第19代王天照大神尊とされ倉敷市楯築遺跡に葬られたと推理しました。物部氏の歴史書「先代旧事本紀」では物部氏と尾張氏の祖神「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)」とあり、その子孫らは畿内や東海などに勢力を伸ばしました。今上天皇はニギハヤヒ大王の子孫だと推理しています(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。


古代吉備の推定海岸線 - 弥生中期~古墳期を想定 -(☆岡山 古代吉備の地勢復元 より)

したがって、邪馬台国連合倭国が成立したことで半島南部の鉄まで倭国に奪われたニギハヤヒ大王の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(比古御子、記紀の開化天皇)は衰退の危機を乗り切るために、前回述べたとおり、各地の旧奴国の勢力を呼び集めて邪馬台国連合倭国に対抗するために、三世紀初頭より築造した、祭祀に特化した纏向遺跡に王都を遷したと推理しました。築造に直接携わり、食料などを供給したのは狗古智卑狗配下の縄文系の人々の大集落唐古・鍵遺跡などの人々でしょう。纏向遺跡の大型建物の中では各地から集まった首長クラスの人々と連日、祈祷と軍議を行った様子が大量に出土した桃の種からも想像できます。

景初二年(238年)8月魏の太尉司馬懿によって、公孫淵が遼東で建てた燕国の都襄平が落とされました。降伏を申し出たにもかかわらず公孫淵と王族・部下三千名の首を撥ね、15歳以上の男子を皆殺しにして死体を高く盛り上げた「京観(けいかん)」を築きました。公孫氏敗北の報告を受けた明帝曹叡は楽浪郡と帯方郡を部下に占領させました。明帝が12月、若い跡継ぎの少帝曹芳の後見役を司馬懿に任せて崩御しました。司馬懿は部下の劉夏を帯方郡太守として派遣し、倭国に朝貢させるように指示しました。倭国王難升米は公孫氏に朝貢していたから、残虐な魏軍に討たれることを怖れていました。翌年6月に、劉夏から朝貢するように促され、早速自ら帯方郡に出向きました。明帝の喪が明けるまでの約半年、帯方郡に滞在し、司馬懿の功績を持ち上げるための談合を劉夏と行ったと推理しました。

魏の最大のライバルの呉を東方海上から圧迫する戦略的に重要な位置にある七万戸の大集落が女王の都邪馬台国だとしました。遠い大国に朝貢させるのは皇帝の徳の高さを示すものであり、戦略的に最重要な位置にある倭国を朝貢させた司馬懿は魏最大の功労者として朝廷の実権を握ることに成功しました。最終的に、司馬一族が西晋を興したので、「晋書」でも東夷を朝貢させたのは西晋宣帝と諡号を贈られた司馬懿の功績だとされています。魏の朝廷の人々の注目を集めるために、倭国が鬼道によって女王に統治されているエキゾチックな東夷の大国としたのです。難升米が帯方郡に滞在していた間に、司馬懿は尚書省を抑え、卑弥呼の朝貢を絶賛した詔勅を書かせたので、西晋の史官陳寿はこの詔勅をほぼ全文記載するという異例な内容にしています。さらに、意図的に西域伝を省いたことなどからも、陳寿は司馬懿を称揚するために「魏志倭人伝」を書いたのだと分かります。これが「三国志」を編纂した大きな目的だったのです(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社1994,pp.16-25)。

このようにイチキシマヒメ卑弥呼は、実際は倭国を統治する女王ではなく、前回見たようにムナカタ海人族赤坂比古(和邇氏の祖)の姫巫女です。政治的な理由で倭国女王にする必要があったのですから吉野ヶ里遺跡のような大規模な集落ではなく、要害堅固な山城だった宇佐市安心院町宮ノ原遺跡を居城としていたと推理しました。女王の都の邪馬台国までの行程記事も政治的な理由で作られたものなのです。倭国の地名・人名などは、孟子を読む教養人の難升米が書いて教えたものだったことは、回土国(ウィトコク)を深い意味のある伊都国と書いてあることから分かりました。魏の役人が書けるような国名ではないのです。邪馬台国というのは、前回述べた野麻国(ヤマコク)に住む女王の都という意味なのです。(「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」、「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

ということで従来から魏志倭人伝にある行程記事を解釈して邪馬台国の位置を決めたとしても、21世紀になっても万人が納得する場所が定まらなかったのです。ですから、考古学や民俗学などの成果である事実を基にして邪馬台国の場所を推理することにより、難升米が政治的な理由で作った邪馬台国への行程記事のトリックも解けました(「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」、「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。


(つづく)





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「空白の150年」に何があったのか?(その1)倭国大乱と卑弥呼の謎

2023-09-07 05:18:37 | 古代史
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卑弥呼の登場から空白の150年について、とてもよい解説を見つけました。通説では、いかに日本の古代史がよく分かっていないのか分かる記事になっています。やはり、すでに日本の古代史が謎な理由?で説明したように、当時の状況に対する間違った思い込みがあるので謎のままだということなのです。今回は今まで解明したこれらの謎について簡単に説明しますが、詳しくは参考記事をじっくりご参照いただき、疑問点をお教えください。ということで書き始めたのですが、簡単にはまとめられませんので、数回に分けようと思います。それでは、最後までお付き合いください(#^.^#)


日本古代史ミステリー 「空白の四世紀」に何があったのか?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #088 歴史人
柏木 宏之 2023.8.31


 突然のように出現した巨大な前方後円墳が大和(やまと)から広がりを見せる3世紀後半~5世紀初頭は、具体的な記録が無いので「空白の四世紀」といわれています。
 中国の史書を参考にすると、『晋書 倭人伝(しんじょ わじんでん)』にある邪馬台国の新女王台与(とよ)が266年に朝貢をした記録が最後で、次に『宋書』などに現れる「倭の五王」までが何も情報がない空白の期間とされています。
 そして、この約150年の間に日本列島の人々の暮らしが大きく変化しています。まず第一に、弥生時代の邪馬台国(やまたいこく)は魏(ぎ)の皇帝に戦の救援を求めていますので、戦乱で苦境に立たされているようです。つまり、まだ邑国(ゆうこく)同士が激しく争っていた小国時代です。
 それが5世紀の倭の五王の時代になると、王権がほぼ確立して権威ある肩書を中国皇帝に要求しています。つまりこの間に大和王権がほぼ確立したと考えられます。また同時に前方後円墳が各地に広まっているのです。
 そして古墳の副葬品を見てみると、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に「倭国には牛や馬はいない」と書かれていたにもかかわらず、馬具が多く出てくるので馬が輸入されていたと考えられます。輸入どころか日本列島で繁殖に成功していたのでしょう。
 このように空白の期間は日本列島の文化や政治体制が大きく変わったときでもあるのです。現在の中国吉林省(きつりんしょう)にある高句麗(こうくり)の「好太王碑文(こうたいおうひぶん)」には、倭軍が攻め込んできたという内容も書かれていて、大和国の朝鮮半島への積極的なかかわりも見えます。
 なぜこの期間の記録がないのかといえば、大和にはまだ文字がなく書き残されたものがないからです。では中国はどうかといえば、地球の寒冷化によると思われる混乱の時代でした。中華国家は匈奴(きょうど)の侵入に悩まされ、五胡十六国時代に突入して南北朝時代まで混乱が続きます。とても海を隔てた辺境の倭国にかかわっている暇がなかったのでしょう。
 しかし日本列島は海に囲まれていることで大陸や朝鮮半島の混乱に巻き込まれず、その間に列島内の小国と折り合いをつけた大和王権が国家体制の礎(いしずえ)を確立していくのです。ただ、まったく大陸の混乱に関係がなかったかというとそうでもなく、渡来人(とらいじん)が日本列島に逃げ込んできます。現在の奈良県高取町市尾カンデ遺跡の「大壁建物」の調査では、4世紀後半ぐらいには渡来人が多くやって来たと考えられています。そういった先進の渡来文化が流入した時期でもあるのでしょう。
 記録はありませんが、前方後円墳をはじめ様々な遺跡の考古学史料は豊富ですから、ここから推測すると、かなりダイナミックな政治的・文化的な変革が日本列島にもあったことがわかります。
 風俗も大きく変わり、弥生時代の男が全員していた「黥面文身(げいめんぶんしん)」という入れ墨の風俗は駆逐されています。また、銅鐸(どうたく)祭祀や銅剣銅矛(どうけんどうほこ)祭祀も姿を消します。出雲の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡と荒神谷(こうじんだに)遺跡は、まさに弥生祭祀の両文化が終焉した証拠かもしれません。
 こういったダイナミックな混乱期は地球の寒冷化に原因があったのだと思われます。大陸が混乱する中で、比較的温暖で海に隔てられていた日本列島内は大変革に成功したのでしょう。


2世紀末の倭国大乱が3世紀初頭に女王に立った卑弥呼によって一旦は収まります。通説では倭国大乱についてほとんど理解されていません。弥生時代になって戦争するようになった理由が、人口の増加・資源不足(適地や水の奪い合い)・蓄積された富の略奪・思考的変化というのがほとんど定説になっていましたが、そうではないことが弥生中期の北部九州の甕棺の数と受傷人骨を調べて分かりました(「弥生人は戦争好き?ウソですよ」参照)。ですから、後期になって倭国大乱がなぜ起こったのかは、東アジアの情勢も踏まえて倭国内部の状況をしっかりと推理する必要があります。(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。



倭国大乱は、范曄「後漢書 東夷伝」にあるとおり、建武中元二年(57年)に後漢光武帝から金印を与えられた倭国を支配していた奴国王が宮廷楽師師升らのクーデターで滅ぼされたことに起因し、北部九州の倭国から東に展開していた、狗奴国とされた旧奴国の勢力との抗争だったのです(「【決定版】金印贋作説を討つ!」、「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。主戦場が佐賀平野・筑紫平野だったことが鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて倭国大乱の痕跡を発見しました。当初、倭国側は旧奴国勢にやられて、ほとんど消滅しそうだった状況まで見て取れます。

ここで活躍していたのが、魏志倭人伝に狗奴国王よりも先に紹介された狗古智卑狗です。狗奴国は邪馬台国の南にあるという記述があるので、多くの方は熊本県菊池市が狗奴国だったと考えています。しかし、後でまた説明しますが、狗奴国王卑弥弓呼(「比古御子ひこみこ」の誤り)は邪馬台国連合倭国が登場したことを受けて、列島に散っていた旧奴国の勢力を集めるために、政治・宗教に特化した大集落の纏向遺跡を造ったのです。3世紀半ばまでの纏向遺跡(纏向1~3期)からは九州の土器がほとんど出土していないことから、九州にあった邪馬台国と対立していたことが分かります(「【検証11】定説の根拠を疑え」参照)。

ではなぜ、邪馬台国と倭国が連合したのかは、鉄鏃・銅鏃の出土状況を見て、倭国側の住居跡に銅鏃が出土し、狗奴国側の山鹿市方保田東原遺跡や菊池市うてな遺跡の環濠や溝から倭国側の銅鏃が出土していることから推理できます。また、大分県大野川流域と熊本県阿蘇山麓にかけて、半島南部の板状の鉄素材が持ち込まれて、鉄製武器の生産拠点として数多くの集落が造られています。方保田東原遺跡からは山陰や畿内の土器が出土しているので、狗古智卑狗はこれらの地域から兵士を集めて倭国を襲撃していたことが分かります。

狗古智卑狗は兵庫県豊岡市久久比神社の祭神久久能智神(くくのちのかみ)で、北九州から山陰・北陸の縄文海人ムナカタ族を束ねる王だと推理しました。全国の上棟式の祭神屋船久久智命ですので、師升らに殺されたスサノヲの王子で木霊五十猛神(イタケル)の子孫だと分かります。つまり、イタケルはクーデターを脱出し、祖母であるイザナミの実家の米子市宗形神社を拠点とするムナカタ海人族に助けられて成長し、代々その子孫がムナカタ海人族を束ねる王の久々遅彦を襲名したと推理しました。

そして、丁度204年には遼東太守公孫氏が半島を平定し、楽浪郡の南に帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返し、逆に菊池川の狗奴国勢を襲い、それまで優勢だったので油断していた久々遅彦(狗古智卑狗)が討たれたと推理しました。

玄界灘を活動域として狗奴国勢に半島南部の鉄を供給していた族長の赤坂比古(和邇氏の祖)が、大活躍していた王を喪って途方に暮れていたところに、師升王の子孫難升米(なしょめ、伊都国男王・倭国王という意味、「伊都国の意味がヒントだった?」参照)が懐柔したので、卑弥呼(姫巫女)による太陽神の神託によって政治を行う条件で、狗奴国を裏切り倭国側についたと推理しました。この時期に甕棺墓が消えますので、難升米は宗教改革まで行ったと分かります。赤坂比古傘下の九州(東部・中部・南部)・中国西部・四国西部の部族が倭国に加わりましたので(後に讃岐・阿波・紀州の部族も加わる)、衰退していた倭国の交易センターだった奴国(比恵・那珂遺跡群)が復活し、倭国は公孫氏との交易で隆盛になったと推理しています。天理市東大寺山古墳出土の中平銘鉄刀は公孫度が遼東太守に任命された中平六年(189年)に倭国王難升米に贈られたもので、後に卑弥呼の弟赤坂比古に下げ渡されたと推理しています(「中平紀年銘鉄刀は卑弥呼のものか?」参照)。

卑弥呼は天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神の市杵島姫(イチキシマヒメ)だと分かります。イチキシマヒメは不弥国(ウミコク、宗像市田熊遺跡群)で生まれたと思われますが、戦乱期には倭国に近くて物騒ですので、野麻国(ヤマコク、和名抄宇佐郡野麻郷に比定される宇佐市安心院町宮ノ原遺跡)に疎開していたと推理しました。葦原中国の宇佐嶋に天降りした宗像三女神の伝承地です。三女神は卑弥呼を隠すために日本書紀で創作された神話です。卑弥呼の宮室だった三女神社(さんみょうじんじゃ)の一之鳥居の神額に「二女神社」とありますから、地元の人がそれとなくウソを暴露していたと気づきます(当ブログのバナー参照)(^_-)-☆。



(つづく)





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卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?

2023-09-02 04:08:55 | 古代史
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2021-12-16 21:41:00に記事にしましたが、先月、卑弥呼の墓「三柱山古墳」の遥拝所「ヒカケ三女神社」とその周辺を実際に見てきましたので、この記事の最後に追加することにしました。お付き合いください(#^.^#)

毎度お騒がせしてすんません!卑弥呼の居城(宮ノ原遺跡)と墓などの鳥瞰図を国土地理院の地図の3Dツールでかっこよくできましたので、2021-12-02 20:54:47に掲載した記事にアップします。ここをクリックして、卑弥呼を想いながら動かしてみて色々な角度からお楽しみください(^_-)-☆



卑弥呼が日食のために伊都国男王難升米に殺されたことを確信した場所が、卑弥呼の宮室だった三女神社と同じ名の社(やしろ)でした。宮室の西側の深見川の河原にあります。その北側約450mにある卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の円墳を河原から遥拝する頓宮(遥拝所)です。その地名が宇佐市安心院町下毛 字ヒカケとあり、日食(日欠け)を示唆するものでした(卑弥呼の墓は見つかってるよ!)。

さらに遥拝所の直ぐ北側の道路の円墳側に大量の土を盛り上げて、横穴群が作られていました。ヒカケ横穴群です。女神アマテラスの岩戸隠れは卑弥呼が日食のために殺された史実をもとに創作された神話です。わざわざ遥拝できないように土を盛り上げられていますが、後に仁聞菩薩の教団の僧が岩戸隠れを示唆するために横穴を掘ったのではないかと考えています。



この河原の東側の安心院すっぽんセンターの横に、仁聞菩薩が作ったと言われる下市磨崖仏(しもいちまがいぶつ)があります。地元の伝承では、産後に乳の出が悪くて悩む母が不道明王にお粥を供えて、そのお下りをいただいたところ、乳が出るようになったので、「乳不動」「生不動」と呼ばれるようになったとあります。

ここは地図に温泉の印があり、恐らく卑弥呼の時代から河原の露天風呂となっていたと考えられ、入浴中の卑弥呼が刺客に引き出されて、頓宮辺りで殺されたのではないかと想像が膨らみます。頓宮には三女神の墓石とみられる石塔が卑弥呼の円墳を遥拝するように立っています。


そして、前から引っかかっていた西側の摂社の正体がようやく分かりました。二つの鳥居があります。最新のGoogle Mapの写真で、その神額がハッキリ読めました。

ジャン!




向かって左の鳥居の神額に「八束神社」とあり、右が「金毘羅宮」でした。写真をアップしていただいた方には心から感謝いたします。居ながらにして古代史の調査ができますから有り難いことです(*ノωノ)

まず、八束神社ですが、その祭神は「出雲国風土記」の「国引き」に登場する八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ)です。国引き神話は記紀には書かれておらず、この神の素性が良く分からないのですが、「古事記」に淤美豆奴神(おみづぬのかみ)が登場し、スサノヲの四世孫で大国主の祖父にあたりますので、この神のようです。

なるほど、それでは、と、さらに検索すると、北九州市八幡東区八束髪(やつかひげ)神社というのが引っかかりました。この神社は、現在は仲宿八幡宮(なかやどはちまんぐう)に合祀されています。約800年の歴史があるとされる祇園祭で巡行される、仲宿八幡宮に奉納される前田祇園山笠(まえだぎおんやまかさ)は、八束髪神社のものだったそうです。そして、「ここは昔、熊鰐(わに)氏の館で陣屋だったところで、そのご子孫の方が宮司をされています。」上のブログにありましたよ。祇園社の御祭神はスサノヲです。やはり、三女神は記紀神話でアマテラスとの誓約でスサノヲから生まれたということですので、表向きは日本書紀に合わせて、ヒカケ三女神社の摂社のひとつとしてたのでしょうが、卑弥呼の出自である縄文海人ムナカタ族の和邇氏もこの摂社に関係しているようですね。

次が金毘羅宮ですから、祭神は大物主、つまり大国主です。三女神との関係ですが、古事記にタゴリヒメが大国主命の妻とされています。しかし、三女神がスサノヲの姫なら大国主と年齢が余りにも離れすぎですし、そうでなくても大国主はスサノヲの直系の子孫ですから、あり得ない、おかしな話です。先代旧事本紀ではタギツヒメを大国主が娶ったとしていますから、これら二柱の女神は取って付けたようなウソ話だと直ぐに分かります。三柱の女神としていますが、それは日本書紀でイチキシマヒメ卑弥呼を隠すために残りの二女神をくっつけて三女神とした秘密を、古事記と先代旧事本紀の編者が上手にバラしているということなのですよ(【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎)。

いずれにしても、鳥居の型式から考えて、平安時代から室町時代にスサノヲと大国主を祀る摂社を卑弥呼の墓の遥拝所の西側に置かれたものと思われますが、これらを配置したということは、当初は遥拝できたはずの円墳が卑弥呼の墓だと暗に教えてくれているのです。遥拝できなくしたのはその前の奈良時代に藤原氏の命令だったのでしょう。直接円墳を目視して遥拝できないので、卑弥呼の鎮魂のために摂社が置かれたのでしょう。だとすると摂社の原形はすでに奈良時代にあったのかも知れません。

伝説によれば、仁聞菩薩が、養老2年(718年)頃に、国東半島の各地に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったといわれているwiki「六郷満山」にあります。しかし、仁聞菩薩は架空の人物で、八幡信仰と天台修験を融合させ国東半島独自の宗教文化を作った宇佐君の祖の法蓮上人が指導した教団だと分かっています。新羅からの渡来系倭人の辛嶋氏が宇佐周辺で祀っていた原八幡神卑弥呼が藤原不比等によって完全に隠蔽されることを法蓮上人が怖れて、妥協案として八幡大神(当初は大国主、後で大国主の子の応神天皇とされた模様)と八幡比売神(卑弥呼)の合祀を提案し、さらに新羅仏教の弥勒信仰を導入して、大国主の本地仏として弥勒寺(多分最初の神宮寺)で祀ることで不比等の了解を得たと推理しています(「卑弥呼を不比等から護った人物?」)。日本の本格的な神仏習合は日本建国の歴史を葬りたい藤原不比等を説得した法蓮上人から始まったのではないかと考えています。

そして、摂社の左にあまり見かけない高灯篭と呼ばれる、石組みしたピラミッドの頂部におかれた灯篭が見られます。古代の灯台の役割だそうです。日本で一番大きいものが香川県琴平町の27mの高灯篭です。江戸時代に作られたようです。香川県の象頭山に鎮座する金刀比羅宮が金毘羅さんの総本宮です。大国主命と崇神天皇が祭神とされています。底辺が正方形のピラミッドが大国主のシンボルになっているようです。

また、大国主によって殺された尾張王ヲトヨノミコト(記紀では仲哀天皇)の仇討のために九州遠征した、跡を継いだ尾張王タケイナダネノミコト(熱田神宮祭神、記紀では祖父の景行天皇として誤魔化しています)に、大国主は高良山で殺されて祇園山古墳に埋葬されたと推理しています(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」)。この古墳が、図のとおりピラミッド状の方墳なのです。大国主の墓で間違いないと思います。


(「卑弥呼の墓 候補地 *祇園山古墳」 2019.09.18(水) さくら花花さんのブログより)


実は日本のピラミッドについてはすでに記事にしました。二世紀初頭の奴国のクーデターで殺されたスサノヲ大王の弟ニギハヤヒが広島県庄原市の日本ピラミッド葦嶽山で奴国宮廷楽師の師升たちへの復讐を誓ったと推理しました(「日本ピラミッドの謎?(改訂版)」)。遺骸は葬られていないと思いますが、これがスサノヲの墓です。ニギハヤヒは吉備を平定して奴国を再興し、ヤマト王権の基礎を築いた第19代奴国王天照大神尊です。楯築王墓に葬られ、楯築神社の亀石が人面蛇体でしたので、中国神話の天皇伏羲と同じです。ヤマトの大王が天皇と呼ばれるのは伏羲の子孫の呉王太伯の後裔だと考えられていたからです。

ニギハヤヒ大王が吉備津彦という名前で祀られている備中国一之宮吉備津神社と備前国一之宮吉備津彦神社は吉備中山の麓に配置されています。吉備中山も綺麗な形をしています。中山の中は那珂・那賀などと同じナーガ=龍蛇神のことなのです。日本中、至る所にある龍(竜)王山と同じ奴国大王を祀る山という意味です。

縄文時代の大湯環状列石がある秋田県鹿角市にもピラミッドがありました。「ピラミッド」の黒又山(秋田・鹿角市)です。スサノヲが縄文海人ムナカタ族の姫伊弉冉尊(いざなみ)の子であることを教えてくれているようです。

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卑弥呼の死後、倭王に立った狗奴国の倭国征討軍の大将の尾張王ヲトヨノミコト(記紀で仲哀天皇とされた人物、神話のカグツチで、愛知県に特に多い秋葉神社の祭神)を討った大国主狗古智卑狗(久々遅彦)が、卑弥呼の宗女で13歳の姫巫女台与(とよ)を女王に立てて、最初に一緒に訪れたのが、卑弥呼のこの三柱山の墓でした(^_-)-☆
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【追加部分】(2023.9.2)
ヒカケ横穴群は恐らく8世紀に藤原氏によってヒカケ三女神社から卑弥呼の墓を直接目視することを阻む目的で土盛りされたところに掘ったと推理しています。ストリート・マップを見ると遥拝所から左手の、現在住宅が建てられている土台の部分の横穴は下に示す横穴よりも後に造られたものではないかと推理しています。その根拠は、この横穴の左側に馬頭観音の石像が見られるからです。上で述べたとおり、ヒカケという地名は卑弥呼が日食が原因で殺害された史実が、記紀神話の女神アマテラスの岩戸隠れのモデルになったことを示唆していると考えられるからです。

そして、馬頭観音は全国では、単に石碑に馬頭観音と書かれたものも見られますが、このような憤怒の形相の観音様は他にありません。wiki「馬頭観音」によれば、11世紀ころから「衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩」ということで仏教寺院で祀られるようになっています。江戸時代以降は、国内の流通に馬が使用されることが多くなり、酷使されて急死した際に供養する目的で置かれることが多くなったようです。



丹後の伝説:40集」に馬頭観音を本尊にしている寺院が三か所あるそうで、若狭で最も古いのは福井県高浜町馬居寺(まごじ、真言宗)だそうです。619年聖徳太子の開基で、大きな伽藍だったそうです。『高浜町誌』に馬居寺の縁起・沿革が紹介されていました。その中に以下のような話が紹介されていました。

東寺文書 「真言宗古義派高野山正智院末馬居寺字上屋敷に在り、寺地百六十二坪、境外所有地五反廿九歩田畑、檀徒六十四人、本尊馬頭観音 堂宇三間三間 門一間五〇とあり。現今の堂宇は延宝五年霜月高森山の木材にて造営、大工高浜江上甚兵衛」とあり又「堂側の小池は、古の放生池にして、中央小島に弁財天を祀れり。」と、此の弁財天今尚存する。-町指定文化財

放生池(ほうじょうち)というのは、捕らえた魚などを放すために設けた池のことで、各地にあります。魚や鳥獣の殺生を戒める宗教の儀式が放生会と言われるもので、wiki「放生会」によれば、インドに起源をもち中国や日本に伝えられたと言います。その日本の中で最初に行われたのが、宇佐神宮のようなのです。「養老4年(720年)の大隅、薩摩両国の隼人の反乱を契機として、同年に誅滅された隼人の慰霊と滅罪を欲した宇佐八幡宮の祝大神諸男と禰宜尼大神杜女による八幡神の託宣により、宇佐八幡宮で放生会を執り行い[6] [7]、石清水八幡宮では貞観4年(863年)に始まり、その後天暦2年(948年)に勅祭となった。養老4年(720年)の大隅、薩摩両国の隼人の反乱を契機として、同年に誅滅された隼人の慰霊と滅罪を欲した宇佐八幡宮の祝大神諸男と禰宜尼大神杜女による八幡神の託宣により、宇佐八幡宮で放生会を執り行い[6] [7]、石清水八幡宮では貞観4年(863年)に始まり、その後天暦2年(948年)に勅祭となった。」とあります。

しかし、wiki「隼人」によれば「隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半 - 8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない[39]。」とあり、藤原氏が土蜘蛛や熊襲と同様に創作したもので、大国主配下の縄文系ムナカタ族の人々と推理しています。

弁財天は宇佐神宮の比売大神で宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼のことですから、殺害された卑弥呼の鎮魂のためだと分かります。宇佐神宮の勅使街道に百体神社があり、朝廷軍は勝利の証として百個の首を持ち帰り、この地に埋葬したとありますから、本当は殉葬するために殺された百余名の奴婢を弔うためだと分かりますよ。三柱山古墳の西側の地名が血野(現在、知野)だったのです。戦国時代に安心院氏の若様がそこで殺されたのでこの地名となったとありますが、多くの人々がそこで惨殺されたイメージから付けられた地名でしょう(^_-)-☆

寺社にある放生池にはたいてい小島などがあってそこに弁財天宮か厳島神社がありますよね。富士宮市の浅間大社の湧玉池にも厳島神社ありましたよ。

それで、馬頭観音の話に戻りますが、「馬頭観音の石仏については、馬頭の名称から身近な生活の中の「馬」に結び付けられ、近世以降、民間信仰に支えられて数多くのものが残されている。また、それらは「山の神」や「駒形神社」、「金精様」とも結びついて、日本独自の馬頭観音への信仰や造形を生み出した[7]。」とあります。奥州市駒形神社の祭神は駒形大神で、天照大御神以下6柱の総称ですが、天照大御神=天照皇大神も「山の神」も「金精様」もいずれも大国主命のことですよ。日本で一番人気の神様です。別名や分身は数えきれませんね(詳細はそれぞれ「古代史のカギを握る神々の正体?」、「天狗の正体もヤッパリ」及び「道祖神もやっぱり」参照)。

馬頭観音の印形が石像の場合、定型の馬口印(まごういん)ではなく、いろいろあるようですが、ヒカケ横穴の馬頭観音の印形は、大威徳明王の檀荼印(だんだいん)に似ていますよ(^_-)-☆



しかし、大威徳明王は「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?」で述べたように菅原道真の本地仏です。そして大威徳明王は六面六臂で水牛に乗った形です。牛頭天王スサノヲの本地仏でもありますから、その子孫の大国主命も連想できます。大威徳明王は馬頭観音とは別であることは明らかですが、卑弥呼は大国主のいとこなのです。卑弥呼の怨霊を大国主の力で抑えてもらおうということを、そっとお願いしているのではないでしょうか?つまりこの石像の作者は当然、卑弥呼や大国主の史実を知っているのだと思います。だけどそれを表に出せないので、弁財天卑弥呼とも大国主とも関係のある馬頭観音にしたということではないでしょうか?

そして、この石像がいつ作られたのかですが、それは横に「皇紀二千六百年」の石碑があるので、多分1940年(昭和15年)ではないかと考えられます。ということは、やはりこの地区には史実を知っている方が居そうですよね。いや具体的に言うのは憚れますが、きっといると思います。ぜひ、地元の伝承をお教えください(#^.^#)


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