刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆

2020-07-17 23:13:56 | 古代史
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物部氏と尾張氏・尾張氏と伊福部氏
2020-07-16 九里 【九里】を探して三千里
 
===*===
何だか、出雲族と物部氏の関係が思っていた様子と違い、物部が出雲いじめ…をしていたようなので、わからなくなってしまった。。私は今、迷子である。
===*===

フォローしているkunorikunori様の記事に上のようにありましたので、当方の調査範囲だったのでつい、いつものように不躾なお節介コメントをしました。

出雲族は縄文海人ムナカタ族(*^▽^*) (刮目天 一(はじめ))
2020-07-17 00:05:58
タイトルのとおり突き止めました。

二世紀初頭に奴国のスサノヲ大王が宮廷楽師らのクーデターで殺され、息子のイタケルが亡き祖母イザナミの実家米子に引き取られ成長し、父のコネで半島南部の鉄素材を仕入れて、父の後に大王となった天照大神尊ニギハヤヒに供給し、ヤマト朝廷の基礎を築いたニギハヤヒの吉備平定を助けました。ニギハヤヒが本当の皇祖神天照大御神です。

ニギハヤヒの子孫が先代旧事本紀のとおり、物部と尾張です。ニギハヤヒ直系の物部氏が纏向に旧奴国王族らを集めたヤマトの大王で狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)だと突き止めました。

イタケルの子孫は代々狗奴国(ヤマトの大王)に仕えたようです。狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦ククチヒコ)を代々襲名しています。

恐らく六代目久々遅彦が尾張王を主将とする邪馬台国連合倭国への追討軍に参加し、北部九州の倭国(師升の子孫が伊都国男王で倭王)を滅ぼしたのですが、尾張王がヤマトを裏切って倭国王になろうとしたので内戦が起きました。結局、久々遅彦が尾張王を倒して、卑弥呼の版図に山陰・北陸などを加えて支配したので大国主と呼ばれました。出雲族は久々遅彦に従ったムナカタ族です。久々遅彦はヤマトの大王の一族の有力者の尾張王を殺してしまったので、卑弥呼の後に同じムナカタ族の姫巫女台与(トヨ)を女王に立て、魏を後ろ盾にして結局ヤマトを裏切って対立することになりました。

そこで、ヤマトの大王は再度、追討軍を送り大国主・台与の倭国を攻め滅ぼしてヤマト政権が列島を支配します。その故事を大国主の国譲り神話にしたということです。ところが、魏の帝位を奪った晋がヤマトの後ろ盾の呉を280年に滅ぼしたので、晋の追討を恐れたヤマトは大国主と台与の子ホムダワケを祭祀王としてヤマト大王(応神天皇)にしました。

考古学などで検証して、これがヤマト王権の成立過程だと突き止めました。

神話はかなり真相を歪曲していますが、歴史を伝えているようです。詳細は刮目天の古代史へどうぞ。突然、失礼しました。




ご解説、わかりやすく、ありがとうございます!! (kunorikunori)
2020-07-17 11:34:08
とても分かりやく解説をいただきありがとうございます!
刮目天 一 (はじめ) 様

素人の私にもわかりやすいご解説をいただき、ありがとうございます。素晴らしくクリアに!!
羨ましく思っております。

『大国主と台与の子ホムダワケを祭祀王としてヤマト大王(応神天皇)にしました。』ということは、神功皇后が台与という説ですね! 妹も「豊姫」なので、関係がありそうと思ってはいましたが…

宗像族が籠神社のルーツとして、伊福部氏とも関係する様なのです。(森公章氏説)

また、貴ブログによりますと、尾張王が「仲哀天皇」の説があり、説得力がありました。
ありがとうございました。

久里双水古墳に関しても、その久里氏が石見では久利氏となり、近江では九里氏となった…などお聞きおよびではないでしょうか?

久里双水古墳の付近に神功皇后が鏡を鎮めたという伝説もあり、気になっております!

武内宿禰の伝承も近江八幡奥嶋にもあり、紀氏(和邇氏も)も入ってきているので、何かあるとは思うのですが。
思うだけで、さっぱりすすんでいないので、貴ブログで学びたいと思います。

コメントありがとうございました!!


早速、お返事、ありがとうございます。しかも貴兄のような古代氏族調査の達人からお褒めの言葉を頂き、舞い上がりそうです。ご存知のとおり、古い神社伝承は大和朝廷に気を使って記紀神話を表に出していますから、神社伝承をまともに受け止めると藤原氏にとって都合の良い歴史に改ざんされているので、訳が分からなくなります。

古代史が謎なのはその所為でしょう!

しかし一方で、真相解明のヒントを与えてくれるかもしれません。

末社や摂社などに本来のご祭神が隠されて祀られているようです。

これは分かり易い例ですが、前方後方墳の最古級のものが神郷亀塚古墳と言われていますが、乎加(おか)神社という古社の社地にあります。豊岡姫を祭神として白山比咩神を配神としていますから、豊岡姫の正体は豊受大神=女王台与(トヨ)だとすぐに分かります。(2020.7.18 赤字追加)

どうも台与の実家がここに在ったのではないかと想像しています。台与をモデルにした息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと『古事記』) 神功皇后息長宿禰王が父で、母親は葛城高顙媛とあります。三世紀前半(220年頃)と推定される神郷亀塚古墳の「木槨墓は朝鮮半島から伝わった埋葬法で、東側(第1主体)にある大きな木槨墓(幅1.3m、長さ4.6m、深さ1.2m)がつくられた後、西側(第2主体)の小さな木槨墓(幅1.15m、長さ3.5m、深さ1.1m)ができたのだろう。」第3次調査現地説明会報告にあります。台与の一族が被葬者かも知れませんね。

後の近江(米原から長浜)を支配した古代豪族の息長氏の祖は、Wiki[息長氏」によれば「『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とするとされている[3]。」とあります。また、「息長の名義発祥の由来は、上古から持つ製鉄・鍛冶に関する技術からこの氏が生じたとみられる[2]。」とあり、製鉄の遺跡を調べました。近江の古代製鉄は盛んで、「滋賀県下の製鉄遺跡は、南部に逢坂山、南郷・田上山、瀬田丘陵があり、西部は和邇、比良山麓、北部には今津、マキノ・西浅井、浅井の計8か所に大別することができる。」岡野実「古代史に遊ぼう」第46回古代の鉄)とありましたが、弥生時代では彦根市妙楽寺遺跡の集落で弥生後期の土器と不明鉄製品が出土しています(川越哲志編「弥生時代鉄器総攬」電子印刷(株)2000,p.50)。

近江八幡奥嶋大嶋神社奥津嶋神社を見つけました。御祭神が大国主神(大嶋神社)・奥津島比売命(奥津嶋神社)となっていますが、境内社が七社(日觸神社、日吉神社、四宮神社、喜佐伊神社、行司神社、白山神社、綾神社)あり、白山神社は台与を祀っています。この境内社の筆頭の日觸神社が気にかかります。なんと、同じ近江八幡市に主祭神 を 誉田別尊、息長足姫尊、比賣神とする日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)があるじゃないですか(^_-)-☆

日牟禮(ひむれ)が、日觸(ひふれ)=日触のことだったのです。

日牟禮八幡宮の比賣神、つまり宇佐八幡宮の主祭神比咩大神が卑弥呼と突き止めています。

日触のために霊力が衰えたとして伊都国男王に殺されたと推理した卑弥呼を祀っているのです。



念のために日牟禮八幡宮の由緒を見ると、「日觸の転とする説があり、和珥・日觸使主に由来します。」とあります。和珥氏はWikiによれば、「出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した日の御子信仰[1]または太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団とする説や[2]、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説がある[3][4]。」

和珥氏は、卑弥呼の一族である縄文海人ムナカタ族の一派じゃないでしょうか?!

日触が原因で殺された卑弥呼の祟りが起こらないように密かに祀っているのだと思います(^◇^)

kunorikunori様、感謝!お陰様で今晩は興奮して寝られないので、安心院蔵を呑んでいます。
邪馬台国の香りがするいい焼酎ですよ。機会があれば、是非、呑んでいただきたい(^◇^)
あ、九里双水古墳についてはまた調べたいと思います。それではまた、よろしくお願い致します。



と記事を書きましたが、触と蝕は発音は同じだが意味が違うので日触と日蝕は意味が違うかもしれません!
前者はどういう意味かも今のところ不明ですが、日牟禮八幡宮の由来の一つにあった日群(ひむれ)の社は「日輪」が二つ見えたということかしら?!(*⌒▽⌒*)
酒がさめてきて調べて分かりました
ということは「ひふれ」ではなく「ひむれ」が元々の呼称だったのでしょうか?では何ぜ日触となったのか?疑問が湧きますよね(;一_一)
日食で卑弥呼が死んだもう一つの証拠だと早とちりかもしれませんね!ぬか喜びだったらすいません!(*_*;
(2020.7.18 赤字追加)

日群(ひむれ)=日蝕(日食)という説を発見しましたのでコメントしました。ご覧ください(*^。^*)

どなたか出典をご存知でしたらご一報ください(*^▽^*)

【関連記事】

卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)

古代史の謎を推理する(^_-)-☆



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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ひむれ=日食 (刮目天 一(はじめ))
2020-07-18 11:01:40
日牟禮八幡宮の薪能「日触詣」を調べたら、以下のページを発見しました(^_-)-☆
近江八幡「日牟礼八幡宮」・・・二つの日輪!
2009-12-19 10:55:33
https://ameblo.jp/tokkosan/entry-10410549718.html



応神天皇のご覧になった「二つの日輪」、「ひむれ」とは・・・

それは・・・太陽を再び見る、二回見る・・

「日食」のこと皆既日食 だったようです。('-^*)/ 


日触(日食) → 二つの日輪 → 日群 → 比牟禮 ビックリマーク

日食 
返信する
こんなのも見つけました。 (kunorikunori)
2020-07-18 20:57:25
刮目天 一(はじめ) 様

コメント入れさせていただきます。
「火まつり(松明祭)近江八幡市日触山日牟礼八幡宮」
山の名前が「日触山」になっておりました。
今まで気にしたことがなかっただけに、びっくりです。

https://books.google.co.jp/books?id=d-MLAQAAIAAJ&q=%E6%97%A5%E7%89%9F%E7%A4%BC%E3%80%80%E6%97%A5%E8%A7%A6&dq=%E6%97%A5%E7%89%9F%E7%A4%BC%E3%80%80%E6%97%A5%E8%A7%A6&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi1j_uR39bqAhUNK6YKHTQqAuwQ6AEwAHoECAMQAg
返信する
Unknown (katumoku10)
2020-07-18 22:08:09
kunorikunori様
早速、よい情報を有り難うございます!
なる程、八幡宮の山が日触山だったのですね!やはり、このあたりで日蝕が観測されたと考えるべきか?あるいは和邇氏がここで卑弥呼を祀るために社としたのか?
歴史改ざんの犯人不比等の歌に日群れの社と出てくるならば、日蝕神社が本当の名前だったのを強権で日群之宮と変えさせたら、地元は日触として朝廷と妥協したのではないかと想像できますね?ちょっと込み入った話ですが、どうでしょうか?o(^o^)o
当時の近江は鉄を抑えてましたから朝廷に対しても発言権はあったのではないかと想像しますが、どうでしょうか?
色々楽しい推理ができました!どうも有り難うございました!(*⌒▽⌒*)
返信する
Unknown (katumoku10)
2020-07-18 22:49:08
八幡宮のwikiによれば、「持統天皇5年(691年)、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)。」とあります!
不比等は卑弥呼の霊を祀る日蝕神社に参拝して、社名変更を迫ったようです(*`Д´*)
返信する
近江探訪 (刮目天 一(はじめ))
2020-07-19 11:50:06
日牟禮八幡宮と大嶋神社・奥津嶋神社について調査された酔石亭主様のブログが素晴らしいです。ご興味のある方は、既にご存知なければ、是非どうぞ(^_-)-☆

近江探訪 その48 2016.11.27 
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-2313.html 

から その52まで (*^▽^*)

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