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「空白の150年」に何があったのか?(その5)景行天皇の正体?

2023-09-15 14:26:25 | 古代史
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2023.9.16 景行天皇の九州遠征図に、川床遺跡の内容と尾張王建稲種命に仇討ちされた、当時80歳くらいだった赤坂比古(卑弥呼の弟)の墓を記入し、一部修正しました。この古墳は卑弥呼の墓に次ぐ、直径約140mの日本最大級の巨大円墳です。墳頂に愛宕神社が建立されていたので、被葬者の赤坂比古が愛宕権現と呼ばれた人物だと推理しました。愛宕は縄文海人ムナカタ族の祖神でイザナミの父と推理したアタカタスノミコトの子孫という意味で、4世紀に応神天皇の後に和邇氏が台頭し、祖神を祀ったと推理しています。愛宕信仰は和邇氏によってその後も全国に広められたと推理しています(詳細は愛宕権現の正体は赤坂比古か?参照)。また、同じく80歳くらいで戦死した大国主久々遅彦は高良山の西麓の祇園山古墳に葬られたと推理しました(詳細は卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?参照)。よろしければご確認ください(#^.^#)

卑弥呼の死後に男王に立って大国主勢に殺された尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀の仲哀天皇、秋葉神社の祭神カクツチ)の子建稲種命(タケイナダネノミコト、熱田神宮祭神、記紀の景行天皇、ヤマトタケルのモデル)は纏向遺跡では珍しい前方後方墳メクリ1号古墳で父を弔って、尾張王継承の儀式を行ったと考えています。周溝部の土器から古墳時代初頭(三世紀後半)の築造と見られます。この古墳のサイズが全長28m、後方部長19.2m、前方部長8.8mです。乎止与命は前述のとおり、大国主に加勢した赤坂比古に鳥栖市まで追い詰められて討たれ、九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと推理しています。赤坂古墳が全長24m、後方部一辺約16mの正方形で前方部の長さは明確ではないようです。築造時期は赤坂古墳の方が先のはずですが、同様な規模ですから両者は符合します。前回お話ししたように、新尾張王建稲種命は父を討った大国主と赤坂比古、そしてそれまで繋がりが深かった息長宿禰王と姫巫女台与にまで裏切られて、彼らに強い復讐の念を抱いたと思います。

「日本書紀」では史実を誤魔化すために景行天皇の九州遠征・熊襲退治の話にしていますが、「日本書紀」にその模様が詳しく語られていましたので、恐らく建稲種命の遠征の伝承をもとに作り変えられたと見ています。また、前回述べたとおり狗奴国勢の中でも、特に尾張勢は鏡作りの得意な集団ですから、青銅器製造に慣れているので、銅鏃を使用していますので、古墳時代初頭の戦闘の模様は、弥生後期の倭国大乱期と同様に鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて分かりました。この景行天皇の遠征ルートに一致した出土状況を見つけたので日本建国の戦いの史実を解明できました。下に景行天皇紀の九州遠征ルート図と、右に日本書紀の内容と、それに該当するルート沿いの倭国側の集落の戦闘の痕跡が見られる遺跡を表に記載しています(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)から(その4)」参照)。

(左クリックで拡大します)

建稲種命の軍勢は、倭国勢に気付かれぬように、纏向遺跡から出発し、瀬戸内航路で吉備まで行き、高梁川を上り、庄原・三次を経て江の川を下って、まず前回の江津市の無防備な集落波来浜遺跡(ならはまいせき)を襲撃したと推理しています。砂丘の墓地から銅鏃が8個も出土しています。景行天皇紀は、十二年秋七月に熊襲が背いたという報告を受けて八月十五日に筑紫に向けて出発したとあります。筑紫の領域は、豊前と呼ばれた現在の北九州市門司区から田川郡・田川市、京都(みやこ)郡、行橋市などを除く福岡県の大半の領域です。大国主の居城は久留米市高良山に神籠石と呼ばれる石垣を巡らせた山城を築いた高良大社だったと考えています。(「神籠石は最初に誰が作った?」参照)。ただし、大国主の別名が金山彦ですので、恐らく西日本の中央構造線に沿って産出される水銀朱(辰砂)などを若くて活発な妃の台与を伴って探索しており、常に高良山城に居たわけではなく留守する方が多かったはずです。

しかし、前回述べたとおり、266年に倭女王が西晋に朝貢した後では大国主は70歳後半だと思いますので、晩年は高良山城に居たと思われます。台与は247年頃13歳で外交上女王に立てられていますので、30歳を過ぎた年齢で、一か所にじっと留まってはいなかったことは、台与をモデルとした神功皇后の伝承地が北部九州各地に見られるので分かります。ただし、三韓征伐や東征は作り話ですが(;´Д`) 

「日本書紀」で景行天皇は九月五日、周芳(すわのくに)の娑麼(さば、佐波)ですから防府市に到着したとあります。約二十日かかっていますので、日本海側の益田から津和野経由で佐波川を下って再び瀬戸内の周芳に出たということになります。後で根拠を述べますが、500名程度の軍勢と考えられます。十人乗りの丸木舟で五十漕くらいの船団になります。従って、吉備から瀬戸内海航路を通過するルートを採ると大国主側の高地性集落の監視所から発見されやすいので、見つからないように迂回したのではないかと推理しました。

天皇は佐波で、以下に示す九州東部のいずれも要害の地に住む賊の情報を収集して、おびき寄せてだまし討ちして殺したとあります。宇佐の川上の鼻垂(はなたり、駅館川上流の宮ノ原遺跡)、御木(みけ)の川上の耳垂(みみたり、山国川上流の日田市吹上遺跡か?)、高羽の川上の麻剝(あさはぎ、彦山川上流の田川市冥加塚遺跡か?)そして緑野の川上の土折猪折(つちおりいおり、深倉川上流の田川郡添田町の集落か)は大国主配下の部隊です。宮ノ原遺跡にはすでに述べたとおり、卑弥呼の墓「三柱山古墳」や父の墓「奥城古墳」もありますので、守備隊が駐屯していたと考えられます。赤坂比古は鳥栖市安永田遺跡を新たな根拠地としていたと考えています。卑弥呼の宮室だった三女神社の西側のV字溝で銅鏃が1個発見されていますので、尾張勢が攻撃した痕跡だと考えています。

天皇は豊前国の長峡県(ながおのあがた)を行宮としたとあり、京都(みやこ)郡との地名の由来になっていますが、当初は佐波から田川市を経由していきなり大国主の本拠地の朝倉・久留米方面に向かうことを考えていたようです。ですがうまくゆかず、次の作戦として日田市の大国主軍を叩いてから一気に筑後川を下り、大国主の本拠地を襲おうとしたのだと推理しています。しかしここでも、残念ながら大国主勢に跳ね返されたので、大分県大野川流域の鍛冶集落群を襲って、阿蘇山麓から菊池川を下って玉名市より有明海に出て筑後川を溯って、高良山城を襲うつもりだったようです。しかしここで、すでに矢が尽きたようです。仕方ないので椿の木で棍棒を作り、精鋭に大国主軍(五人の土蜘蛛の軍勢)を襲わせた模様です。しかし竹田市小園遺跡で撃退され、多くの兵士が負傷した模様です。海部郡宮ノ浦まで撤退し、そこから海岸線を南に下り、西都市高屋神社まで落ち延びたようです。建稲種命の兵士の墓と推理した宮崎県児湯郡新富町川床遺跡について以下のように説明されています。
円形、方形周溝墓44基、土壙墓149基で構成される集団墓で、鉄刀、鉄鏃などの鉄製品が91点副葬されていた。弥生時代後期の遺跡らしい。個々の墓の副葬品は少なく各墓で1,2個、殆どの土壙墓では鉄鏃1個が副葬されていた。また、周溝墓では鉄刀などが副葬されているが、宗教的な豪華な副葬品はない。その様式は北九州のものらしい。」(tnomuraのブログより)

ということは、大野川上流の戦いで一人当たり、致命傷となる1、2個の矢が命中した模様です。負傷した者を舟に乗せて落ち延びたのですが、この地で力尽きて亡くなったので埋葬したと考えられます。円形、方形周溝墓は士官クラスのもので、土壙墓は兵士のものでしょう。そうすると士官一人当たり3.4人ですから士官は一族郎党の3、4人兵士を引き連れていた小部族の族長と考えられます。鎌倉時代の馬に乗る甲冑の武者もその程度の数の部下を連れて出陣していた模様ですから、兵の構成は古墳時代からあまり変わっていなかったようですよ。そして怪我人を連れての逃避行ですから無傷ないし軽傷の兵士は最低でも重傷者と同数と見ていいと思います。最初の九州東部の戦闘では矢戦さが主だったと考えられますので、さほど負傷者はいなかったと見て、建稲種命の率いた軍勢の当初の規模は、上で述べたとおり、せいぜい500名くらいだったと考えています。

兵を半数近く失った建稲種命は、二年ほど南九州で過ごして、狗奴国からの増援部隊を待ったのだと考えています。そしてようやく援軍が到着し、部隊を整えて熊本県芦北町(葦北の小島)から八代に出て、島原市高来県(たかくのあがた)に行ったことが景行天皇紀に書かれています。島原市(旧高来郡)今福遺跡の溝から銅鏃が8個も出土しています。当初の規模程度の軍勢で今福遺跡を攻撃した模様ですので、増援部隊が銅鏃を持って加わったのかも知れません。さらに玉名市から阿蘇山に登ったと書かれていますが、途中の大国主側の菊池市西弥護免遺跡の住居跡から鉄鏃が100個程度出土し、溝から建稲種命勢のものと見られる鉄鏃が2個出土しています。銅鏃ではないですが戦闘の痕跡と見られます。ここで銅鏃を使い果たしたので大国主勢の射た鉄鏃の矢を拾い集めて再使用したと思われます。さらに阿蘇郡下山遺跡の溝からも鉄鏃が1個出土し、住居跡に銅鏃1個が出土しています。

その後久留米市の野畑遺跡の溝や浮羽郡長島遺跡のピットから鉄鏃が1個づつ出ていますので、これらも戦闘の痕跡と見ています。景行天皇はここでヤマトに帰還したように書かれていますが、実際は小郡市三国の鼻遺跡の環濠から鉄鏃が5個、福岡市井尻B遺跡の溝から鉄鏃1個、糸島市三雲遺跡の溝から鉄鏃1個が出土していますので、さらに北上して戦闘があったと分かります

そして台与の墓と推定した糸島市平原王墓の周溝から鉄鏃が10個も出てきています。古墳時代初期によく見られる割竹形木棺の中に朱が大量に入っており、女王のものと分かるガラス製勾玉、瑪瑙製管玉、ガラス製小玉などの豪華な副葬品が見られます。また八咫鏡と見られる大型のものをはじめ40枚の銅鏡が出土しています。卑弥呼の鏡も受け継いだと思われます。さらに、棺の蓋に素環頭大刀が一振り載せられていましたので、まだ若い台与は武器を手にして最期まで建稲種命の軍勢に抵抗して討ち死にしたものだと推理しています。男勝りの活躍をした神功皇后の女傑のイメージがこの時にできたのだと思われます。

尾張王建稲種命の敵討ち話が記紀では景行天皇の熊襲征伐の話に変えられていますが、以上のとおり、天皇の移動ルートから戦闘があった証拠となる銅鏃や鉄鏃の出土状況から推理できました。建稲種命はその後すぐに尾張勢を連れて纏向遺跡に凱旋し、卑弥弓呼大王に直接報告したのだと思います。この戦乱の結果、九州各地は卑弥弓呼大王の配下の物部勢が残留して、占領した模様です(鳥越健三郎「弥生の王国」中公新書1994、pp.177-189)。後でまた述べるつもりですが、これ以降九州全土は豊前地域を除きほとんど物部氏の支配下になっていますので、六世紀の筑紫磐井や七世紀の中大兄王(注1)の勢力基盤は北部九州ですが、この時に作られたものだと推理しています。なお、この仇討ち話は後世「さるカニ合戦」として伝えられています(「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」参照)。サルは猿田彦大神で大国主の別名です。カニは当時の伊勢湾はカニが大量に生息していたので、尾張の代名詞になっていたと分かりました(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。

(注1)「日本書紀」孝徳天皇紀に「中大兄を皇太子にした」とあるだけで、すべて中大兄までで中大兄皇子とまでは書かれていません。ヤマトの大王として即位していないことが万葉集研究家渡辺康則氏が突き止められていますが、今上天皇の祖神ニギハヤヒ大王の子孫敏達天皇の孫ではないかと推理しています(「万葉集があばく 捏造された天皇・天智<上><下>」大空出版2013)。

(つづく)




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