刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆

2022-02-18 00:00:16 | 古代史
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2020-02-01 10:59:26に記事にしましたが、土器のド素人の刮目天が調べたものをもとに図を作成し、考察していました。その後弥生時代から古墳時代前期にかけて日本列島各地の土器の併行関係が考古学者によって示されましたので(【付録】参照)、それに基づき図を改訂しました。あやふやだったところが明確になって仮説を支持するものになっていました。ちょっと煩雑な話ですが、重要なところですのでお付き合いください。

邪馬台国大和説は纏向遺跡が女王卑弥呼の都(みやこ)邪馬台国としている。その旗頭は著書やシンポジウムなどで大和説論者として活躍されている大和の考古学の第一人者の石野博信先生だ。昨年の2019年4月にも「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」(新泉社)を出版されて、そこで改めて大和説を主張するようになった根拠を「纏向遺跡は邪馬台国の候補地となるか」(pp.120-141)を中心に述べられているので、今回は主としてここを話題にしたい。

卑弥呼が使った土器は何式か?という話から始まる。卑弥呼が登場する前の「倭国乱」が起こった時期について「魏志倭人伝」では「その国も、もとは、男を王としていた。男が王となっていたのは七、八十年間であったが国が乱れて、攻め合いが何年も続いた。そこでついに、一人の女性を選んで女王とし、卑弥呼と名付けた。」(藤堂明保他、「倭国伝」講談社学術文庫2010,p.111より)とある。范曄の「後漢書」には「倭国大乱」の時期を「桓帝・霊帝の間(一四六~一八九年)」(同書p.32)とあるのを「梁書」に後漢霊帝の「光和年間(一七八から一八三年)」と書き替えてあるので、「卑弥呼が女王の位についたのは一八〇年代末から一九〇年頃となる。」とされた。そして「魏志倭人伝」に二四七年か二四八年に卑弥呼が死んだとあり、さらに次の女王台与が仮に二八〇年ころまで続いたとすればとして、西暦一九〇年から二九〇年頃までが邪馬台国時代としている(石野同書、pp.121-122)。

しかし、卑弥呼が女王に共立された時期だが、「倭国乱」が光和年間までで終わるということは「魏志倭人伝」のどこにも書いていない。「後漢書」は「倭国大乱」が始まったのは桓・霊年間だろうとしたのを「梁書」ではさらに光和年間に絞ったようで、光和の直後に乱が収まったというその根拠は怪しい。元々「魏志倭人伝」では男王がいた時期は、その男王を、107年に後漢に朝貢した師升王とその系統と考えると「魏志倭人伝」や「後漢書」では桓帝の時代から乱れ始めて霊帝の頃までは師升の一族が倭国王だったと考えられるが、その後は誰が王か分からない程本格的な混乱が長く続いたと考えられる。混乱が長年続いてようやく卑弥呼が登場すると考えるべきだ。

何故なら「魏志 韓伝」では桓帝・霊帝の頃に半島でも濊人・韓人が強盛になって混乱したとあるので、「倭国大乱」の時期と重なるのだから、半島情勢と連動していると考えられる。そうすると、半島情勢が収まる時期までは倭国乱が続いたと考えられるのだ。つまり公孫氏が204年に帯方郡を設置した時期だ。半島が静穏化したので、倭国では敵対勢力と話し合って女王を共立して混乱が収まったということだと推理できる(注1)。

図は纏向遺跡の築造と関わりある唐古・鍵遺跡と一緒に、纏向遺跡の遺構・遺物の変遷を示すものだ。卑弥呼が女王に即位する時期が丁度、纏向遺跡で大溝が掘削され、遺跡が成立する時期なのだ。だから邪馬台国大和説では女王卑弥呼が纏向遺跡を都として造ったのだとしている。だが、女王の即位と纏向遺跡が成立する時期が同じだからと言って、纏向が邪馬台国だとは言えないことは、纏向遺跡の外来系土器から分かるのだが、これについて以下のように書かれている(石野、同書pp.129-130)(注2)。

纏向遺跡では、その土器の分布状況からきわめて特徴的なことがわかってきた。出土した他地域の土器=外来系土器だ。九州系の土器では筑紫と豊後の土器がある。瀬戸内海沿岸の伊予・讃岐・阿波と日本海沿岸の出雲・伯耆・因幡などの土器、北陸・東海・関東の土器もある。これはいったい、どういうことなのか。他地域の土器がどのくらいきているかというと、調査地点によって異なるが、全土器量の一五から三〇パーセントくらいの割合で出土している。
<途中略>
土器が動くのではなくて、人が動いて土器が動く。たとえば大分の人が大分の名産物を壺に入れて持ってきた。それがカラになって捨てられて、いま遺跡に落ちていると考えるのが普通で、単純に言い直せば、一〇〇人のうち一五~三〇人は外来の人たちがいる街、それが纏向だということになる。一〇〇人のうち三〇人が外来人の街というのは、この時代の普通のことかといえばとんでもないことで、三世紀の近畿の一般的集落では一〇〇人のうち三人から五人が普通だ。たとえば大阪府の池上曽根遺跡とか、あるいは奈良県の唐古・鍵遺跡などの、近畿地方の弥生時代の大集落ではよその地域で作られた土器が出てくるが、その数は三パーセントから五パーセントだ。したがって、街の中を一〇〇人のうち三から五人くらいの外来の人がブラブラ歩いているのが普通で、二〇人から三〇人になると、これはきわめて異常ということになる。
<途中略>
邪馬台国はどこにあるかは、外来系の土器、よそから来た土器がたくさん落ちている所を探せばいい。いまも田圃・畑に土器片は落ちている。これらの土器片の分布調査をていねいにおこない、その土器片がどこでつくられたかを一所懸命に調べれば、発掘しなくてもある程度都市的な要素を持った候補地を探すことができる。そういう点からみても、纏向という遺跡は邪馬台国の候補地の一つになると思っている。

という主張から、纏向遺跡の外来系土器のデータを見つけた。オリジナルの図では石野・関川が1976年に提案した旧編年で時期が示されているので、年代が示されている現在の纏向編年(石野同書p.123の図)との対応を調べて赤字で記載した(ズバリ対応表が見当たらなかったので素人の刮目天が調査した。間違いがあれば指摘してください、と書きましたが前文のとおり改訂したものを下に示します)。(2022.2.17 赤字追加)



確かに、日本列島の様々な場所の土器がきているが、このデータでは外来系土器は15%で、その約半分は東海のものだ。外来系土器が30%というのはどういうことなのか全く不明だ。そして器種は甕が60%以上ある。纏向遺跡では各地域の首長層が居住する掘立柱建物が数多くあることが分かっているので、その従者が米などを煮炊きしたということなのだろう。水田はない純粋の政治的な目的で人々が集まった都市なので、唐古・鍵遺跡から外来の人々のために食物を運んできたのだろう。

そこでこの図からは先生が主張する筑紫や豊後の土器があったのか全く分からない。しかし同書の中に、筑紫と豊後の土器の記載を見つけた(石野同書pp.158-159)。

まず筑紫の土器だが、卑弥呼の治世に造られたとする勝山遺跡から鍛冶製鉄に使う送風管の先端部(ふいごの羽口)の断面が北部九州で見られるかまぼこ型の土器の破片が出土していた(纏向勝山遺跡1次調査)。近畿では断面形状はちくわ型なので、多くのヒトやモノが集まる卑弥呼の都と考える纏向遺跡にも北部九州の鍛冶技術が導入されていたということなのだ。

しかし勝山遺跡から布留0式土器が見つかっているとWIKI「纏向勝山古墳」にあったので、勝山遺跡が造られた時期は纏向4類の後期、およそ270から280年頃になるのだ。この時期は卑弥呼の時代ではなく、次の女王台与が西晋に朝貢した266年よりも後だ。刮目天が、纏向ヤマトに倭国が滅ぼされ、ヤマト勢に北部九州が占領されたと推理した時期なのだ。だから北部九州の人々は纏向にはきていないが、北部九州を占領したヤマト勢の誰かが纏向ヤマトに北部九州の鍛冶技術を持ってきたと考えれば、北部九州の甕が出土していない事実と合致するのだ。

また、豊後の土器は国東半島の安国寺遺跡のものらしい。安国寺遺跡から大和型纏向甕の完成品が二点出土しているので、これも上と同じヤマト勢が国東半島を占領した時期に、ヤマト側の人間か安国寺遺跡から在地のわずかな数の人が纏向にやって来たという解釈でつじつまが合うのだ。

つまり、卑弥呼や台与が支配していた時期には纏向に北部九州の人間はほとんど来ていなかったことを外来系土器のデータが示しているからだ。

「魏志倭人伝」には、北部九州の伊都国に一大率を置いて、女王への贈り物をチェックして届ける任務があると書かれている。それをそのまま信じれば、纏向遺跡に北九州の人々が来た痕跡がほとんどないのは、纏向遺跡が邪馬台国ではないからだと考えられる。

もしも「魏志倭人伝」の一大率の記述がデマだとすると、陳寿や関係者が何故デマをいうのか全く分からない。伊都国は奴国の時代から対外交易センターの役割を担っていたという物証が数多くあるわけだから、一大率を置く伊都国を経由しないで壱岐や対馬や狗邪韓国から直接、邪馬台国に女王への贈り物を運ばなければならない理由はない。邪馬台国が纏向遺跡であればなおさら地理的に別のルートがあるはずないし、大率に秘密にしなければならない理由も考えられない。

もしも邪馬台国が纏向に在ったのならば、女王が住まう政治都市である纏向遺跡には多くの人々を抱えているので、都の外部の様子を女王に知らせる役割の部下も居るのが自然だから、女王は国内外の情報を適宜入手しないと国を統治できないのだ。伊都国側が誤魔化すこともできないだろう。

だから、纏向に北部九州の人の痕跡がほとんどないということは、纏向が女王卑弥呼の邪馬台国でない事実を示す決定的な証拠なのだ。

北部九州との交流の痕跡はふいごの羽口だと言っても、それでは北部九州の冶金技術者らが来たという証拠にはならない。もしも勝山古墳の築造期が邪馬台国の時代だとすると、纏向ヤマトの人間が北部九州の冶金作業場から盗んできたか何らかの手段で入手したのであって、北部九州の人間が纏向を訪れたという証拠にはならないのだ。つまり北部九州と纏向の双方向の人的交流はほとんど見られないので敵対国同士だったのだ。だから纏向のヤマト勢は北部九州勢によって魏・西晋との交流も妨害されていたと考えられるのだ。それが280年頃までの邪馬台国時代の畿内の状況だったのだ(注3)。

そして、纏向遺跡は前方後円墳で代表されるヤマト王権の発祥地であることも間違いない事実だ。ということは、邪馬台国は纏向遺跡ではないので、刮目天の仮説のとおり一方的に纏向ヤマトに邪馬台国が滅ぼされたとしか考えようがない。邪馬台国東遷説は成り立たない。

そして「魏志倭人伝」には明確に、女王に属さない同じ倭人の敵対国として狗奴国が紹介されている。狗奴国は邪馬台国の強力なライバルということで、宗主国である曹魏は黄幢(正規軍の軍旗)を倭国に送って魏が後ろ盾であることを示し、狗奴国をけん制している。敵対する纏向ヤマトは狗奴国であった可能性が高い。

もしも狗奴国が、たとえば北部九州に在った邪馬台国の南に存在する熊本だというのなら、山陰・北陸・吉備・東海などの支配階級の人々が集まる、邪馬台国と交流していない対立している政治都市の纏向ヤマトは一体何者なのか全く説明できない。内外の史料に纏向ヤマトとして邪馬台国と戦った記録が一切見られないが、纏向ヤマトがある時突然、列島を支配したなど到底考えられない。何も記録のない、狗奴国でもない纏向ヤマトに多くの人々が集まって、何をしていたのか全く不可解だ。纏向遺跡で出土した木製の仮面や桃のタネは何のためなのかすらその目的はよく分からない。

また、もしも東海に狗奴国が在ったとするのなら、東海の人々が来ていた纏向ヤマトは何者なのだ?敵対する狗奴国が纏向ヤマトを支配したというのであれば、邪馬台国であった纏向ヤマトが狗奴国の支配国となっているということだから、「魏志倭人伝」の記述と全く矛盾する。

つまり邪馬台国ではない纏向ヤマトは卑弥呼と敵対した狗奴国以外に考えられない。



そこで狗奴国の場所が判明すれば、范曄の「後漢書 東夷列伝倭条」の「自女王國東度海千餘里、至狗奴国」から邪馬台国は瀬戸内海を西に千余里(約450km)渡った宇佐に在ったと分かるのだ。(【関連記事】范曄だけが「魏志の筆法」を見抜いた(^_-)-☆)

「魏志倭人伝」に「鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。年、巳(すで)に長大なれども夫婿無し。男弟有りて国を佐(たす)け治む。王と為りてより以来、見(まみ)ゆること有る者少なし。婢千人を以って自ら侍らしむ。唯男子一人のみ有て飲食を給し、辞を伝えて出入りす。居処・宮室・楼観・城柵、厳(おごそ)かに設け、常に人有て兵を持ちて守衛す。」とある。

卑弥呼の統治を補佐する男弟は、伊都国に常駐する一大率という刺史のような役割の伊都国男王で、倭国王師升の一族だろうと推理できる。この男王が敵対していたムナカタ海人族を懐柔して宗像の卑弥呼を女王に立てた人物だ。倭国の政治の実権を持ち、都市部から離れた要害堅固な居城の中の卑弥呼が太陽神から授けられた神託によって政治を行っていたと考えている。孫栄健さんが推理したとおり、魏朝廷から倭国軍の大将として黄幢を授けられた大夫難升米が男王だろう。

婢千人というのはシナのいつもの大げさな表現だ。卑弥呼が死んだときに奴婢が百余人殉葬したとあるから、女王に仕える婢は百人程度と考えてよいと思う(注4)。そうすると、卑弥呼の居城は宇佐津から駅館川を遡った安心院町の三女神社の在る台地に在ったと分かる。「日本書紀 神代上第六段一書第三の条に「日神が生れた三柱の女神を、葦原中國の宇佐嶋に降らせられた。今、海北道中に在す。なづけて道主貴(みちぬしのむち)と曰す。筑紫の水沼君らの祭神である。」とあり、水沼氏が奉祭したという土地の伝承もあり卑弥呼は三女神とされた宇佐神宮の一品八幡比売大神なのだ。

宇佐平野には全長200mを超す環溝を設けた小部遺跡があり、長官の伊支馬(いきま)が居館を置いて、大分平野などを含む広域の邪馬台国全体を統治していたと考えている。赤塚古墳は前方後円墳であるので、ヤマト勢が宇佐を占領して、その地を支配した将軍の墓だと考えている。

【付録】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




【参考記事】
小部遺跡で古墳時代の大型掘立柱建物が発見されました 宇佐市社会教育課ホームページ

【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)


(注1)中平銘鉄刀が4世紀後半頃の築造の奈良県天理市東大寺山古墳から出土しており、中平は光和の後に続く184から189年。
「「梁書」に「光和の時倭国が乱れて、卑弥呼が女王になった」と書いてあり、「中平」年号の刀があるということは重く考えるべきであろう。」(石野同書、p.132)
その時期はまだ半島は乱れていたから、卑弥呼が女王になったので後漢の朝廷や公孫氏が与えたというのは怪しい。別の目的で作られたこの刀を4世紀にヤマト勢が半島に進出した際に入手した可能性が高い。

あるいは、倭国王が公孫氏から与えられたものだったが、その後、魏の太尉司馬懿が公孫氏を滅ぼしたので、難升米がムナカタ海人族の赤坂比古(卑弥呼の弟)に下げ渡したのかも知れない。(2022.2.17 赤字追加)

(注2)その後の210年頃纏向石塚古墳が築造されている。最初の前方後円墳のようなので、纏向遺跡を造った人物の墓だろう。吉備との繋がりを示す弧文円盤が見つかっている。刮目天は吉備大王天照大神ニギハヤヒの直系で狗奴国王卑弥弓呼が旧奴国王族を纏向の地に呼び寄せて、対邪馬台国問題を話し合ったものと推理している。この石塚古墳は卑弥弓呼王の墓だと考えている。この纏向1式の時期に特に吉備の土器が増えて、その後は順次減少しているのが分かる。大王が亡くなったので、本籍地の吉備から弔いのために多くの人々が集まっているということだろうね(^_-)-☆

(注3)邪馬台国に魏が正規軍の軍旗を届けたことから、敵対する狗奴国は呉を後ろ盾にしていた可能性が高い。呉の紀年銘鏡が山梨県と兵庫県でそれぞれ1面づつ発見されている。つまり、邪馬台国と狗奴国の抗争は三国志の魏と呉の代理戦争でもあったのかも知れない(^_-)-☆

(注4)多分日食によって伊都国男王の命令で卑弥呼の世話をする一人の男に殺されたのだろう。彼が男王に神のお告げを伝える役目であり、宮室に出入りできる唯一の男子にだったから分かる。卑弥呼はいつものように宮室(三女神社)の南西の河原に湧き出ている温泉に入っていたところを突然引き出されて殺されたと推理できる。その場所が日食に因む「ヒカケ」という地名だったのだ。その地に同名の三女神社が造られ、頓宮つまり卑弥呼の墓の遥拝所だったようだ。さらにそのすぐ北側に下市横穴群が掘られており、アマテラスが岩戸隠れした場所だと誰かが示唆したようだ。恐らくその場所に人聞菩薩(にんもんぼさつ)という謎の僧が造ったとの伝承のある乳不動があるから、横穴を掘った人物も人聞菩薩に関係がありそうだ。人聞菩薩は実在人物ではなく宇佐氏の中興の祖の僧法蓮(ほうれん)が関係しているらしい。実際には法蓮か彼の弟子が造ったのだろう。ヒカケの三女神社の西側の摂社は殺された卑弥呼の怨霊を封じ込めるために造られたものだろう。背筋が凍るような霊気が漂っている(;´Д`)

卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?
卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)


最後までお付き合いありがとうございます。通説と違いますので、疑問点などをお寄せください。
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