刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

「空白の150年」に何があったのか?(その6)日本建国の戦い?

2023-09-18 00:40:16 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

「日本書紀」で景行天皇として隠された尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)は、すでに述べたとおり、大国主久々遅彦と外交上女王とした妃の台与(トヨ、記紀の神功皇后)、そして父の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀では仲哀天皇)を直接討ったと推理した赤坂比古(卑弥呼の弟、和邇氏の祖)らを九州遠征して討ちとり、見事仇討に成功しました(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」参照)。

すでに述べていますが、日本建国時代の史実は藤原不比等にとって特に目障りだったので、大国主の国譲り神話を創作して誤魔化しました。高天原の指令を受けて大国主に国譲りを最終的に成功させた主役が建御雷神(タケミカズチ)と経津主神(フツヌシ)とされています。タケミカズチの正体は尾張王建稲種命です。また、『先代旧事本紀』ではフツヌシの霊剣が布都御魂(ふつのみたま)とありますので、建稲種命に従って九州遠征した畿内の物部勢のことです。「日本書紀」の神生みの段の一書に、伊弉冉尊(イザナミ)が火の神・軻遇突智(カグツチ)を生んだことで亡くなったので、伊弉諾尊(イザナギ)がカグツチを斬ったときに生まれた神の孫がフツヌシとされ、タケミカズチの父がカグツチという話もありますので、伊弉諾尊の子孫大国主命に討たれた乎止与命がカグツチに対応します。(「火の神カグツチの正体ってか?」「【刮目天の古代史】出雲大社は新しい名称だった!」などを参照)。

そして、不比等は、藤原氏の祖神として春日大社でタケミカズチとフツヌシを祀っています。また神代で大活躍させた天児屋命(アメノコヤネ)とその妻とされた比米大神も祀っていますが、突然登場するこの比米大神の正体は宇佐神宮二之御殿に祀られている宗像女神市杵島姫卑弥呼だと思いますよ。不比等は相当頭が切れる人物で、現代に通じる合理的な考えのもち主なのですが、やはり神々の祟りは怖いと思ってはいたようですから少しホットしました。でも、かなりサイコパスだと思いませんか?(;´Д`)。

さて、前回の続きですが、建国の英雄の尾張王建稲種命が纏向遺跡で卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)に仇討ちの成功を報告したと思いますが、大王は直ぐに大国主の残党を退治するように命じたようです。記紀では大彦命(おおびこのみこと)、その子武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人の皇族に、それぞれ北陸道、東海道、西海道、丹波を平定させた四道将軍(しどうしょうぐん)の話にしています。その後、出雲を吉備津彦と武渟川別命が平定した話もあります。

前回3世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて景行天皇の九州遠征のルートと環濠や溝などで出土した鉄鏃などによって分かる戦いの跡が一致することから解明できました。そこで、同様に纏向遺跡を中心に列島全体を見ると、下図のとおり崇神天皇の四道将軍の遠征ルート上にも戦跡を発見しました。さらに、図には景行天皇の九州遠征ルートと日本武尊(ヤマトタケル)の東国遠征のルートも示しました。武渟川別命の東海道遠征ルートとほぼ重なります。ということで、尾張王建稲種命が実際にこれらのルートを遠征した史実を表していることが分かりました。つまり、「日本書紀」は3世紀後半の日本建国の戦いを隠すために、年代を引き延ばして四道将軍やヤマトタケルの話を創作したということなのです(「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。


(左クリックで拡大)

北陸道に遠征した大彦命(崇神天皇の伯父)は埼玉県行田市稲荷山古墳で出土した鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)の銘文から実在人物と考えられます。しかし大彦命の子とされた武渟川別命はヤマトタケルのモデルの建稲種命を隠すためなので、実在人物ではないと考えています。

また、孝霊天皇の皇子彦五十狭芹彦命(イサセリビコ)が吉備の鬼退治をして吉備津彦の名を貰った話が備前国一之宮吉備津神社の由緒にあり、すでに(その2)で述べたとおり、この人物が物部氏の祖ニギハヤヒと推理しています。「日本書紀」孝霊天皇紀で弟稚武彦命(ワカタケヒコ)を吉備臣(きびのおみ)の先祖としているので、もしも実在人物ならば崇神天皇に派遣されたのは稚武彦命なのかも知れません。そして吉備は狗奴国の領土ですが、大国主の倭国と接しているので、大国主側に占領されていたのだと考えられます。

第9代開化天皇の皇孫の丹波道主命について、史実を暴露するために9世紀に創られた「古事記」では父である、すでに見た神功皇后の高祖とされた彦坐王(息長氏の祖)としていますので、これらの人物も実在人物ではないと考えています。丹波ですが、「【大発見!】大国主命の生誕地か?」でみたとおり、豊岡市竹野町が高野御子と呼ばれる大国主の故郷なのです。大国主の生誕地を隠すためにタケミカズチが上陸した伝承が地元にあるのですが、そこに誕生之碑が置かれているので、恐らく地元では大国主について隠された誕生の伝承があったはずです。宮津市丹後一之宮籠(この)神社はニギハヤヒ大王を祭神としており、尾張王の配下と考えられる海部氏の系図が残されており、尾張勢が丹波一帯を平定したと考えています。

そして(その3)で示した大国主の倭国とした高温鍛冶炉の遺跡群の分布と上の図の戦跡がほぼ一致していることから、ここでの推論は大体いいのではないかと考えていますが、いかがでしょうか?(^_-)-☆


【関連記事】
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
2世紀後半の倭国大乱期と3世紀後半のデータをGoogleMapのMyMapで共有していますので、ご興味のある方は是非ご覧になっていただき、質問など歓迎します。以下のリンク(1)及び(2)をクリックしてください。
(1)後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)
(2)終末期~古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)
なお記号などの詳細はそれぞれの記事をご参照ください。よろしくお願いいたします(^_-)-☆

(つづく)




通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング