goo blog サービス終了のお知らせ 

明日は明日の風が吹く

明日の事を今日悩んだって何にも解決しない
まぁ何とかなるさ!

まさかの敗走

2010-08-01 16:54:51 | 歴史
トルコ人の侵入にビザンツ帝国の歴代皇帝はただ手をこまねいていたが、ロマノス4世の治世にようやくトルコ人対策に乗り出す。即位後に数度にわたって行われたトルコ遠征で成果を挙げた皇帝は、一気にカタをつけるべく大軍を率いてトルコに攻め込もうとした。さすがに名門ビザンツ帝国の大軍を前にしてびびったトルコ側は和平を申し入れるが、大軍とこれまでの戦果に自信を抱いていた皇帝は申し出を蹴ってトルコとの戦いに踏み切る。 しかしである。ビザンツ帝国はまさかの大敗北を喫し、皇帝は捕虜となって奴隷の印である耳輪を通されてスルタンの前に連行されてしまうのである。

傾き始めた帝国

2010-06-27 19:26:17 | 歴史


バシレイオス2世の元で栄光を極めたビザンツ帝国だが、屋台骨となる税収の安定には皇帝自身の力によるところが大きかったのである。
栄光の時代の水面下で進んでいた危機とは農民の間に貧富の格差が広がり、納税の義務を果たす能力のないものが増えてきたことにあった。しかし、バシレイオス2世は納税を社会の連帯責任とし、貧農が滞納した税を金持ちや貴族に強制的に払わせていた。

ズイブン強引な方法であるが、皇帝自身の軍事的な成功がそれを可能にしていた。

ところが、彼の後継者達は至って無能であるから、このような無茶な政策を維持できず、国家の屋台骨である財政が早くも傾き始める。

おおよそ指導者が有能であるときは多少の強引な施策も民衆が呑み、それが国家の安定をもたらすが、ひとたび無能になると強引な施策の反動から却ってコトは悪い方向へ転ずるものである。

専制国家においては有能な指導者が現れるとその才能を如何なく発揮できるが、無能な指導者がオノレの能力を省みず無茶をすると止める力が働きにくく、トンデモナイ状態になることが多い。

現代社会において民主制が発達した理由とはひとえに愚かな指導者が現れても専横に牽制を掛けやすく、暗君に退場を容易に求められるように民意に諮ることでリスクを低減させることにある。もちろん、これは名君が指導力を発揮しようとしても周囲に足を引っ張られてしまうというデメリットとセットになることは避けられないのであるが・・・・

かつてのプリンケプスの時代に元老院・軍人・民衆に足を引っ張られて危機に陥ったローマ帝国が見出した答え、すなわち強力な権力をもった専制君主によって足を引っ張られることなく施策が出来るという方法はユスティニアヌス帝の大遠征やバシレイオス帝の強力な帝国は実現したが、もはやこの成功のモデルの限界と短所は顕であった。

また、格差の放置は貧困層の労働意欲の低下を招き、牽引するはずの富裕層もこれを支えきれなくなり国力の衰退をもたらす。

だからといって金持ちからふんだくって貧乏人に配ると言うのが下策であることは論を待たない。当然そんなことをされては働くことがあほらしくなる。

貧困層が自力で境遇から脱せないときに、テコ入れして這い上がれる環境を整えることこそ国力の基盤である税収の安定をもたらすことが出来るのではないだろうか・・・

そして、内側から崩れ始めた帝国に新しい敵が現れる。

ビザンツ帝国の後半における宿命の天敵、トルコ人である。

もともとアルタイ山脈のふもとで遊牧を営んでいたトルコ人はやがて彼らの支配者である柔然に反旗を翻し独立を勝ち取り、突厥帝国を築く。やがて東の方で隋朝末期の混乱を制した唐帝国は白村江の戦いで百済・日本連合軍を新羅と組んで破り、さらには高句麗を滅ぼし東方の安定を確保する。唐帝国は北方の東突厥を支配下に治め、遂には3代目の高宗皇帝の代に西突厥を支配下に治める。

そんな祖国が唐の支配化に入ったトルコ人の一部は西方に移動しアラブ人の傭兵になるが、彼ら自身が中東に王朝を造るにいたる。

セルジューク朝トルコである。

そしてセルジューク朝との対外関係、さらにはセルジューク朝がモンゴルに滅ぼされた後もビザンツ帝国を呪縛し続けることになるのである。

栄光のビザンツ帝国

2010-04-18 12:04:06 | 歴史
国家の繁栄の条件は税収が安定して確保されることにある。
ビザンツ帝国においては農村の村単位で徴税するシステムが上手く稼動し、村単位の納税の義務を果たすため農民の没落者を出さないように村人の相互互助が機能していた。
また、ユスティニアヌス帝の時代に蚕の密輸に成功して以来、ビザンツ帝国では西欧で憧れの的であった絹織物を東方との貿易によらず自給される絹糸によって生産していた。

こうした経済的裏付けを確固たるものにした帝国はいよいよ外向きに周囲の脅威を振り払いつつ制圧するようになっていく。

AD963年に即位したニケフォロス2世はクレタ島の奪回を始め東方のイスラム領を次々制圧し帝国の領土を大きく東へ広げる。

しかし、ニケフォロス2世はヨハネス1世によるクーデターに倒れる。

ヨハネス1世の代に帝国に迫ってきたのはキエフ・ロシアであった。ブルガリアを制圧したロシア軍にヨハネス1世は重装備の騎兵をもって迎え撃った。
矢をはじき返す騎兵の突撃の前にロシア軍は逃げ出し、ドナウ川の沿岸まで追い詰められ、二度とビザンツ領を侵攻しないと約束して引き上げていった。

続いて軍隊を東に向け、メソポタミア・シリア・フェニキアの町々を占領する。

ヨハネス1世の後に即位したバシレイオス2世の時代にビザンツ帝国は最盛期を迎える。

軍人皇帝バシレイオス2世は自ら軍隊を指揮し、都コンスタンティノープルにはなかなか戻ることは無かった。
彼は宿敵ブルガリア人との長きに渡る戦争に勝利した。
ブルガリア人の捕虜を1万5千人捕えた皇帝は捕虜を100人のグループに分け、99人の両目をくりぬき、残る1人の片目を残して道案内をさせブルガリア王の下へ送り返した。
あまりの光景に王はショックでポックリ逝ってしまい、やがてブルガリアはビザンツ帝国に併合される。

こうしてビザンツ帝国の周囲には帝国を脅かす外敵はもはや見当たらなくなった。
一方で国内の財政は潤い、財宝を納める蔵に金銀が入りきらなくなったので、地下を掘り下げて蔵を拡張したほどだった。
その気になればローマやエルサレムの制圧も夢ではなかったかもしれない。
しかし、バシレイオス2世はユスティニアヌス帝と違い国庫をスッカラカンにしてまで帝国を広げようとはしなかった。
余力ある遠征の元で帝国はユスティニアヌス帝あるいはディオクレティアヌス帝・コンスタンティヌス大帝以来の繁栄を見た。統一ローマを更に遡ってプリンケプスすなわち第一市民の時代のトラヤヌス帝にまでは及ばないにしても充分過ぎる繁栄が永遠に続くことを確信してバシレイオス帝は永眠する。

しかしである、かつてのパクスロマーナにおいて繁栄の中で危機が進行していたように、バシレイオス帝の時代の繁栄もその例外とはなりえなかったのである。

帝の死後、帝国の絶対的な繁栄は長くは続かなかったのである。

盛り返す帝国

2010-04-11 17:23:38 | 歴史
長きに渡り守勢にまわっていたビザンツ帝国であるが、アラブからコンスタンティノープルを防衛しイスラムの脅威を振り払っていく。
今までローマ帝国としてイタリア支配に拘っていたのをスラブ世界に目を向け、バルカンを中心に国力を充実させる方向に転換する。

かつてビザンツを呪縛したローマの残骸を脱ぐことでビザンツ帝国としての発展の道が開かれる。

この時代においてビザンツが強くなりえたのは、封建制を採る当時の西ヨーロッパに比べ皇帝に権力が集中していたからであった。
おおよそ国家において権力は集権と分権の繰り返しによって極度の肥大化を防ぎ効率的な行政システムを模索するが、ビザンツにおいてはこの時代、まさに集権によって国力を高めたといえよう。

当然専制君主制においては官僚機構が充実していることが存続の秘訣になる。

ビザンツも官僚機構が張り巡らされた国家であった。そして、発展していく時期において中央の高級官僚は僅か600人程度だったのである。

官僚達は概ね優秀で、全国津々浦々の経済状態を把握し、少ない人数で土地の測量や税額の査定、徴税、台帳管理などなどを的確にこなしていた。

悪名高き肥大化した官僚機構がビザンツ帝国を食いつぶし腐敗臭を放つのはもっと後の時代である。

この時代のビザンツ帝国は中央集権のもとで小さな政府を実現させていたのである。

こうして外敵を振り払いながら国力を充実させた帝国はいよいよ外にその力を向け、帝国の栄光の時代へと向かうのである。

ナパームの威力

2010-02-01 20:25:28 | 歴史


ビザンツ帝国がユスティニアヌス帝以降の没落期から再び興隆期を迎える間に、帝国を支える秘密兵器が登場する。

いわゆる「ギリシアの火」と呼ばれるものである。





【社会人】大魔界村 ナパームクリア(魔法なし)2週目


大魔界村では悪評極まりないナパームであるが、レオーン3世の治世下、日本で言えばまだ奈良時代の海上戦におけるナパームは脅威であったに違いない。

このギリシアの火はポンプを使って筒から液体が出ると火を噴きながら海上で燃え上がり、イスラム教徒の艦船を次々焼き払ったのである。

当然これはビザンツ帝国の国防上の最高機密であり、これを外国人に教える者は皇帝・総主教といえども破門にされるというものであった。

これによってイスラム教徒の包囲をビザンツ帝国は解いたのであった。

コンスタンティノープルの城壁とギリシアの火そして彼らの精神的支柱であるキリスト教信仰これらは帝国を守る柱となる。

ロムルスの神話、共和制の名残の第一市民としての皇帝、パンとサーカスが消滅した後、ビザンツ帝国としての新しい支柱を獲得したビザンツ帝国はイスラムの包囲網を説いた後、再び栄光の時代を迎えるのである。



再びパンとサーカスについて

2009-12-02 18:53:08 | 歴史
ヘラクレイオス帝の治世下で消滅した「パンとサーカス」であるが、これがどうして発生して維持されてきたか考えてみたい。

もともとローマは市民が生産・軍事に従事し政治に参加する共和制国家であった。貴族達が元老院を構成しその代表者が統治し、方向性などは元老院の決定こそが重視された。

やがてオクタヴィアヌスが元老院よりアウグストゥスの称号を得て第一市民として帝政を開始すると、皇帝と元老院の間で権力の綱引きが始まることは当然の帰結であった。

歴代の暴君と呼ばれる皇帝たちの共通点は何かといえば元老院と対立したことにあった。五賢帝の真ん中に位置するハドリアヌスも元老院から暴君の烙印を押されようというときに後継者のアントニヌス=ピウスの懇願により暴君認定から免れたのである。

皇帝が権力を振るおうとすれば必ず元老院の反発を誘発し、対抗するには元老院をなだめすかすか、民衆の直接の支持を取り付けるしかなかったのである。

そうなれば皇帝が民衆に賜物を配るというのは当然の成り行きになる。

実際、古代民主制をかなぐり捨てて領土拡大に奔走したユスティニアヌス帝も徹底したパンとサーカスの提供で人心をひきつけたのである。

逆に民主性がマトモに機能するなら、民意が国に責任を負うことになるので、バラマキを行う指導者は民衆の懐疑の対象にされよう。公選された指導者がバラマキによって高支持率を維持するなら衆愚制以外の何者でもない。

被征服者や奴隷を裏付けにして皇帝はパンとサーカスの提供が行えるのであり、これを失ったときに終焉を迎えることは当然の帰結であった。

同時に以降はもはやこの手のバラマキで民衆の歓心を買おうという手が通用しなくなったのかもしれない。

ビザンツ帝国において民主制をタテマエとした古代ローマ帝国では見られなかった女性と奴隷の人権の向上もこうした点と無関係ではなかったと思うのは考えすぎであろうか。

パンとサーカスの終焉

2009-11-20 20:37:59 | 歴史
ユスティニアヌスの再征服によって国力を使い果たしたビザンツ帝国はこの後坂道を転げ落ちるように領土を縮小させる。彼の死後の混乱期に反乱軍を率いてカルタゴから来たヘラクレイオスは救世主と市民達に期待され難なくコンスタンティノープルに入った。
彼が皇帝となったとき帝国はボロボロであったといっていい。
穀倉地帯のエジプトをササン朝に奪われ、その脅威は刻一刻と首都コンスタンティノープルに近づいていた。ここで、ヘラクレイオスは折角手に入れた帝位を捨ててカルタゴに逃れようとしたが、その船が沈んだことを機に都にとどまる決意をしたのである。
まず、彼は戦費を手に入れるために、市民へのパンの配給を停止した。
そして体制を整えササン朝の包囲を撃退し、ペルシア本国に侵攻したビザンツ軍の前に全占領地からの撤退を含む和議をササン朝は余儀なくされる。
帝国は再び栄光を取り戻したかに見えた。
しかし、アラビア半島より興りササン朝を滅ぼしたイスラム帝国により穀倉地帯であるエジプトを再び奪われる。

穀倉地帯からの貢物がなくなった以上、もはや市民へのパンの配給は永遠に姿を消すことは当然の帰結であった。そして、帝国は自らの手で食料を調達できない市民の市外への退去を命じる。

かつてローマ帝国は首都の市民に闘技場や戦車競争などで娯楽を提供し、市民に食料を配っていた。いわゆる「パンとサーカス」である。

だが、この後は即位に伴いいくばくかの金品を配ることと、年に数回の儀式としての競馬を開催することにその残骸を見るのみとなった。この残骸は皇帝達が「ローマ皇帝」を名乗る上で必要なタテマエだったのである。

もはやローマ帝国の名残である第一市民・宗教的多様性に続き、ローマの象徴であった「パンとサーカス」も姿を消した。

帝国は内憂外患であった。

しかしである、国家にぶら下がって生きる寄生虫の如き市民を駆逐することで、ようやくビザンツ帝国らしい身の丈に合った発展への道が開かれたのも事実である。

現代にはサッチャリズムにその再現を見ることが出来る。多くの植民地が独立した後もイギリスは「ゆりかごから墓場まで」の福祉大国であった。その裏付けとなる大英帝国の植民地群をとっくに失っているのも関わらず。

しかし、福祉を切り、労働組合を切り崩すことで長きに渡り悩まされてきた「イギリス病」を克服しイギリス経済は再び浮上するのである。

同様にビザンツ帝国も寄生虫の如き国家からの支給のみを当てにする市民を駆除することで再び今度はユスティニアヌス帝が行った「ローマを夢見て国土に荒廃をもたらす再征服」ではないビザンツ帝国としての栄光の時代を迎えるのである。

試行あっての

2009-09-29 19:22:18 | 歴史
我々人類の営みは多くの屍の上に築かれている。

例えば、現代に生きる私達がてっちりやきのこ汁を安心して食べることが出来るのも、実際に当たって死んだ多くの犠牲者の経験から河豚のどこに毒があるか、どのきのこに毒があってどのきのこが安心して食べられるのか分かったからに他ならない。

未だトラブルが絶えない航空機もかの痛ましき日航ジャンボ機墜落事故を初めとする多くの犠牲者が語りかける教訓の上に少しずつ安全対策が施されてきた。

そうした意味で「試してみる」という行為は誰にも出来ることでなく、試す勇気のある人のお陰で世の中の出来事において入力に対する出力を自らの経験抜きで知ることが出来るといえる。

吉野家で牛丼肉抜きを頼むという度胸のある人間はそうそういないだろう。
他人の経験と音声をもってこの愚行の結果を知ることが出来ると思えばなんともかんとも・・・・


吉野家で牛丼、肉抜きを頼んでみる



あの夢をもう一度

2009-08-13 18:45:16 | 歴史
どんな落ちぶれた国家も過去に栄光の時代があれば、それを精神のよりどころにする。例えば流浪の民、ユダヤ人はティトゥス帝によってエルサレムを落とされ、ハドリアヌス帝によりトドメを刺されて世界を放浪するようになるが、彼らを支えたのはユダヤ教とダヴィド・ソロモンによる栄光の王国であったわけである。

ビザンツ帝国にしてもローマ帝国が東西に分かれた後に再び大帝国となった時代をよりどころとしている。その演出を行ったのはユスティニアヌス帝であった。

彼は古代ローマの復興を目指すべく、ゲルマン人が支配する旧西ローマ領を再征服していく。ローマはゴート族に制圧されるが、そのとき以上にユスティニアヌス帝の攻撃は激しくローマはほとんど廃墟になってしまう。そしてあちらこちらに戦争を仕掛けて旧領の回復を行ったのはいいが、制服にかかる戦費で国家は疲弊しきってしまう。

その後はローマはロンバルド族に制圧され、旧領のほとんどは喪失してしまう。

それでも、ビザンツ人の手でかつてのローマ帝国の旧領を再征服したという事実はビザンツ人の誇るべき精神のよりどころとなったのである。

そう、その後のビザンツ帝国がバシレイオス2世などによって再び興隆の時期を迎えるまで、ひたすら苦痛に耐える時代であったにもかかわらず・・・・

国家と理想どちらが大事か?

2009-07-21 22:36:52 | 歴史
古代民主制のローマ帝国が中世専制国家ビザンツ帝国へと変貌していく中で、よくいわれるのが「そこまでしてローマ人は帝国を存続させたかったのか」という文言であろう。

しかし、後々に物語としてローマ帝国をとらえる私達はそう思うのであるが、もともと国家というものが生活がかかった人々が自分達を守る為につくりあげた共同体である。理想と方向が違ってきたからとおいそれと国家を捨てることは出来ないのである。

かつてギリシア人は古代民主制の理想が衆愚制に呑まれる中で国を半ば放棄した。

結果として気力あるマケドニア人に制圧された後にローマの支配化に入った。

実は国家というのは理想を実現した状態が出現すると、必ず歪がどこかで現れて国家の形態を変えざるを得なくなるものらしい。

もともと国家というのが理想としてのあるべき形があり、それを実現するために構成員としての国民が存在するのではなく、生活のかかった国民が食っていくためにつくりあげた共同体なのだから。

国民が国を捨てるのは国が食わせていけなくなるときである。それでも国民は権力機構をひっくり返すのであって共同体そのものを解散させるわけでないことは後々の革命の歴史が証明している。

そして、ローマからギリシア人が引き継いだビザンツ帝国こそ、ローマの理想の残骸をシンボルとして残しつつ、現実に国家の形を合わせて生き延びた帝国と言える。

ビザンツ帝国を語るときには彼らの国家が生き残ることへの並ならぬ執着心を抜きに語れないと思う。それは島国日本が国家を強く意識しなくても海防に努めれば何とかなってきて、明治以降に国家が生き残ることを強く意識し始めたこととは大きく事情が異なる。

「生き残る」をキーワードにさらに読み進めてみたいと思う。