ディオクレティアヌス帝のもとで迫害に晒されたキリスト教であったが、やがてディオクレティアヌスは自ら退位して隠居する。
この後、西方正帝コンスタンティウスが死去することで彼の実子コンスタンティヌスが即位するとこれを認めない他の共同統治者達との間で紛争が生じた。これを勝ち上がり、まず西方を平定したコンスタンティヌスは東方の勝者リキニウスとミラノ勅令を出す。
内容はキリスト教を含む全ての信教の自由であった。勅令の文章は現代社会にも通用する信教の自由を高らかにうたったものであったが、それが後に中世から脱却するに当たって声高に叫ばなければならなかったのは、この勅令の内容に反する施策をコンスタンティヌス自らが行ったことにあった。
この信教の自由は古代多神教ローマ帝国から中世キリスト教ビザンツ帝国へ移り変わる過程に現れた通り道に過ぎなかったのである。
ずっと後にテオドシウス帝が正式にキリスト教を国教と定め、古代のユピテルを中心とした多神教は姿を消してゆく。
古代ローマ人はコンモドゥス帝の即位以降続いた危機を克服する中で、多神教社会の中で共和制のタテマエを守る為に第一市民と称した皇帝を掲げるローマ帝国から、キリスト教の神により権威を授かった絶対君主としての皇帝の治めるビザンツ帝国へと国家の形を変えたのである。
ここで、ローマ帝国の歴史を扱った多くの著書は共和制あるいは第一市民による帝政に理想を求め、ディオクレティアヌス帝以降のローマ帝国について「そこまでして国を保たなければならなかったのか?」と否定的に捉えているが、果たしてそうだろうか?
「理想と国家どちらが大事か?」についてはまた次の機会で思うところを述べさせてもらおう。