明日は明日の風が吹く

明日の事を今日悩んだって何にも解決しない
まぁ何とかなるさ!

鱈白子とアサリと小松菜のカレー

2022-01-31 20:06:31 | グルメ

インド料理店でほうれん草のカレーはおなじみですが、小松菜を使ったカレーってのはなかなかお目にかかれないと思います。鱈の白子は見た目にも味もブレインマサラに近くなっていきます。

魚介のカレーですのでフェンネルは多めだけどパウダーのみ、肉のカレーに多用するカルダモンの方はホールスパイスのみ。今回のバスマティライスはことさらさらりと仕上げることが出来ました。

 

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発想が十字軍

2022-01-28 20:44:56 | 歴史
太地町のイルカ漁批判の記事なんですが、とりあえず殺生が残虐だからケシカラーン!ってな調子の短絡的な視点です。もともとジビエなども狩猟を通じて野生動物の増えすぎを抑え、食肉をいただくことで地元の人の貴重な栄養源となる、そうすることで山林に暮らす人々が乱開発することなく野生動物よ人類の共存を実現してきたわけです。

パッと見た眼の残酷さに囚われる人ってのはかつてのビザンツ帝国の禍ともいえる十字軍の人々の発想に似ています。ビザンツ皇帝アレクシオス1世は長らく悩まされてきたセルジューク朝を退かせるために西欧に援軍を求めた。彼にとっては局地戦で援軍を得て脅威を振り払って西欧にはそれなりの見返りを与える程度の考えであったのであろう。しかし求めに応じてやってきたのは「聖地奪回」を実現しようというビザンツ帝国にとっては不要不急以外の何物でもない独りよがりな志を抱く十字軍であった。彼らは傍若無人な正義感を振りかざし虐殺・破壊・略奪を繰り返した。十字軍のコンスタンティノープル占領の発端は皮肉にもムスリム居住区に十字軍が行った乱暴狼藉に憤った市民たちの十字軍への攻撃を契機としている。この出来事は後に首都奪回に成功したビザンツ帝国最後の王朝パライオロゴス朝の多難な時期の皇帝マヌエル2世が西欧に支援を求めようとしたときに「枢機卿の三角帽を拝まされるならスルタンのターバンのほうがまし」という市民の反応につながってくる。

話は戻るがイルカ漁や捕鯨に反対する人々の考え方は独りよがりな十字軍に本当に通じてると思うんですよね。
もし狩猟・捕鯨・食肉の類を全面的に禁じたいのであれば大自然の宿命である
「ある命は他の命を奪うことで生きながらえ、そのことを通じて全体のバランスを保っている」
という事実の前に、この呪縛を解く答えを示すべきであろう。植物だって生きている、ビーガンが不殺生を守っていると信じるなら間抜けとしか言いようがない。
もし彼らが明確にこの宿命に対する解決策を提示できるなら私は喜んで一切の釣り・肉食の類をやめることにする。
しかし、この大自然の呪縛を彼らが解けないことは経験的にわかっている。
だから私は肉を食べることと釣りをやめることはない。

さぁ、明日はスーパーでクジラベーコンを買ってきてカルボナーラを作るとしよう。馬肉のベーコンでも美味しかったのでクジラベーコンもカルボナーラにはよく合うであろう。

って、こんな書かなくてもいいビーガンに向かって挑発的な文言を書いてしまうのは私も彼らや十字軍の人々と同じく未熟な思考の持ち主だからなんでしょうw


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人間は本質的に肉食動物

2022-01-24 23:37:47 | グルメ
精進料理やビーガン料理を食べればわかる。草ばっかり食わされていると思うようなスタイルは珍しく、肉的な食感を得るために工夫の限りが尽くされている。

昨日の昼間にスーパーで脂のなさそうなアンガスのモモ肉の塊が売っていたので塩・コショウ・ニンニク・バジルを刷り込んだ塊肉の表面だけ焼いて、後は60℃湯煎でじっくりと。

きっと肉を食べたいとも思わなくなった時が生きようとする意志を放棄する手前なんでしょう。

そう考えると肉を食べたいと思うことは実に健全な精神の動きだと思うのですが。。。
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エントロピーのはなし

2022-01-24 23:26:13 | 地球と物理
熱力学第1・第2・第3法則を習ったのは遠い昔・・・
かすかな記憶を頼りに書き出してみると

第1法則・・・閉ざされた系のエネルギーの総和は保たれる
第2法則・・・閉ざされた系では変化があるたびにエントロピーの総和は増大する
第3法則・・・絶対零度の系のエントロピーはゼロである

言い換えれば

第1法則・・・変化があっても保たれるべき要素によって変化の在り方が制約される
第2法則・・・自然に変化が起きると無秩序な姿に崩れていく
第3法則・・・これ以上整えようがないきちっと整った状態を温度の底という

ってことなんですけど・・・

話は変わってカレーなどを食べた後の口直しにフェンネルを口に含むわけですが、インド料理屋に行くとローストしたフェンネルにザラメを混ぜてあるか、カラフルなスイートフェンネルが置いてあります。
我が家ではローストしたフェンネルにいくばくかのスイートフェンネルを混ぜることで甘すぎない口直しを作っています。
混ぜる前の状態がこれ

この状態からシェイクして冒頭の待った状態のオリジナルソーンフになるわけです。

話を戻して熱力学の話ですが、混ざる前の状態ではフェンネルローストとスイートフェンネルそれぞれに許される状態は境界線の上下で制約を受けていたのが、混ざった後は許される状態が多くなる。ある粒子に許される状態の数がエントロピーというわけです。

では混ざったソーンフをシェイクして自然に元の状態に戻りうるかといえばそんなことはあり得ないわけですね。

この原則を様々な現象に当てはめると熱力学第2法則の様々な表現方法を得られるわけです。

粒子の無秩序な運動が熱なのですから勝手に規則正しい運動にはならない。
エネルギーの変換が行われるたびに他の形のエネルギーをすべて熱に変換できますが、すべての熱を他の形のエネルギーに変換するのは無理だということです。


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2020年理論問8を解く

2022-01-20 21:48:35 | 電験2種への遠い道のり
電気の計算がある程度できるかどうかの指標は交流回路の計算が出来るってことでしょうね。本質という点では中学校で習うオームの法則とジュールの法則が分かっているなら電気の計算は半分以上理解したといってもいいと思いますが、具体的に実用・実務に使える程度に計算できるといえばリアクタンスを含んだ交流回路の計算がスムーズにできるかということです。

電験3種の2020年理論問8を見ますと、コンデンサと抵抗の直列回路に交流電源という組み合わせです。条件は電源が10V 1000Hz コンデンサが2μF、電流が0.1Aの時の抵抗を求める問題です。

この手の交流回路を解きたければとりあえず直角三角形を書いてみましょう。きれいに書く必要はありません。所詮マークシート試験答えが合えばそれでいいのですから自分が分かればいいのです。こんな考え方の人間が同じ記述の試験を6年間も受け続けたのですから採点官は災難としか言いようがありませんw
さて、交流回路の直角三角形を書くときは底辺を抵抗や有効電力、高さをリアクタンスや無効電力にして置く癖をつけておきましょう。斜めのところは必然的にインピーダンスや皮相電力になります。
今回の問題は10V印加したら0.1A流れたのでインピーダンスは10÷0.1=100Ωです。したがって斜めのところは100ですね。
次に高さはコンデンサのリアクタンスの公式1/2πfCから250/π
この三角形の底辺はピタゴラスの定理から60.559となり答えは⑷となるわけです。

さぁ、ここで電卓の使いこなしを考えてみましょう。
リアクタンスが250/πとなることろまで筆算できれば100の2乗は暗算で10000ですから求める抵抗は
①250÷3.14159265=  リアクタンス
②×=         リアクタンスを2乗
③-1(00)(00)=  インピーダンス2乗を引く
④+/-          これからルートしようってときにマイナスの時は後で苦労しますので√する前に符合を逆転させておきましょう。
⑤√           最後に√キーを押せば答えが出てきましたね。

電卓の使いこなしは特に交流回路の計算で力を発揮します。ってことで、次回も交流回路の過去問で電卓のキーの使いこなしを解説します。

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学問と勉強とは?

2022-01-10 14:05:49 | 歴史
歴史的偉人が現代人を論破するアニメ【第19弾】


学問とは学ぶことと問うこと、問いかけて学ぶことや、学びを通じて生じた疑問を問いかけ続ける姿勢を指す。根源にあるのは好奇心。

一方で勉強とは勉めて強めていくこと、強く勉めることを指す。原動力は努力。

つまり学問=勉強ではないんですね。

アテネの学堂やヨーロッパの大学の起源は学問を学ぼうとする人たちがその道を知る人に教えを乞うことであった。一方で義務教育は世の中を渡っていくにあたって必要と思しき教養や常識を勉強させることを目的に作られた。

学問を行うには疑問を突き詰めて解明していくには様々な知識を習得していくことや自ら立証するための努力は欠かせない。つまりは論理学的に言えば勉強というのは学問の一手法ではあるが時として学問と相反することも起こりうるということ。ちなみに論理学を小学生のうちから体験的に学ばせたいなら宿題を忘れるがままに学校に行かせてみればいい。おそらく教師は宿題をしてこなかった理由をしつこく問い詰めるであろうし子供はそれに対抗する言い訳を必死で考える。これは体験的に論理学の一分野である詭弁術を学ぶことになる。
私もよく宿題をしてこなくて絞られて必死で言い訳を考えたものでした。これが自分の中で一定の論理的思考の形成に役立ったとは思っています。つまり宿題を忘れた経験は無駄ではなかったw
論理的に考えるってのは電気関係の仕事に就くと、何か思い通りに設備が稼働していないときの原因追及には欠かせません。制御盤の中を見ればリレーやマグネットスイッチがガチャガチャとクツワムシの如く音を立てています。さらにはPLCのランプがついたり消えたりしています。これはある条件がAND・OR・NOTの組み合わせで次の条件を送るために動作しているわけです。ですからどのリレーまでどのロジックまでが動いて次に行くときに糞詰まり状態になっているかを調べて故障個所を特定しているわけですね。

学校は勉強はさせるけど学問に対してはむしろ破壊的な役割を果たすものです。子供が好奇心を抱いたときに「そんなことをする暇が合ったら勉強しなさい」という説教は学問への破壊行動そのものでしょうw。かといってきれいごとばかり述べて勉強させなくても将来困ることになるでしょう。

ちなみにデカルトは覆されないことを数学に見出したようですね。一方で同じモラリストでもパスカルは信仰によりどころを求めデカルトをかなり嫌っていたようです。どちらも自然科学には多くの功績を残していて、直線に直行するxyz座標系をデカルト座標と呼びますし、圧力の単位はPaと書いてパスカルと呼びます。よく天気予報にヘクトパスカルなんて聞きますが、1パスカルというのは1へーべーの面積を1ニュートンの力で押しているって意味です。じゃあ1ニュートンの力とは何か気になればさらに調べていくというのが学問のあるべき姿勢です。ヴォルテールはパスカルを「崇高な人間嫌い」と呼んだみたいですし、一方でルソーはモラリストについて人間不平等起源説で人間を語るときに「デルフォイ神殿に刻まれた言葉は多くのモラリストたちの分厚い書物より価値がある」と述べているわけです。なお、デルフォイ神殿ではご神託を受けるときに「汝自身を知れ」「多くを望みすぎるな」「出来ない約束はするな」と柱に刻まれた言葉を読んでから神殿に入ったみたいです。私もマークシートテストではズイブンご神託のお世話になりましたがこれも自分自身をわきまえず多くを望みすぎてできないことを出来るかの如くふるまってきたことの証左でしょうか・・・




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笑止千万

2022-01-05 23:44:43 | 歴史
エマ・ワトソンさんがパレスチナをサポートする投稿でイスラエルの高官どもから一方的に反ユダヤ主義者のレッテルを貼られているみたいですね。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/emma-watson-pro-palestinian-post_jp_61d4e050e4b0bb04a63e2b2e

私は少なくともイスラエルの狗っコロとして立場もわきまえず、なりふり構わぬイスラエル擁護と五輪に関してユダヤ人の癪に障りそうなことをした人物をサイモンウィーゼンタールセンターにチクったアホ全開の元衆議院議員よりは遥かに共感を覚えますね。落選ざまぁw 辻元清美とコイツの落選は本当に喜ばしいww

気が付けばちょっと生意気気なガキなハーマイオニーを演じていた彼女も気が付けば典型的な英国美女に育ったものである。
もっとも英国人らしい端正な顔立ちといえばマルフォイパパが一番でしたね。

彼女は何も反ユダヤを煽ったわけではない。パレスチナ人に共感を示しただけだし、そもそもホロコーストだってもともとはフランスのルール地方への一方的な占領でドイツ人が苦しんでいるときにユダヤ人は投機でぼろ儲けしていたことへの反感も原因の一つと思うがこうしてことを指摘すれば「反ユダヤ主義者」「歴史修正主義」のレッテルを貼られるのであろう。

魔法が使えるならサイモンウィーゼンタールセンターと寛容の博物館の記憶をこの地上から永遠に消し去りたいと思うのは私だけでしょうか?


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なぜ歴史の授業は糞なのか

2022-01-04 06:55:54 | 歴史
遅ればせながら あけましておめでとうございます。
昨年 このようなブログに訪れていただいた方々には感謝に堪えません。
今年もあまり大した内容をUPすることもないでしょうが、できれば読んでやっていただけますと幸いです。

さてさて、ドラマなんかでは歴史というものは実に面白く演出され、書籍などでも様々な見解を目にして色々考えさせられますが、学校に行ってた頃に受けた歴史の授業というのはどうにも面白みに欠けますね。

理由は案外簡単で授業をするからには諸説を考えさせるより定説を覚えさせ評価を行わざるを得なくなる。
大きな流れを知ることは歴史教育では重要であるが、歴史で興味を抱かせるのは出来事のクローズアップや人物伝ではある。ただし、このスタイルでは収拾がつかない授業になってしまう。
また、歴史で客観的に学力を評価しようとなると、どうしても年号暗記が中心になってしまう。歴史を学ぶ上で本来年号というのはある出来事や体制が別の出来事や体制につながる経過を見る線としてと、同時期に他の地域で何が起きているかを見る面として活用してこそ価値がる。年号と出来事を点でとらえて意味があるわけないし、ましてや暗記する必要など皆無に等しい。資料ですぐに答えが出せることを暗記させることに価値があるかは甚だ疑問に思う。

一方で戦前の歴史は出来事や人物伝をそこそこ学べるが、忠臣VS逆賊の構図で特定の方向からしか見なくなる。平清盛・足利尊氏は実に魅力的な人物ではあるが皇室への忠義を中心にした人物評価のフィルターを通るから実際より小さく醜く描き出されることになる。
また、日教組は自国の支配階級の否定に余念がなかったからこれもくだらない歴史観のお披露目になる。

こうして明治以降学校で行われた糞同然の歴史教育は戦後輪をかけて糞になったのである。

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