釣ってきたアオリイカをイカ墨カレーに。
ホールスパイス、パウダースパイスともにフェンネルを多めに効かせ、
焦がし玉葱にトマトやブルーベリー・ラズベリーで酸味をよくよく効かせる。
ぶつ切りのイカの身にイカ墨を混ぜ、日本酒・生姜・醤油を入れて味を整えたものを加えてあまり火を通しすぎないようにして、ガラムマサラ少な目で。
白菜のサラダとバスマティライスで頂きました。
今シーズンの初物は定番の刺身とイカ墨パスタからスタート。
イカ墨パスタはオリーブオイルで玉ねぎと韮を焦がして風味付け。
ゲソとイカ墨を混ぜて醤油とおろし生姜で味付け。
胡椒とバジルを混ぜ込んで、仕上げにパセリを振りかける。
今回は唐辛子とフェンネルは使わず。
いつもだったら8月中にアオリイカの初物を求めてるところですけど、やたら暑かったので自分がくたばらないことで精一杯でした。
ってことで、ようやく初物。
鰺が2匹しか釣れず、一度目にイカを釣り上げた後に同じ鰺を海中に放置して2杯目を釣る。そしてもう1匹の鯵に来たイカを的確に仕留めて合計3杯。
ゴマキの弟と言えば銅線泥棒で捕まったのは事実で、そのことは決して消えることはない。
が、有権者が彼を選んだのも事実。
もちろん選挙の結果について気に入らないことを表明することは言論の自由権に属するところで非難される謂れはない。同時に投票結果があるときは自分の意中になるように、別の時には自分の意に沿わない結果となることで社会の健全さが一定レベルで保たれていることを知ることになる。
彼に嫌がらせをしている連中について、ゴマキ弟本人の過去の行動に責が生ずると主張する人に問いたい。
貴方は自分自身を振り返って過去に法律・倫理的な規範・自分自身の良心に照らし合わせて何一つ過ちがないと言えるのか?
人間は誰だって過ちがある。
彼の過ちは議員など政治家であることで権力構造に絡む犯罪を犯したわけではない。
過ちがある人が再び正しい道に戻ることを許さないと主張するのは自由だが、そう述べる以上は自分自身も過ちがあるなら真っ当な人生を諦めるべきであろう。そうなれば過ちのある人が立ち直ろうとすることを許さない権利など誰にもないことが分かる。
だから無暗に人を決めつけて断罪するのは、鏡に映った自分の醜い姿を糾弾するようなもので「相手が悪いから何をしてもいい」という独りよがりの正義感がいかに危険なものであるかは歴史の教えるところであろう。
喜多川の性癖なんて昔から知られてたし、昔から碌な奴じゃねぇなwってのが正直な感想。
むしろ今まで騒ぎにならなかったことに芸能、報道の世界の闇があるわけです。
今迄も性被害を訴える声はあっても、メディアにとっては大事なタレントを出していただけるお得意様、忖度が泣き寝入りの構造を増長させてきたってこと。早い内からまともに報じてたのは文春砲ぐらいじゃないんですかね。
ところが泣き寝入りしてた人々があちこちで声を上げだして無視することも出来なくなった。挙句に国連から指摘を受けるようになると最早既存のメディアと言えどももみ消すことが出来なくなる。
そして堰を切ったように問題視されて今までぬくぬくしてきたジュリーが涙目になって何かを訴えても嘘くささしかないわけですなw
電工2種の合格通知の葉書が届いていたので、簡易書留で免状の申請を郵送。
電験と違って電工は免状を都道府県知事に申請ですから、技能試験の会場で席に着くと京都府の申請用紙が準備されています。合否に関係なく免状申請の書類は持って帰っておいてくれってことなんですね。合格率も7割、時間切れギリギリでは工具の音もほとんどしなかったことから皆さん組めてると思いましたけど、思いのほか合格率って低いんですね・・・
動画で電工2種の公開問題を20分以内に解いたりするのがありますが、資格試験はタイムレースぢゃありません。時間ギリギリかかっていても最後に慌てて間違える元ですが、早く組もうとしすぎても間違いを起こしやすくなるでしょう。
ですから、一番落ち着いて作業と確認が出来る20~30分の完成を目指すのが一番いいんじゃないかと思います。
複線図を素早く書く方法も紹介していますが、複線図を描くときの法則をそのまま現物に適用してクリップで挟んでおけば複線図を描かずに組めます。
それから、申し込み画面を見て思ったのがひょっとして電工や電験の試験って何回でも受けることが出来るのかな?って疑問が湧いてきました。もちろん、受かるまでは何回でもチャレンジすべしなんですが、受かった後に何回でも申し込めば受けられるのかなぁってことですね。試験の合格と免状の申請作業が切り離されていますので・・・。
もちろん、私はそんなことを試すカネも暇もないですけど、CBT体験をしてみようという電工や主任技術者の免状保持者がいるのかなぁ・・・なんて思います。
何かを述べるとき忠実であるべきは思い入れや思想信条ではなく、ただただ事実関係に対してのみですよね。
関東大震災での朝鮮人虐殺事件をめぐってメディアとネトウヨがいろいろ述べ合っていますが、当時の資料などから類推できる二次的な情報をもとにしていて、確実に事実と断定できることをもとにしているわけではありません。ですので、こうした議論には加わらないのが賢明というものでしょう。
事実がはっきりしているなら、愛国心や平和への思いや差別の根絶なんて思い入れは事実の前にはどうでもいいことになってくる。思想信条は人によって違うし正義の基準はころころ入れ替わる歴史を私たち人類は眺めてきた。
しかし、事実は覆せないですよね。時がたてば隠せる事実もあろう。しかし、故意に事実を曲げて伝えることは罪である。
確実に分かりきっている事実を他の人が知らないのをいいことに偽証によって曲げようとしても、他の人はごまかせても自分自身の良心に照らし合わせれば恥を受ける。ここで、偽証して自分の良心にすら恥じなくなれば人間として終わっている。すべての人には一人一人の人間を設計した方により自分自身の良心が組み込まれていると信じたい。偽証をして心に疚しさが残らないところまでくれば神を畏れないその姿勢はある意味立派ではある。
しかし、神を畏れず人間の英知をよりどころにする人々の没落や虚しさを歴史は教えてくれる。
事実が見えない以上、この問題について何かを尤もらしく語るのはやめた方が身のためというもの。