2022年12月13日(火)
11日(日)京都駅から個人タクシーで神護寺入口横まで連れて行ってもらって、降りたのはPM1:00過ぎだった。運転手さんが「1時間なら待っても・・」と言われるので、「最低でも1時間半は必要ですが、もっとかかるかもしれません」という会話の上で了解していただいたのでお願いすることにした。以前、山頂には2回ほど登ったことがあったので、山頂までのタイムも往復1時間として、調査時間には、先ずは空海が唐から帰って最初に居た高雄山寺跡だと思う342m方角を道の途中から計測することにした。342m地点の方角には反応することなく、やはり428.4m地点の方角にのみ強くコアロッドは反応した。それでコアロッドを仕舞いこんで、急いでスマホのジオグラフィカを見ながら山頂を目指した。山頂に着く頃に急に雲行きが怪しくなってきた。
久々のなつかしい山頂に辿り着き、「嬉し涙は分かりますが、私の仕事ができません。よろしくお計らいを・・」とお願いして、コアロッドを取り出して計測すると即座に金の反応です。木々の間を縫って、計測し、黄金の次は石室(空間)の計測です。山頂に着いた時だけパラパラと嬉し涙で湿らしてくれたという情景の中で、無事計測を終えることができました。一人で・・。同行者は道に迷ってしまってさぁ大変の状態でした。山頂でのスマホのアンテナは0か1という具合で連絡もうまくつながらない状態でした。山頂直下の分枝点に下りたところでやっと出会ってホッとするなり、時計をみると約束の1時間半前なので「今から山を下りますから、30分ほどかかります・・」と告げて急いで山を下りました。タクシーに乗り込んだ時には、そのあたりだけ日が差して鮮やかな紅葉の情景を見せてくれましたが、すぐ下まで降りるともうその綺麗な情景は一切みることがありませんでした。紅葉の鮮やかな時間から一瞬にして灰色の情景へと変わりました。
桓武天皇の墓は、高雄山(428.4m)に存在しています。 黄金の量は1000t ! 桓武天皇が、「増税を課さなくても私の黄金を防衛費に充てよ!」と言って居られますよ。「足らなかったらあちこちにいっぱいあるから・・」とも言っておられますが・・。
2020年6月1日(月)
天智天皇の墓・藤原不比等の墓と嵯峨天皇陵と愛宕神社
天智天皇の墓・藤原不比等の墓と淳和天皇陵と広隆寺
天智天皇の墓・藤原不比等の墓と仁明天皇陵と貴船山
天智天皇の墓・藤原不比等の墓と文徳天皇陵と丹波国分寺跡附八幡神社跡
天智天皇の墓・藤原不比等の墓と清和天皇陵と神山と高雄山寺跡
2020年4月10日(金)
特に空海は、藤原不比等の遺言及び、藤原直系である桓武天皇の命を受けて、忠実にその任務を遂行した。
又、嵯峨天皇も空海と共に藤原プロジェクトを遂行したのである。
弘法大師廟では、手を合わせて祈る先は京都府南丹市山中にある藤原不比等の墓であるが、
卑弥呼の墓と藤原不比等の墓と、高野山弘法大師廟は、ケプラー三角形を描く配置である。
桓武天皇の亡骸も、タレスの定理のポイントに埋葬された。
空海は、長安から帰国し、嵯峨天皇の命を受けて真っ先に京に入って務めた寺は高雄山寺であった。
その高雄山寺のすぐ目の前が、桓武天皇が眠る高雄山(428.4m)だった。
桓武天皇から生前、特命を受けた空海は、桓武天皇陵造営の任務に携わっていた。
若き空海の空白年間の最大の任務遂行ポイントは神戸である。
2020年1月
若き日、空海様は、久米寺に縁を持っている。
空海様の空白年間を解き明かすには、最低、空海様がどこのお寺に縁を持ったから解き明かさなくてはなりません。
空海は急ぎ大和国久米寺を訪れ、そこで、密教の核心を説いている「大日経」を発見したと伝えられているようですが、大日如来こそイエス・キリストのことである。
それで、久米寺とイエス・キリストの墓とを繋いで、意味ある山や神社や寺院が三角法で浮き上がるかを調べると・・!
二等辺三角形を描くポイントに、淡路島の油谷山。
そして、重要なポイントには必ず行基が関わっていますが、その行基の開基という東光寺(猪名川町)。
そしてそして、法道仙人も必ず重要なところには登場しますが、孝徳天皇勅願で法道仙人開基と伝えられる摩耶山天上寺(神戸市)が浮かび上がりました。
若き空海様は、久米寺で間違いなくイエス・キリストの真実を聞いてしまったことでしょう。
空海は大学を中退してから、空白年間が10年ほどあって・・、その内、和泉国の槇尾山寺で剃髪して・・、そして久米寺。
突然、30歳で東大寺に姿を現し、遣唐使船に乗り込み長安(現、西安)へ。
2年ほどで帰国し、太宰府庁に隣接した観世音寺に留められる。
そして又、槇尾山寺。それから高雄山寺~乙訓寺を行き来している。
実は、遣唐使船に乗る前と帰国後に、神戸の再度山大龍寺に身を寄せている。
私の不思議物語ももう10年が経とうとしている。
どうも・・空海様の空白年間と同じように動き回っていたようです。
空海様の空白年間と任務は全て教えられたようです。
2018年11月14日(水)
今、京都高雄の紅葉は見事に美しい情景を見せてくれます。
そこにたたずむ神護寺 ・・ まさに字のごとく神を護るお寺があります。
神護寺は、桓武天皇と和気清麻呂を神として祀るお寺です。
空海さまが唐から帰ってきて、公に京の都に入って最初に勤めたお寺が高雄山寺でしたが、この寺跡は、現在の神護寺の上にある342m地点の山です。
空海さまは、そこから北西に位置する428.4m地点に眠る桓武天皇の御霊を護りお祈りを欠かすことがありませんでした。
高雄山寺は、和気清麻呂と桓武天皇の墓とを結んだライン上に位置していました。
平安京を築いた立役者である桓武天皇 和気清麻呂 を供養するために呼ばれましたし、空海様自身もその務めを誰より一番望まれたことでしょう。
そして最澄さまも数か月ほど滞在されました。
空海さまは後に高野山を開きますが、これも桓武天皇や和気清麻呂の指示にしたがって定められた場所に金剛峯寺金堂も弘法大師廟もカーナビの精度で造っています。
金堂で手を合わせれば、桓武天皇の墓に手を合わせるように造られています。
もう見事です。
イエスの陵墓と桓武天皇の墓と、高野山の弘法大師廟とは、直角三角形を描きます。
そして桓武天皇の墓と空海さまの霊廟と、アブラハムの墓の三点は、3辺の長さ比が1:√φ:φのケプラー三角形を描きます。
世界の宗教の宗祖はアブラハムですが、我が国はアブラハムの父祖テラを天照大神として祀っています。
「世界文明の起源は日本だった」にもこのことは書きました。
そして、テラの墓(神野山)とアブラハムの墓とモーセの墓は、夏の大三角形の星座を模してお墓の位置は決められていたことも書きました。
桓武天皇はテラ アブラハム モーセ イエスの墓も全て知っていて、そこから自分はどこにお墓を造るかを生前から決めています。
桓武天皇の墓は、イエスの陵墓とモーセの墓で、冬の大三角形に近い形の場所であり、モーセとテラ(天照大神)とのほぼライン上にお墓を造っています。
このことを証明するために、空海さまの霊廟を、現在の高野山の弘法大師廟としての位置決めをしています。
もう見事です!
偶然の産物ではこのようなことは起こりません。
歴代の天皇の中で、桓武天皇が果たした役割は格別です。
・・・
書き終わって・・「どうしてケプラー三角形を描いているの?」という疑問が沸いてきました。
これは、これらの全ての秘密を知っている人達が、見事にケプラー三角形を描く現在の位置に弘法大師廟を造ることで、桓武天皇の亡骸を入れた墓の位置が分かるようにしているという理解で良いのではと思います。
当然、大師廟に空海さまの亡骸があるとも思えません。
亡骸は山口の真魚の山(空海様の墓)へと運ばれた訳ですから・・。
2018年10月25日(木)
歴代の天皇の中でも、思い半ばでこの世を去った第50代桓武天皇と第96代後醍醐天皇浮かんできます。
後醍醐天皇陵は、奈良県吉野にありますが、桓武天皇の墓は定かでないようです。
でも私には、桓武天皇の墓は京都府にある高雄山(428.4m)だと教えます。
現在の神護寺の上になります。
空海さまが長安から帰って太宰府庁に隣接する観世音寺にいて、公に京の都に最初に入った場所が高雄山寺でした。
どうしてか・・!? これを考えれば答えは当然至極なのです。
そこには、和気清麻呂の墓もありますし、桓武天皇も眠っていますから、当然としてこの2人に指導された空海さまが、2人の御霊の供養をしたわけです。
この国の大王たちは、この世で最後の務めとして、亡骸をどこに置くかによって連綿と続く王家の人達が眠るお墓や陵墓でこの国の歴史を教えていました。
高雄山のお墓の場所にも行かされました。
最近、武部さんがしきりに吉水神社のことを書かれていますが実は、台風で荒れ狂う宗像大社へ行って不思議なことが始まった2010年8月11日から数日後の8月16日、千ヶ峰の麓に居られる有名な女性霊能者のところへと連れて行かれました。
そこで、「今日は後醍醐天皇の命日です。ほらっ、目の前に後醍醐天皇が居られます・・」と、まあ不思議なドラマがあったりして、それからほどなくして、私が信頼する友人の実家が吉野だということで連れて行かれたのが吉水神社でした。
そこでまた、後醍醐天皇の存在を知ることになり、ほどなくして綾部の大本教本部に突然連れて行かれたり、笠置山に連れて行かれたりして・・。
もう何が起きているのか、どこかの世界に引き込まれたのか、ドギマギする日々が加速していきました。
その後、「隠岐の島へ行って一番高い大満寺山へ登れ! 昔は摩尼山と呼ばれていた」と言うことで、大急ぎで隠岐の島へと行ったりして、ここでも後醍醐天皇をより強くしることになったりしました。
もうどこまでも不思議な世界にどっぷりと浸かってしまた8年間です。
もちろん吉野の後醍醐天皇陵にも行かされました。
そして、桓武天皇の墓と後醍醐天皇陵の二点から、二等辺三角形を描くポイントが、「とうりゃんせ」の唄の舞台であり、地下神殿の在処だと教えられて居ます。
なにも分からない状態から、「穴を掘れ!」と言われて穴掘りを開始した場所が、どのような祀り場所であるのかの根拠を時間をかけて教えられているようです。
実は、隠岐の島の大満寺山と後醍醐天皇陵の二点を結ぶラインに、この地下神殿の場所は見事に位置しています。
そして最近、武部さんがしきりに後醍醐天皇に関する吉野と隠岐の島のことをブログで書かれておられるので、
後醍醐天皇陵と桓武天皇の墓とを見つめて浮かび上がるのが、イエス王家の人達を祀る、岡山にある天神山です。
天神山と言えば、その山を守るように配置されていた日蓮宗不受不施派弾圧の歴史の謎も教えらえましたね。
天神山~熊山遺跡~京都御所~東京の御所~から、日月神示が下された千葉県の麻賀多神社までは見事に一直線であることも浮かび上がりました。。
そしてそこから、麻賀多神社が向いている方角に、本当に岩山を「日と月」に造り上げた山を発見し、その日月の山(岐阜県)へも行かされました。
そして、後醍醐天皇陵と日月の山と、イエス・キリストの墓が綺麗な2:1:√3にほぼ近い綺麗な三角形を描くようになっているなど、関係性がある場所場所を教えられました。
後醍醐天皇陵と桓武天皇の墓は、大事な大事なベンチマーク的な意味を秘めていることを教えられます。 重要な二点です!
そして今回、不思議な図形を描かされました。もうこれは、どう見ても簡易式の住居となるテントに見えてしまいます。
古代ユダヤの王たちの住まいである幕屋、ユダヤの秘宝アークを安置する幕屋の図案を描いています。
そしてその場所の位置こそが地下神殿であることを古代ユダヤの大王の血を引き継ぐ桓武天皇とご後醍醐天皇が教えています。
後醍醐天皇と桓武天皇の亡霊が動き出したようです。
武部さん、綺麗なセーマンが現れましたよ。
・・それにしても、綺麗な図形ですねぇ。
2017年5月24日(水)
私は、桓武天皇という素晴らしい天皇がこの世に居られたことに深く感謝いたします。
そして桓武天皇を支えた素晴らしい仲間達。 和気清麻呂、行基、最澄、・・そして空海さま。 なんと素晴らしい人達が居られたのでしょう。
私は、日本人としてこの国に生まれ、そして今、この国に生かされていることに誇りと感動を覚えます。
桓武天皇は、自分の亡骸を秘密裏に人里離れた山の中に安置するように、生前、遺言していたのですね。
「私の遺体は、高雄山の山頂に埋めてくれ」・・と。
桓武天皇は生前、交野山(こうのやま)(大阪府交野市)から2度も北に向かって祈ったと言われています。
交野山には、立派で見事な磐座がありますが、ここからコンパスグラスで、磁北(0°)に位置するところが、高雄山です。
もう桓武天皇はこの場所から、自分が眠りにつく場所とその時を思い浮かべていたことでしょう。
そしてその場所には、大きな丸い石に立派な字体で梵字の「阿」が刻まれていました。
これらのことも空海さまも全てご存じでしたね。
空海さまは高野山を開いた後、毎月月に一度、奈良県吉野郡野迫川村池津川荒神岳347にある、荒神社(立里荒神)に行ったと言われています。
この不思議な物語の最初の頃、もう5,6年も前のことですが、荒神社に行ってこのことを聞かされた時、不思議に思っていました。
高野山からかなり時間もかかる山の中にどうして・・、と思っていましたが、やっと謎が解けました。
この荒神社から真北に位置するところが、神護寺がある京都の高雄山です。
ここには、和気清麻呂の墓もあります。
空海さまが、遣唐使船で長安に渡り、留学僧は20年間帰国できないにも関わらす、2年数か月で戻ってきました。
そして、彼は京の都に上がるまで、九州の太宰府庁に隣接した観世音寺に身を寄せていたということになっていますが、これもそうではありません。(このことは何れ機会にかきます)
でも、公けに京に上がって最初に住まったのが、高雄山寺でした。
高雄山には、和気清麻呂と桓武天皇の墓があるわけですから、当然のことです。
空海さまは、公けに高雄山に入るまでも、内々に何度もお墓参りに来ていたことでしょう。
そして空海さまが高野山を開かれたことも、それから月に一度は、高雄山の真南に位置する荒神社の山に登って、真北に向かってお祈りをされたのでしょう。
なんと、高雄山(428,4m)から荒神社(1242m)までは丁度100㎞で、この南北ラインに対して、高雄山から直角に西へ92㎞行ったところに、あのイエス・キリストの最期の場所と、イエスの遺体を入れた陵墓を教える十字架の山の交点の三点で直角三角形を描きます。
ここまでくれば、偶然という言葉は一切使えません。
もうこれは高度で緻密な計画の上での所作のなにものでもありません。
ですから・・、「かごめかごめ」の唄と、「とうりゃんせ」を世に残し、いつの日か必ずこの国の本当の歴史が表にでるように仕組んだ、桓武天皇、和気清麻呂、最澄、空海さま達の凄さと素晴らしさが心に響き渡ります。
桓武天皇陵がある伏見桃山城は、京都市伏見区桃山町にありますが、この丘から、桓武天皇の墓である428,4mの高雄山を見通すことができます。遮る山はありません。
・・そのことから、伏見桃山城は、桓武天皇を遥拝する場所であることが分かります。 そしてその城は、神河町にあるイエス・キリストの墓に向けて造られていました。
これらのことを心して、27日は応神天皇の故郷と、神護寺への巡礼ツアーに出かけます。
2013年2月18日(月)
京都、高雄は雨でした。
前日夕方、「大事な場所を忘れていませんか」と言われ、「分かりました、すぐに行きます」と、朝から雨が降っていましたが、迷わず京都へと行き、バスで山城高雄へと行きました。
目指すは高雄山寺、現在の神護寺にある和気清麻呂のお墓へと呼ばれました。
私は導かれるまま、誰に聞くことなく、すんなりと和気清麻呂のお墓の前に立っていました。
話は遡りますが2010年9月22日(水)、兵庫県中央部にある千ヶ峰の麓で開催されたお月見祭の帰りに、神様の言葉を伝えるだけですという翼さんが、得津さんとの電話に登場するのですがその時、「上森さん!?、その方の後ろにシャクを持った人が、麻呂じゃ!と言ってる・・」と、言ってたことばを思い出します。
麻呂じゃ!と言ってた方は、平安京の造営責任者、現代的に言うと国土交通大臣の和気清麻呂君だったようです。
空海様が25歳の時、清麻呂君は67歳でこの世を去りましたが、空海様が遣唐使船で長安から帰り、大宰府の観世音寺から都に来て住んだのが、この高雄山寺でした。この高雄山寺には、平安京を創り上げた人達の重要な歴史の舞台でありました。
ですから・・、「早く来なさい!伝えておかなくてはならないことがあります」と、呼ばれたようでした。
そして、空海様に関係する寺院には何故か、如意輪観音か弁財天、と、大黒様が祀られています。 何故でしょうか。