かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

天皇誕生日の日にキツネさんが飛び出した!

2023-02-24 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

2023年2月24日(金)

昨日は天の誕生日。前日に第十代崇神天皇の墓も特定できました。そして崇神天皇の墓からの関係者の墓を見ていく過程で、巨大な狐(キツネ)が飛び出しました。

なんと足の先から尻尾の先まで500m以上もありますよ。みなさん信じられますでしょうか。でもこれは間違いないでしょう。

兵庫県加西市坂本町に法華山一乗寺というお寺がありますが、ここの三重塔で手を合わせれば、マリアの墓に手を合わせるようになっています。本堂で手を合わせればイエス・キリストの墓に手を合わせるように造営されています。その本堂のすぐ上の山にその巨大なキツネさんは造られていました。そしてそのキツネさんが見つめている先には、日本で一番最初に作られたという糸我稲荷神があります。そしてその糸我稲荷神社と狐さんが教える大事な場所が、直角二等辺三角形を描くポイントである住吉大社です。この神社こそ古代史にいろいろ登場する神社でした。

天皇誕生日の日に、狐さんが飛び出し・・、住吉大社を教え・・、そして、次々私に重要な場所を教えます。 古代史の謎もキッチリと追えるようになっています。 つづく

 


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ベニヤミン族のシンボルである『狼』が出現

2021-09-12 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

2021年9月12日(日)

京丹後市弥栄町鳥取に500mほどの巨大な狼が出現です。

ジャッカルか狐にも見えますが・・。

この地上絵は、蘇我入鹿の墓と、ウガヤのうさぎさんとで、ケプラー三角形となる場所に造営されています。

これは、蘇我入鹿がウガヤの流れであり、ユダヤの12部族で、南のユダ王とともに行動したベニヤミン族にも深く縁を持っていたことを物語ってるようにも思えます。

蘇我入鹿が中大兄皇子と藤原鎌足に殺害された乙巳の変の一つの真相を教えてくれる手がかりとなるようにも思います。

日本に帰ってきたユダヤの北の十部族と南の二部族との争いが日本でも続いていたように推測できそうです。

それにしても、ウガヤうさぎさんは、綺麗に造営されていますねぇ。

 


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忘れ去られた大晦日の108の除夜の鐘の意味は正五角形の中心にある

2021-04-07 05:49:00 | かごめかごめの真実とは

2021年4月7日(水)

んん~~ん、シンクロしてます。

昨日、山からの帰りに車の中で内藤さんが、4月3日~4日にかけてのガイドの話をしてくれました。

内藤さん:「イエス・キリストの墓に3人の方を案内しましたが、その方の一人がイエスの墓で涙して居られました。その夜はホテルリラクシアに泊まられましたが、朝、迎えに行くなり夢の話をされました。

星の中心にできる五角形に意識を合わせてください・・との告知が・・と」。

私   :「ホテルの中庭にある25m大のプールほどのモーセの地下神殿の入り口の場所は、皆さんに教えられましたか」

内藤さん:「はい、ホテルに入る前にお見せしました」

私   :「それは良かったですね。・・イエス・キリストの墓、綺麗だったでしょうね」

内藤さん:「綺麗でしたね」

・・と、いろいろ教えてもらい、5時前に事務所に「おはようございま~~す」と皆さんに挨拶して、パソコンを開くと藤田さんからのメール。

そこには、いつも笑顔の三井田さんからの伝言がありました。

「狐谷横穴群を見に行ってきました」と、下の写真が添付されていました。

これは、間違いなくシンクロしています。

見えない世界からのメッセージです。

今はもう、都会では大晦日の108の除夜の鐘の音を聞くことがありません。

108の除夜の鐘の本当の意味を教えてくれる人は、誰一人としていないのではないでしょうか。

お坊さんでも・・。

・・実は、狐谷などの夥しい横穴群は近畿地方を覆う正五角形にできる大きな★の、その中にできる正五角形にできる★の・・その中にできる正五角形の中に・・、と続く中心の位置となる場所に謎の横穴群が存在しています。

んん~~ん、内藤さんがブログに、ユダヤ教で大切にされている「過越祭」の日に全てがシンクロしていますね。

秦河勝を先祖とする大倉正之助さんの動きも「過越祭」に連動しています。

やはり古代史の立証の扉を開く鍵は数学者がしっているのでしょう。

その数学者とは、モーセでありイエス・キリストであり、最澄、空海のようです。

せめて年に一度は、忘れてはならない横穴群に眠った人々の御霊に手を合わせてほしいと、高野山から・・比叡山から・・そしてその意味を知っている日本全土に建つ寺から心を一つにして鐘を鳴らしたことでしょう。

この108の除夜の鐘の意味を伝えられないとしたら・・もう、その教えは、完全に役割を終えて朽ちた幻の大樹なのでしょう。

今、素直にメッセージを受け、行動を起こし、メッセージを届ける人たちは、神様の思いと連動している人たちですね。

今、空海コードを読み解く私の周りにシンクロのトルネードです。

個人的にツアーを組んで聖地巡礼をされた3人の女性方、三井田さん、ああ~~沢山沢山です。

・・ これはあの世の人達とこの世の人達の連動です!

皆さん、ありがとう! 感謝です!・・と、正五角形の中心に居てる人たちも喜んで居られることでしょう!!

 


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磯砂山から日和山、阿波の土柱、狐谷横穴群が出現!

2020-06-21 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

[English]

2020年6月21日(日)

磯砂山と徐福の墓と天智天皇の墓・藤原不比等の墓の関係から、日和山(三重県尾鷲市)というベンチマークマウンテンが現れました。

徐福の墓から天智天皇の墓・藤原不比等の墓を結んで、その延長先に日和山。

徐福の墓と日和山と空海の墓とは、ほぼ2:1:√3の直角三角形。

能勢妙見宮と日和山と阿波の土柱は、ケプラー三角形。

日和山と阿波の土柱と狐谷横穴郡は、2:1:√3の直角三角形。

これらの場所は、大きな大きな意味を持っていることを教えています。


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犬と狐とオオカミ

2019-08-06 05:05:05 | かごめかごめの真実とは

2019年8月6日(火)

ツアーで最上稲荷へと立ち寄りました。

暑い日でしたぁ。

階段を上がるのも下りるのも・・、大変な暑さでしたぁ。

・・それで、昼食には「ビールはいかがですかぁ!」とお店の方の勧めに、

「じゃんじゃん持ってきてください!」「じゃんじゃん飲んでくださいよ~~!!」と私。

今までのツアーでお昼にビールを飲んだのは初めてでした。

「岡山名物の桃で作ったソフトクリームは美味しいですよ~~」と、これまたお店の方。

「私はビールは飲めませんからデザートにソフトクリームをいただいても良いですか!」と私の後ろに座っていたNマさん。

「良いですよ~!」

「ビール飲んだ人も飲まなかった人も食べてくださいよ」

「お勘定はまとめて私が払いますから!」と大きな声でお店の方に聞こえるように私。

 

お客さん・・うちの流れのものが一生懸命に働いています・・。でもお客さんが少ないんです。 見てください・・、悪いようにはしませんから、ちょっとでも売り上げにご協力してもらえませんか。悪いようにはしませんから・・

食事の席で、近くの人に話した内容をバスの中でもした私でした。

「あと一人お客さんが来てくれたら・・行けるのにねぇ」と。


「きっと良いことがありますから・・」と・・。

「言われたことを実行したら、必ず翌日には注文が来るんですぅ」と皆さんに話しました。

 

そして・・その翌日の今日の事です。

「エ~~ッ! そんなに注文があったんですかぁ」と私。

 

不思議な不思議な物語は今も続いています。 

 

「あのぉ~、もう着いたんですがぁ・・」 

「夢ですかぁ・・??」

いえいえ、夢の中が現実の世界で、現実の世界は夢の物語の世界のようです。

 

 

武部さんが今一番気になる場所と言ってた、神河町長谷にある「犬塚」から最上稲荷までと伏見稲荷が同距離です。

何か大きな意味が隠されているようです。

イヌとキツネですかぁ・・・??

ですかぁ・・!?

最上稲荷本殿の裏にあった石の彫り物の上の図案は、昨年のツアーで行った木山寺の彫刻の鍾馗(しょうき)と同じに見えてしまう私です。

 


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古代史の立証の扉を開く鍵は数学者が握っている

2018-11-16 05:05:15 | かごめかごめの真実とは

2018年11月16日(金)

狐谷横穴 女谷・荒坂横穴 美濃山横穴 松井横穴など・・ 横穴墓の遺構が五角形の中心に重なるのは偶然か! 


今回の聖地巡礼ツアーで、特に今回初めてモーセの墓を拝みに行くにあたって、どのような位置関係にあるのかを徹底的にギリギリまで教えられているようです。

昨日、家島諸島の西島にある頂ノ岩(コウナイの石)と、甲山(西宮)と、丹後半島にあるモーセの墓は、みごとに正五角形の一部を形成する直角三角形であると書きました。

それで、その三角形を基本にして正五角形を描いてみました。

すると、五角形の星があることが正しいと教えるように和歌山県田辺市に「高星山」という名の山があったり、伊勢の伊雑宮があったりして、綺麗な五角形が描き出されました。

そしてこの五角形の中心の大阪府枚方市と京都府八幡市・京田辺市一帯に何があるのかを調べると・・,

女谷・荒坂. 横穴群をはじめ、狐谷横穴群、美濃山横穴群や京田辺市の松井横穴群など、古墳時代から奈良時代にかけての横穴式のお墓が、何百基と集中していることが分かりました。

おびただしい人の数が数百、ひょっとしたら数千と埋葬されているのかもしれません。

イエスやモーセなど古代大王の墓や、それらを教える磐座との関係性など大いにあると私は感じます。

又、高野山の弘法大師廟と京都の貴船山とを結んだラインがこの中心を通るのも偶然ではないでしょうし、空海さまもこの秘密を大いに知っていたことでしょう。

高星山から頂ノ岩を結んだラインを延長し、弘法大師廟とモーセの墓とを結んで直角に西に伸ばして交わった場所に、モーセが生まれたと言う大神山神社(奥宮)があるのも偶然でしょうか。

その大神山神社と貴船山と弘法大師廟とを結んでも直角三角形を描く、これらの偶然が起こり得る確率とは如何ほどのものなのでしょう。

私には全てが太古から計画的に仕組まれたものだという気がしてなりません。

私の不思議な古代史の謎解きには、そろそろ知的な数学者が現れてもよさそうです。

  

 


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岩上神社の磐座は、イエス・キリストの墓と女王卑弥呼の陵墓を教えていた

2018-11-07 06:54:44 | かごめかごめの真実とは

2018年11月

 日曜日、古代史研究家の市川慎さんと懿徳天皇の陵墓近くにある喫茶店で情報交換し、「そこへ連れて行ってください」と言うことになり、いつものように車を寺前裏の駐車場にもどして、市川さんの車で重要な場所へと連れて行ってもらいました。

行った場所は、先ずは宍粟市にある岩上神社でした。

ここの神社の大きな巨石は、川の縁側は火を焚いた跡で赤く変色していました。

神社の由緒にもそれを思わせる文言も書かれていました。

神社の狛犬は獅子ではなく狐さんでした。

そして彫り物には、ウサギやサルや軍鶏など意味あるものが彫られていました。 

そこら中、神社の名前そのもので、岩ばかりでした。

帰って地理院地図で調べると、大きな岩の切り落とされた面は方位を表していて、それはイエス・キリストの墓とその先の卑弥呼の墓まで一直線になっていました。

このことは、そのラインを東へと伸ばすと、比叡山延暦寺の根本中堂へと行きつくことが分かります。

つまり、比叡山延暦寺でご本尊様に手を合わすと、卑弥呼の墓、イエス・キリストの墓・・そしてここ岩上神社へと一直線になる位置にこの岩上神社は配置されています。 見事です!

又、ソロモンの墓から卑弥呼の墓までとこの神社までとは綺麗な二等辺三角形を描きます。 偶然でしょうか。

あまりにも綺麗な配置に驚くばかりです。

・・

早速、武部さんから連絡が入りました。

狛犬は狐ではなく、とのことです!

そのことから又、大変な秘密が分かりました!! 又また二等辺三角形が・・。

そしてもう一つ、徳島の太龍寺大師堂の彫り物の意味も・・パチン!と閃きました。

                                                

 

 

 

 

 


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木山寺は凄い!空海様は凄い!・・これぞ神仏習合だと言っています!!

2018-08-12 04:43:18 | かごめかごめの真実とは

2018年8月12日(日)

表は寺院。裏に廻れば神社。

それも立派な彫り物。超意味ある彫り物

「矢野さん、あの剣を持った方は誰ですかぁ」と私。

鍾馗しょうき)でしょう」と矢野さん。

先人達は彫り物に意味を持たせていましたねぇ。

鯉は誰でしたかぁ・・。

大黒様は誰でしたかぁ・・。

チーム上森の皆さんはこれらの意味をよ~~く知って居られます。

でももう御一方加わりますよ~。

鍾馗さんもだと言ってますよ。

鍾馗さんは剣を持っていますが、剣を持った方で有名な方は不動明王でしたね。

このお方は本当にいろんな呼ばれ方をされています。

月光仮面はだれでしょう!スパイダーマンは誰でしょう?・・と、いうレベルではありませんね。

本当に世界の大スター、スーパーヒーローなんですね。

さぁ~答えは誰でしょう・・。

次、試験に出ますよ~!

答えはね、ここの木山寺へ行けばホラほら、キツネさんが厨子の前にいらっしゃいますよ。

キツネさんは、誰でしたか。

では厨子の中の仏様も、そして・・神社でいえば奥宮に居られる神様も・・同じ人だと言って居られますよ。

誰がって? ・・ もちろん空海様ですよ。

1000年以上、空海様からしたら1200年も前から神仏習合だったのです。

日本の文化は素晴らしい!

日本の歴史は素晴らしい!

日本人って素晴らしい!

木山寺と木山神社の位置関係からも寺院と神社の関係を教えていました。

木山寺は凄い! 空海様は凄い!! 

子ぎつねコンコン山の中~~山の中~~。

ああ~~怒られます、大狐さんでしたね。

大狐さんは山の中にお眠りになって居られましたねぇ。

誰も来ん来んと言って居られましたので、皆さんで行きましたねぇ

一番乗りは武部さんでしたね。

           


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私に会いたくば、南無大師遍照金剛と・・

2016-09-21 11:27:02 | かごめかごめの真実とは

2016年9月21日(水)

 阿吽山房さんに来てくださった皆様に、私がマリア様のお墓の発見に至る経緯をプロジェクターで映し出して見ていただきました。

お集まりの皆様と阿吽山房さんに感謝です。

そして雨にも・・感謝です。

昨日(20日)が晴れなら・・、じっくりと聞いて見ていただくこともできなかったことでしょう。

「ありとあらゆることに感謝」です。 私の朝の祈りの中にこの言葉があります。

 

「祈ってください!」と沢山の方々にお願いしていた重大なことがありましたが、祈りは龍神を動かし、龍神は雲を呼び嵐となって誰かのよからぬ計画を阻止したと私は思っています。

人知れず、それでも祈り続けて居られたことでしょう。 皆さんに心から感謝いたします。

 

阿吽山房さんからの帰路、案内板を無視することができず、そのお寺さんへと行きました。

そしてそこには空海さまの立像がありました。そして、どうぞ中へと・・、と言われているようで中へと。

綺麗に手入れが行き届いているお寺さんでしたねぇ。

テラファイトをかざした111円をお賽銭箱に投げ入れて、御参りを済ませて帰ろうとすると・・・。

気品あるオーラに包まれた奥様に話しかけられて、お茶とお菓子まで戴くことになりました。

そして天竺山のことや、奥様が高野山から嫁いでこられたことなどお聞きしましたので、ちょっとだけ高野山、空海さまの秘密などを私はお伝えしました。

今まで沢山のお寺さんに行きましたが、偉そうにして「こんな人がお坊さんとは・・」と、本当に嘆かわしいことばかりで、寺院に行っても話することは避けている私です。

でも・・、ここの興禅寺さんは違いましたねぇ。

奥様はじめ、皆さんが素晴らしい気配りのできる人達でした。

とくにお寺さんで御勤めをされる方々は、このような気配り心配りができなくてはなりません。

簡単なようでそれは非常に難しいものかもしれません。 

 

その人に生まれる時から備わったものかもしれませんが、そのような方に接して学ぶことで人生がより豊かになれることでしょう。

「縁ありて栄え、縁ありて滅び」という因縁の法則がありますが、素晴らしい人達により接することであなたの人生も大きく栄えだすことでしょう。

 

               

興禅寺さんからの帰り道、彼岸花(曼珠沙華)に魅せられました。

彼岸花はいろいろな呼び方があるようですが、

狐の松明(きつねのたいまつ) 

狐花(きつねばな) とも呼ばれているようですが、狐の母、愛染明王の花と私はよんでみたいと思います。

 


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倉吉の秘密

2015-10-01 10:58:51 | かごめかごめの真実とは

2015年10月1日(木)

2013年6月に初めて倉吉に行かされたことが今になって理解できるようになってきました。

倉吉には大きな大きな秘密がありそうです。

伯耆国府国庁跡という地名が、三郎岳と出雲大社が向いている愛媛県の無名の山とを結んだ直角二等辺三角形の頂点に位置しています。

小鴨神社(おがもじんじゃ)も頂点の山の裾野にありますね。 

二年前の出来事の一つ一つが今、鮮やかに思い出されます。

倉吉のみなさん、その節はお世話になりましたね。 感謝しています。

 

 

    

山が、三角点が・・、一直線に並んでいます。

 

2013年6月10日(月)

「このような龍が写ってるんですが・・」と、それはそれはハッキリと龍が写った写真を見せられていた私は、「これは私へのメッセージです。私にすぐ来てほしいと言ってます」と言うことで、朝9:42分三宮発のスーパーはくと3号に乗り、11:57分、鳥取駅に着くと、メッセンンジャーのYさんがむかえに来てくれていました。そしてシューマン波動の不思議な女性の運転で、謎の館ならぬビーワンサロン「ようこさんのお店へ案内されました。 そこに集まられた感性豊かなシャーマン的な皆さんに「かごめ」のお話をプロジェクターで映し出してお見せしました。

さぁ・・、みなさんに短時間でどれだけ理解していただいたのか少し不安でもありますが・・。

皆さん、楽しい一時をありがとうございました。 これからのよろしくお願いいたします

終わって、またまたシューマン波動の女性の安全運転で、何か出そうな場所へと案内されました。池の畔の大きな石がある祠で目を閉じてしばらく何が脳裏に映像を見せるか意識を集中させると、遠くからだんだんと身体をくねらせながら龍がうっすらと現れ、近づいて大きくなり天へと登りました。 んん・・ 「明日が楽しみ!」と 一人ニヤリとする私がいました。

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翌6月11日(火) 倉吉駅前のホテルをAM8:30 出発

龍神が待つ、今滝(龍神宮)へ。Dscf9615

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2013年6月11日(火)

  鳥取県倉吉市大宮41-1

 小鴨神社(おがもじんじゃ) の前を通り過ぎようとしましたが、何か気になり車をバックさせて鳥居をくぐって行って、もう感激!しました。

拝殿にコイの彫り物は私としましては始めて見るものでした。

コイは何を教えているでしょう・・・!  お分かり頂ける方は、居られますでしょうか。

お分かりの方は、よ~~く勉強しておられる方ですね。

そして本殿の彫り物もご立派なものばかりでした。

鳳凰に鶴に亀に・・もちろん鴨さんも・・狐さんも・・。 意味ある彫り物が沢山ありました。

この神社がそんじょそこらの神社とは格段に違うことが一目で分かりました。

  由緒あるご立派な神社です。 必見です!

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2013年6月11日(火)

 倉吉市へ龍神の解放へ行ったお話・・の、つづきです。

んん・・ん!? 下の2枚の写真に、水玉が浮かんでいるように写っているのが、見てとれますでしょうか。 そして・・、きれいなブルーの光が映し出されていてとてもきれいです。

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龍神を解放して、それから向かった先は、今泉神社でした。

ここの神社も大変由緒ある神社のようでした。

亀に鳳凰の頭、そして立派な龍も造形されていましたが、部族の復興と復活を願って、そこにご先祖様たちが、子孫たちがくるのを待って居られるご様子に感じ取れました。

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邪馬台国新論

2015-08-11 12:34:48 | 邪馬壹国

2015年8月11日(火)

       秘密NIPPONの《超建国》裏返史  11月発売予定!!

プロローグ       

 朝、電車の窓から何の気なしに空を見上げる。うわ~~~、きれい!! なんだろう、あの色・・!! 白いモコッとした雲のわずかな切れ目に、うすい紫がかったブルーの、神秘的な色。その一層の雲は、まるでこの世とあの世を繋ぐトンネルの入り口のように見えた。あまりにも美しい、その色をとおして、神様が「それでいいんだよ」と応援してくれているようだ。

 私が不思議な世界へと誘われて丁度5年が来ようとしている。

 一切の宗教にも関わりのなかった私だったので、神社にもお寺にも教会にも行くことが無い人生を送っていた。でも、物心ついた頃からというのか、自我がハッキリと芽生え出した頃からというのか、なぜか、「神様も安心して姿を現す世界を造らなければ・・」と、いつも思っている私がいた。

 私は、少年時代から、ひとりで寝転がって空を見るのが、とても好きだった。

 宗教が説く神様ではなく、生まれた時から、いや、生まれる前からかも知れない、私を誰よりもよく知ってくれている、ある絶対的な存在がいて、それを私は「神様」とよんでいる。

 56歳7ヶ月のあの時まで、私は、ただただ一方的に神様に話しかけるだけで、神様が言葉を発してくれるとは想像もしていなかった。黙って空をながめては雲の形や流れを楽しんだり、野山を吹き抜ける風に身をさらして心地よい思いをしたりして、神様を感じていた。私にとっての神様は、そんな寡黙な存在だった。

 ところが、2010年8月11日、56歳7ヶ月のその日、私は、初めて、はっきりと、神様の声を宗像大社で聞いた。

よぉ来たのぉ

これが神様からの初めての言葉だった。そして、その時から、私は、神様が私に語りかけてきてくれる声が、だんだん分かるようになった。それは、しばしば直接的だったり、「そう言われている“気”がする」という状態だったり、また多くの場合には、人々の口を通して伝えられてきたりする。

 その声の主は、時に左耳から聞こえるのは空海様のようであったり、右耳から聞こえるのは天皇家の誰かのようであったりもする。そうやって聞こえてくると、ほとんどの場合、言われるとおりに動かないと、居ても立ってもいられない心境に追いやられる。

 まだ初期の頃のある時、私に契約を迫った神様との交渉の中で、白紙委任状にサインさせられる、という事態まで起きて、それまでの、ごく普通の生活を一変しないとならなくなった。建築家としての仕事はもちろん、偶然に偶然が重なってできあがった超自然的な器具ネオガイア・テラファイトを製造するにも販売するにも十分な時間を与えられることなく、神様の指示に、ただひたすら従う、という生活に完全に変えられてしまった。

 神社仏閣にもほぼ無縁の生活を長い間送ってきた私が、数え切れないほど次々と寺社めぐりさせられたり、穴掘りさせられたり、山登りさせられたり、事務所にいればいたで、テーブル上に大きな地図を広げて、真剣に、行ってきた場所や脳に響いてきた場所にポイントを打って、無数の線やら図形やらを描き続けて、一見、仕事らしい仕事もしなくなってしまった。かつての私を知る人達が皆、異口同音に「上森は頭がおかしくなった。気がふれた」と言って、去って行ってしまわれたのも無理からぬことと判っている。

 こんなにまで私を使って、神様は、いったい何をしたがっているのか? 契約を迫ってきた時、神様は必死の様子で「時間がない! 時間がない!」と怒るように言われた。

 はじめは神様の指示が何の脈絡もないものと感じていたのだが、地図にひかれた線が十字架を示すものであったり、そのうち、きれいな正三角形や二等辺三角形が描けて、図形の点と点の場所にそれぞれ大きな意味が見いだせてきたりして、これは、ただならぬことだとわかるようになった。

 神様からの声もやり方も相変わらず続いている。しかし、神様の方では本当に時間が限られているようで、今年、2015年に入ってから、特に5月の連休あたりから事態は急速に進み出した。

 5年間、神様と文字通り会話することで、神様の全知全能ぶりもわかるようになった。私たち、3次元に肉体をもって生きている人間は、実は、無限の力をもっているのだが、真実を覆い隠されているために、自身を限定してしまっている。3次元の眼で見える事物しか見えていない。見える世界と見えない世界、この世とあの世、この両方の領域で私たちは生きているのだが、この事実を知らないでいる。また、もっと言えば、私たちは、過去、現在、未来に同時に生きている。それは、神様と一致した時、つまり、自我をなくした時、たいへんよく感じられるようになる。

 もし、教えられ、思い込まされていた過去が、全く違ったものであるとしたら、当然、現在の状況も、未来の予測も、違ったものになる。ほとんど教科書的な歴史の知識のない私が、それこそ神様から直接教えられた“歴史の真実”を語ることで、その内容を誰かが信じてくれるなら、そして、たったひとりでも勇気をもって行動を起こしてくれる人がいるなら、明らかに現在も未来も、想像外の世界を創りだせる。

 最近、自分自身でも驚くくらい、神様はいろんな事を一気に、おそらく誰も知らないであろう事柄を、私に直接教えてくれている。とても信じがたいような、奇想天外な話である。

 

 丁度 5年前の今日8月15日でした。  今も神様はこの国の秘密を私に教え続けています。 

その教えられたことを「邪馬台国新論」として纏めてみました。

 

『魏志倭人伝』に合わない日本の史書

「邪馬台国」は、西晋の陳寿(ちんじゅ・233~297)の編纂した『三国志』(成立は280年以降と言われる)という中国の正史の中の「魏書(ぎしょ)」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(うがんせんぴとういでんわじんのじょう)、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に登場する国の名前だ。

つまり、中国の歴史書に記された日本の歴史なのである。紀元239年、倭国の女王卑弥呼(ひみこ)が魏に使節を送り、240年には魏からの使節が倭国に来た。『魏志倭人伝』は、主にこの時の魏の使節の見聞を元に書かれたと思われる。

その後、243年に倭国の使節が再び魏を訪れ、247年には再び魏の使節が倭国を訪れている。このとき、魏の使節は卑弥呼の死に遭遇し、『魏志倭人伝』には、その前後の様子も記述されている。

 問題は、この「中国の史書に書かれた日本」と「日本の史書に書かれた日本」がぴったりと合わないことである。日本で古代の正史とされているのは、『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)だ。

『日本書紀』には、神功皇后の条に唐突に『魏志倭人伝』からの引用があって、神功皇后を卑弥呼にあてようという『書記』の編纂者の意図が見られるが、前後に引用されている百済史との年代の矛盾が指摘されている。『書記』の編纂者は『三国志』を参照できる立場にあって、これをなんとか当てはめようという苦肉の策をとったのだろうが、引用のみで済ませて、日本側からの記述がまったくないのも不自然だ。

 要するに、合わないのだ。『古事記』、『日本書紀』には、編纂当時の政治状況が大きく反映しており、その当時の天皇家が日本を治めることの正当性と正統性を主張する意図で編まれているため、それに合わない国内のものは抹殺(焚書)し、国外のものは先の引用のようにごまかすか無視しているのだ。

 つまり「邪馬壹国」も「卑弥呼」も、日本の正史には登場しないと言っていい。

果たして、どこにあったのか? 大和朝廷との関係はどうなっているのか?

この謎は解けるのだろうか?

 

魏志倭人伝が語る邪馬壹国への行程

 

さて、畿内・九州の邪馬台国論争が始まったのは江戸時代後期というから、すでに150年は論争を続けていることになる。

なかなか決着がつかない理由のひとつは、『魏志倭人伝』に記載されている「里程」にある。

これがなかなか曖昧で数々の解釈が可能なのだ。

 

見てみよう。(「・・・」は中略箇所)

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を度る、千余里、対馬國に至る。・・・又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。一大國に至る。・・・ 又、一海を度る、千余里、末盧國に至る。・・・ 東南陸行、五百里、伊都國に到る。・・・東南奴國に至ること百里。・・・ 東行、不彌國に至ること百里。・・・南、投馬國に至ること、水行二十日。・・・ 南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。

これは、なかなか解けそうもない。別のヒントはないのだろうか?

このような記述がある。

女王國自り以北、其の戸数・道里、得て略載すべし。其の余の旁國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

次に斯馬國有り。次に已百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に對蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

「女王国より以北」については、いろいろ議論はあるだろうが、要するに、今まで記述してきた国については、邪馬壹国への行程にあたり実際に使節が通った国なので、その概要(本論考では省略した。「・・・」の部分にあたる)を述べることができたが、以下の国については、名前だけを挙げるということだ。

 

魏志倭人伝に出てくる、耶馬台国の周辺国

 

さて、ここに挙げられた国名だが、神奈備こと瀬藤禎祥氏のホームページの解釈が非常に優れているので、引用させていただくことにする。瀬藤氏は「女王国周辺とその余遠絶国と神々」と題して、細かく神社名とその住所等を記載されているが、ここでは、国名に関する記述だけ抜き出す。

 

斯馬國 しま 三重県南部 志摩

已百支國 いほき 三重県 五百木

伊邪國 いせ 三重県の伊勢から鈴鹿山脈東部から北は養老山脈にあたる平地

郡支國 とき 奈良県添上郡都祁

彌奴國 みの 美濃、尾張である。

好古都國 こうち 大阪府河内

不呼國 ふこ 京都府綴喜郡、久世郡。木津川、宇治川等の合流点。ここに封戸と呼ばれる渡りがあった。

姐奴國 たな 滋賀県栗太郡、草津市と信楽町。

對蘇國 やす 滋賀県野洲郡、琵琶湖西側から越前までを考える。

蘇奴國 そう 層富。奈良市から北部、京都府相楽郡。

呼邑國 こう 滋賀県甲賀郡 信楽、水口、甲賀。

華奴蘇奴國 かんそう 奈良県添上郡。

鬼國 き 山城の紀伊郡、木津川北部から京都市の市街地付近。

為吾國 あが 三重県伊賀郡、伊賀上野、名張。

鬼奴國 きの 和歌山県、三重県南牟婁郡

邪馬國 やま 京都府 京都市北部、亀岡、園部、丹波高地

躬臣國 こし 北陸方面、越前、越中、越後、近江伊香保

巴利國 はり 兵庫県播磨

支惟國 きみ 岡山県広島県。吉備。備前、備中、備後

烏奴國 えぬ 上野、北関東

奴國 な 信濃、長野県

 

ちなみに、瀬藤氏の説は「邪馬台国畿内説」で、魏の使節の経路は日本海から来たとしている。

 上森は、この「周辺国」を邪馬壹国の「境界線」としてなぞって、その版図を比定した。その結果、邪馬壹国は、但馬、丹後、丹波、摂津、大和にまたがる国土であることがわかった。

 そして、行財政を司る首都は大和の纏向(まきむく)で、女王卑弥呼がいた都は、『播磨国風土記』に「埴岡の里(はにおかのさと)」と記された、現在の兵庫県神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがるエリアだったと推定したのだ。

 

魏の使節は生命の樹を辿って倭国に来ていた

 

さて、版図が比定できたら、次は、魏の使節のルートだ。

 畿内への航路としては、日本海の外海を通るより、やはり瀬戸内海の方が良いのではないかと思われる。理由は3つある。

図をご覧いただきたい。

前出の「イエス・キリストの生命の樹」である。

 

 

この図形は、生野の八幡山から長崎の伊王島へのラインを中心として重要拠点の位置を決めるべく作られたまさに「古代日本の設計図」だ。

11番目のセフィラ、「ダート」は、福山・大門を入り口とする総社だ。

 この「日本の設計図」を霊的・精神的な意味で非常に重要なものと考えていた倭国の人々であれば、当然航路はこの「中心線(センター・ライン)」を意識して決められ、日本海ではなく、瀬戸内ルートになると思われる。そして、出雲大社と馬路を結ぶ「パス」とセンターラインの交点に重要な寄港地である大門がある。

 もうひとつは「航海の安全」である。瀬戸内海も流れのきつい難所が数か所あるが、台風や嵐の影響は外海よりは安全である。

最後に、監視ができることも重要だ。瀬戸内海沿いには海がよく見える山が両岸にあり、船の状況が手にとるようにわかるのだ。

 

順序が逆のようだが、先に結論の地図を示しておく。

『魏志倭人伝』の「郡」は「帯方郡」で、現在のソウル付近と言われる。港としては仁川(インチョン)である。現在は空港があって、ソウルの玄関口になっている。

さて、船の到着地の西宮にも、「仁川」という川、そして地名がある。六甲山を源流とする武庫川の支流の川であり、流域の地名にもなっている。出発地と到着地に同じ地名をつけたのである。すなわち「仁川」から「仁川」へのルートだ。

仁川(インチョン)から朝鮮半島を海岸沿いに「狗邪韓国」まで行く。狗邪韓国の港、馬山(マサン)は古代からの良港であり、元寇のときも基地として使われた。

馬山から対馬に渡る。ここで注意しなければならないのは、対馬で船を乗り換えるということだ。対馬は、北の島と南の島でできていて、「対(つい)の島」という意味なのだろうが、実は陸続きなのだ。小さな舟ならば、陸を運ぶことができるが、大きな船は無理である。そして、なぜか「対の島」ではなく、「対の馬」と書くのだ。

馬山→対馬と、対馬→壱岐→呼子は別の航路で、それぞれに習熟した船乗りがいたのではないだろうか。

 

 

使節のルートはレイラインにも一致する

さて、この図から分かるように、中国の道教の聖地・千山と、使節の出発地である帯方郡(仁川)、その使節が立ち寄る狗邪韓国(馬山)、対馬、壱岐、そして九州本土への上陸地点の呼子は一直線になるのだ。

 上森はかつて千山を訪問した際に、ピラミッド型の形のよい山が、千山を起点に一直線に並んでいるのを見て、コンパスグラスで方角を測っておいた。その角度が真北から145度、つまりこの直線の方向を指していたのだ。

 

2010年以来、上森が教えられているのは、古代からの重要な拠点は、一直線に並んだり、正三角形、直角三角形、二等辺三角形などのきれいな図形を描くことだ。また、そのために、ピラミッド状の美しい山が作られていることもある。

ここにもまさしくそれがあるのだ。

 

「福」の地と円錐形の山を通る七福神の道だった

 

呼子に上陸した使節の一行は、福吉、福岡、福津と、わざわざ陸路を歩かされる。船で行った方が早いのだが、陸路を行くことによって、国防の為に、島か半島を横断したように見せかけて、地理的な関係が分かりにくいようにしているのだ。

そして、航海の安全を守護しくれる宗像大社(弁財天の総本宮でもある)に参拝し、再び船に乗って、関門海峡を通り、八幡(ヤハウェ)信仰の拠点・宇佐八幡宮を船上から拝し、「イエス・キリストの生命の樹」の「ダート」でり、物部王国の総本部・総社(大名持=大国主=大黒様を祀る)への入り口、福山の大門までやってくる。これが水行二十日で、ここが『魏志倭人伝』の「投馬国」にあたる。大門には、鶴島・亀島があり、瀬戸内海の潮の変わり目になっている。

大門を出た一行は、瀬戸内海をさらに進み、西宮に上陸する。上陸地点の目印はきれいな円錐形の甲山(かぶとやま)である。ここには戎(えびす)神社(戎神社の総本宮)があり、甲山の東には仁川がある。

西宮から、宝塚、三田、篠山、春日、福知山、粟鹿を通って、卑弥呼の住む埴岡の里・栗まで1ヶ月の行程だが、陸路といっても、岸から馬や人力で船を曳いて川を遡れるところは、船で行った可能性が高い。西宮から武庫川を遡れば、宝塚までは十分に行ける。

西宮から栗までの間にも、要所要所の目印に、円錐形の山が配してある。三田の有馬富士、春日の小富士山、粟鹿の小倉(おぐら)富士・・・実際に踏査すればもっとたくさんあるに違いない。

「福」のつく土地と、弁財天、戎神の総本宮を通り、大黒天の総本部を意識したこのルートは、「七福神の道」ということもできるのだ。

 

 

国は国境線の警護が重要懸案事項である

 

九州の方から瀬戸内海を船で来て、生野・神河の「埴岡の里」に行くのなら、姫路から市川という川沿いを今のJR播但線のルートを遡れば、ずっと早く着ける。しかし、卑弥呼の時代、ここは邪馬壹国の領土ではなかった。安全のためには、領土が海に接している西宮から、ずっと領地を通って来てもらう方が、日数はかかるが、安全である。

卑弥呼の時代より以前、「大乱」が起こる前は、姫路から北上するルートも同じ国の領地であったのだが・・・。

 

 

 「南」について

 

今まで、「邪馬台国畿内説」を悩ませてきたのが、方角の問題である。里程の書いてある部分をもう一度引用してみよう。

 

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を度る、千余里、対馬國に至る。・・・又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。一大國に至る。・・・ 又、一海を度る、千余里、末盧國に至る。・・・ 東南陸行、五百里、伊都國に到る。・・・東南奴國に至ること百里。・・・ 東行、不彌國に至ること百里。・・・南、投馬國に至ること、水行二十日。・・・ 南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。

 「東行」「東南陸行」はそれぞれ1回出てくるが、「南行」は出てこない。原文では「南至投馬国」「南至邪馬壹国」となっている。

 さて、1冊の小冊子がある。兵庫県美方郡香住町の香住観光協会が発行した『御崎(みさき)平家村のおはなし』だ。

そのなかに、こんなくだりがある。

 壇ノ浦の合戦に敗れた平家の一門の内、清盛の異母弟にあたる平教盛(たいらののりもり)は、そのとき入水したことになっているが、実は落ちのびて、香住に来たという。

その教盛が落ちるときに言った言葉が、

「この壇ノ浦よりも遥か南に壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮らしていけるだろう」

というだ。結局、日本海を東に流されて香住に着くのだが、壱岐・対馬は、壇ノ浦からは、北西方向だ。「この壇ノ浦よりも遥か南」とはどういうことだろう。「南」は方角を指していないのだろうか。

 この小冊子は観光協会が地元に伝わる伝承を元に作成したもので、「史料的価値なし」あるいは「勘違いか書き間違えだろう」と言って片付けてしまえばそれまでである。しかし、上森の探究には、こういったことがつきものなのだ。ヒントは思わぬ形でやってくるのだ。

 では、「南」の字そのものを検討してみよう。まず上の「十」は「草の芽」だ。そして「冂」は「囲い」、「 」は「ナン」の音符であるとともに「入れ込む」意味を含んでいる。全体として「草木を囲いで囲って、暖かい小屋の中に入れ込み、促成栽培をするさまを示し、囲まれて暖かい意。転じて、暖気を取りこむ南がわを意味する。」(『学研漢和大字典』藤堂明保編より)

 

 

灘のつく海域

 

 さて、「囲む」といえば、この航路を見ていると、入江・内海に「灘」のつく地名がたくさんある。現在の地図で分布を調べてみた。

 

 黒丸が「灘」、白丸が「湾」である。地図以北も「湾」はあるが、現在では「灘」は「鹿島灘」が北限である。以前には「常盤灘」と呼ばれた海域があり、福島県沖までがその範囲だ。

今の地図にはないが、神戸沖は「摂津灘」だった。

他にも近世に呼び名が変わってしまっているケースもあるが、この図は、ある勢力の「制海権」をあらわしているように思える。

 

 ちなみに「灘」を漢和辞典で調べると、「水がながれなやむあさせ。」が元の意味である。「難」は水にとっての「難」なのだ。それが、日本に入ってきて「船にとっての難」すなわち「陸からやや離れて、波が荒い、航海の難所。」の意味に転じることになる。

 図を見ると、元の意味と日本での意味の過渡期に名づけられたのか、瀬戸内海の穏やかな海域にも、「灘」と名づけられている箇所がたくさんある。地形では、両側を岬に囲まれ、やや内側に湾曲した海岸線の場所につけられていることが多いようである。ちなみに、瀬戸内海での最大の難所は「音戸の瀬戸」と名付けられている。

 さらに、海域だけでなく、地名としても使われているので、国土地理院のウォッちずで「灘」と入れて検索をかけた結果がこの図である。海域ならずとも、西日本の海岸沿いにほぼ限定されていることがよく分かる。

石川県の河北潟、島根県の宍道湖と中海の畔に集中しているのは、それらの中海を「灘」と認識しているということだろう。また、淡路島の南の海岸沿いに並ぶのは「海に面した」という意味合いで、小豆島の灘山も同様だろう。

高知県は、湾の名前こそ現在は「土佐湾」だが、かつて「土佐灘」と呼んだ名残か、「灘」のつく地名はかなりある。それも「灘」1字を地名にしていることが多い。内陸部に1ヶ所あるのは、湿地帯だったのかもしれない。岡山県の内陸部には「灘池」がある。

岐阜県にある2ヶ所は、川の合流地点を「灘」と意識しているようだ。あるいは、水軍が川を遡って地名を運んだのかもしれない。

 海外の「灘」のついた地名が紹介されているウエブサイトもあり、大連の「老虎灘(ろうこたん・ラオフータン)」は入江というよりも河口、上海の「外灘(ワイタン)」は川の合流地点、古菫灘(ことうたん)は砂漠の中の小さな川の畔と、いずれも川で、日本の「灘」とはつけ方が違うようだ。日本の「灘」の地名の分布には、やはりある部族(水軍?)が関係しているように思える。

 それは、邪馬壹国への航路を守護していた水軍なのではないか。その勢力範囲を後に平家が引き継いだのではないか。平清盛が宮島の厳島神社に深く帰依し、瀬戸内海を航路とした日宋貿易に力を尽くしたことはよく知られている。

 

 

南無

 

「南無」を辞書で調べると、「サンスクリット(古代インド語)のナマスおよびナモーの音写。敬意、尊敬、崇敬をあらわす感嘆詞。」とある。

仏教用語としては、その通りだが、「なむ」と発音する言葉は、日本語には係助詞、終助詞、助動詞、連語、さらに「並ぶ」「並べる」という意味の動詞もあって、非常に身近な言葉だ。

もともと、漢訳の経典に登場したものとはいえ、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「南無大師遍照金剛」「南無釈迦牟尼如来」と庶民の間に流布したのは、おそらく日本だけだろう。

「南無」の意味は、日本語では「帰依します」だが、「南」(単独の発音「ナン」は「なむ」とほぼ同じ)の元の意味「囲まれて暖かい」を加味すると、さらに実感がわくのではないであろうか。「阿弥陀さま」「法華経」「お大師さま」「お釈迦さま」に守られて心から安心できる境地になるということなのだ。

 さて、再び「南」の字だが、「囲んで保護する」という意味合いと、「灘」と同じ「ナン」という音から、「内海」あるいは「領土内の海」「勢力範囲内の海」「安心できる場所」を意味する言葉であったと考えてみると『魏志倭人伝』も「平教盛の話」も合点がゆく。

 ここからはやや空想だが、魏の使節は太陽とか星を見て、方角を確認したのだろうか?あるいは、案内役の倭人に聞いたことをそのまま受け取ったのだろうか?

案内役の倭人が、魏の使者に「向かっている方向はどちらか?」と聞かれて「ナンだ」と答えたとしたらどうだろうか? 彼は、魏の使者をだますつもりなど毛頭ない。「内海で勢力範囲内で我々が安心できる航路だ」と答えたのだ。

 

 

女王国の東

 

畿内説を悩ませてきたもうひとつの記述が「女王国の東」である。引用してみよう。

 

女王國の東、海を渡る、千余里、復た國有り、皆倭種。

 

畿内説では、東に海がないからである。

上森説の邪馬壹国の版図は、日本海岸まで達しているので、東へ海を渡ることができる。千余里は1里=77mの短里で計算すると、77km余なので、80kmくらいか。

この距離は、丹後半島の伊根、あるいは宮津、舞鶴から出発して、敦賀湾の奥の敦賀までの距離に相当する。ここには気比(けひ)神宮という神社があって、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)というこの神社特有の神様だ。この神様の降臨の地、「土公」と呼ばれる塚には、大きな木が生い茂っているが、卵型の岩が八角形に並べられていて、最澄さま、空海さまが7日7夜の祈祷をされたというから、ただ事ではない。

また、気比神宮の摂社に角鹿神社(つぬがじんじゃ)があり、『日本書紀』に垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が祀られているのも注目に値する。

 

 

邪馬壹国の正しい読み方は「しゃもいっこく」

 

魏志倭人伝の原文では、卑弥呼が君臨した国はほとんど「倭国」あるいは「女王国」と表記されているが、一ヶ所だけ、邪馬壹国という国名が登場する。ところが、日本では「壹(壱の旧字)」は「臺(台の旧字)」の誤記とみなされ、一般には「邪馬台国」と呼ばれている。

どんな字が間違えたと言われているのか、大きく表示してみよう。

   

                

    

果たして、間違えるだろうか?

今に残る写本の時代はかなり新しいものではあるが、写本を作ったのはその道のプロである。内容は分からなくても、漢字の写し間違いは可能性が低いのではないか。伝わる間に草書が入ったのなら、写し間違えもありうるが、歴史書に草書は使わないのではないだろうか。

上森は原文の「壹」のまま読んで、これを「しゃもいっこく」と読む。

では、漢字をひとつずつ調べてみよう。

「邪」には、ふたつの意味がある。

ひとつは「よこしま」という意味で、この意味で使う場合、呉音では「ジャ」、漢音では「シャ」と発音する。ちなみに漢方医学では陰陽がバランスを失ってひずんでいる状態をこの字であらわす。「風邪(フウジャ・かぜ)」もそのひとつだ。

もうひとつの意味は「や・か」で、文末につけて疑問をあらわす。この意味のときの発音は、呉音・漢音ともに「ヤ」である。山東半島の付け根には「琅邪(ろうや)」という地名があり、徐福の出身地という説もある。

「馬」は「うま」だが、「向うみずに突き進む」の意味を含むという。

この字は呉音では「メ」、漢音では「バ」、唐宋音では「マ」と発音する。

「壹」  は「ひとつ」の意味で、呉音が「イチ」、漢音は「イツ」である。

 「国」は「くに」、呉音・漢音ともに「コク」と読む。

 「漢音」は、遣唐使が持ち帰ったそのころの長安の漢民族の正しい発音、それに対し「呉音」はそれまでに日本に伝えられていた発音なのだが、長安の言葉からすると「いなか言葉」のようなニュアンスで「呉音」と呼ばれたらしい。「唐宋音」は、鎌倉時代以降に禅宗の留学僧らによって伝えられた発音だ。

 

 「邪馬壹国」は、「邪」を「よこしま」の意味とすると、呉音では「ジャメイチコク」、漢音では「シャバイツコク」となる。

 「邪」が「や・か」なら、呉音では「ヤメイチコク」、漢音では「ヤバイツコク」となる。

 状況から考えて魏の使節は漢音を発音していた可能性が高い。つまり「シャバイツコク」または「ヤバイツコク」である。

 

 さて、上森は、2012年2月、丹後半島の竹野(たかの)神社の社殿の正面上部に掲げられた、つがいの鶏の彫刻を不思議に思っていた。この場所には通常なら竜や鳳凰の彫刻があるはずだからだ。一年後、これは「軍鶏(しゃも)」だと思い当たった。それは、この国の基礎をつくった「モー・シェ」の名前をさかさまに発音して「シェ・モー」そして「シャモ」。

 この神社の別の社の扉にはユダヤの「エフライム族」を象徴するブドウを背景にイエス・キリストを象徴する狐が彫られていたり、その脇障子には、仙人が息を吹くとその息の中にもう一人の仙人が現れる彫刻があって、日本で生まれたモーセの帰国をあらわしていて、神社全体としてこの国の基礎をつくった人たちへの尊崇の念が表現されていたのだ。

 そして、上森は「邪馬」も「シャモ」であり、「邪馬壹国」は「シャモイッコク」と呼び、意味は「モーセの律法を第一とする国」だと考えた。

 では、魏の使節は「シャモイッコク」の「モ」にどうして「馬」の字をあてたのだろう。

 漢和辞典によれば、「馬」の字を「マ」と読むのは後の時代なので、卑弥呼の時代なら、「馬」と書いてあれば「バ」と読んでしまうだろう。

 さて、鉱物の「雲母」は「ウンボ」ではなく「ウンモ」と発音する。天皇の生母「国母」は「コクモ」と呼ばれる。「m」も「b」もいったん唇を閉じてから、母音を発声するときに唇を開く。「m」と「b」は相互に変化しやすい音なのだ。

もし倭人が「m」を「b」のように発音する人たちだったら、正式名称「シャモイッコク」を「シャボイッコク」のように発音したであろう。この「ボ」を写すのに「馬(バ)」の字を使うという可能性も十分に考えられる。

つまり、『三国志』の読者の中国の人たちは「シャバイッコク」と読み、倭人は「シャボイッコク」と発音していたはずだが、正式名称は「シャモイッコク」なのだ。

 または、漢和辞典には「唐宋音」と書いてある「馬」の「マ」の発音が、魏の時代から行われていた可能性もある。もしそうならば、このような煩雑な考察を経ずに、「シャマイッコク」、母音を軽く読むと、「a」が「o」になって「シャモイッコク」の読みが可能だ。

 上森が千山に行ったとき、中国の知人に邪馬壹国を読んでもらったら「シャモイーグァ」と発音した。現代の中国でも「邪馬」は「シャモ」なのだ。

 さらに、魏の使節はモーセやキリストを意識していた可能性もある。モーセが日本に理想国家をつくろうとした拠点は、今の鳥取県の東郷池の畔、馬ノ山だ。「馬」はモーセの象徴として、「対馬」「馬路」「馬山」などの地名にも使われた。『魏志倭人伝』のなかにも、「対馬」以外に「斯馬国」、「邪馬国」、「投馬国」がある。

さらにキリストは、馬小屋で誕生したと伝えられている。やはり「馬」に縁があるのだ。というよりも、キリストはモーセの血をひいているので、それを示すためにこの「馬小屋」の話が作られたのだ。

そのモーセとキリストが理想国家をつくろうとした国、またそのふたりの墓を祀る国、「邪馬壹国」に「馬」の字を意識的に使ったとも考えられるのだ。

そうなると、一般には「邪」も「馬」も悪字で、中華思想から周辺国の名前に意識的に悪字をつけたと言われているが、「馬」は悪字ではなくなる。

ちなみに「卑弥呼」の読みであるが、呉音では「ヒミク」、漢音では「ヒビコ」となる。「ヒミコ」という読みは呉音と漢音を混ぜてしまっているが、よいのだろうか。われわれはあまりにも「ヒミコ」という読み方に親しみ過ぎているような気もする。

 

 

魏志倭人伝が伝えた卑弥呼の死

 

さて、248年に卑弥呼が死んだとき、ちょうど来日していた張政がその様子を見聞することになった。もっとも、国内のどこにいたのかは分からない。記事は人から聞いた話のようでもある。

 卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、奴卑百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺(ちゅうさつ)し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壹與(いよ)年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。

 

 宗女壹與については、この記述の通りではないと、上森は教えられている。これについては稿を改めることにするが、ここではこの記述にしたがって論を進めて行く。

 この墓も埴岡の里に実在する。上森が「婀月山」と名付けた779mの山の頂に、底円部直径100m、上円部の直径50m、墳丘の長さ150mの、どこから見てもきれいなドーム型の墓が作ってあるのだ。

 

(七宝寺から眺める女王卑弥呼の陵墓)

 

上森は殉葬の場所も教えられている。

 『魏志倭人伝』には倭の地の風俗や自然などの記述もある。その中に「山椒」があるが、今でも山椒は神河町の特産のひとつだ。また、『魏志倭人伝』に書かれている「橘」と同じ柑橘類の「柚子」も神河町の特産品だ。そして、猿や雉もいる。

さて、張政らは、政情が不安定な中、帰国することもできずに、命の危険を感じつつじっと身をひそめて不安な毎日を過ごしていたことだろう。帰国が決まったときには、さぞほっとしたに違いない。

 

政等、檄を以て壹與を告喩(こくゆ)す。壹與、倭の大夫率善中郎将、掖邪狗等二十人を遣し、政等を送り還す。因りて臺に詣り、男女生口(しょうく)三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。

 

魏から来ていた張政は、壹與に「そちが倭国を治めるのを、大帝国の魏が承認するので、しっかりやるように」との文を送った。それに対し、壹與は、先に「率善中郎将」の位を魏から賜った掖邪狗ら20人を、張政に同伴させて魏に帰国させた。そして魏の都に至り、男女の生口30人を献上し、そのほか、白珠5000孔、青くて大きな勾玉を2枚、織物20匹を貢いだとのことだ。

 

ここで、「臺」(魏の都、洛陽の中央官庁のこと)の字が使われていることにも注目したい。

そして少し前の卑弥呼が存命中の243年の記事には、

 

 其の四年、倭王、復た使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木 ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す

 

とあり、「壹拝」(拝受すること)という熟語も使われている。筆記者はきちんと「臺」と「壹」の区別をしているのである。すなわち、国名は原文通り「邪馬壹国」、宗女の名前もやはり原文通り「壹與」とすべきだろう。

 ついでながら、この使者の名前、伊声耆と掖邪狗は同じ人物を2重に表記したものとも言われているが、旧約聖書のアブラハムの子、「イサク」を意味するのではないだろうか。もちろん本人ではないが、イサクにちなんで名づけられた、ということだ。

 

 

        邪馬台国の謎は完全解明されました


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気づいたものから行動しなかったら・・

2014-10-21 18:36:42 | かごめかごめの真実とは

2014年10月20日(月)

AM9:30にKさんの家へと着きました。

8月19日以来の突然の訪問客に、チョット戸惑って居られたご様子でしたが、

玄関口へと入れていただいて、2時間弱と8月に撮った写真を見ていただきながら

「あの山は俺の山だ!」と言われた山が、「実はモーセのお墓なんです!」と話している私でした。

お爺さん:「普通の山としか思えんがな~~」

私  :「もう間違いありません。ですので、分かった以上、何もしないでは神様に怒られますからお願いにやってきました」

お爺さん:「でも・・、だ~~れも今は山には入りませんわなぁ。そんなことをしたら村の人達が笑うでしょう」

私  :「じゃ~~、私も金がない人間ですが、金を集めて来ますから、そのお金で山を綺麗にしていただけませんでしょうか。そうすれば村の人も笑わないでしょう」

お爺さん:「それだったら笑われんですがいの」

私  :「じゃ~~お願いします。頂上までの道の草を刈ったり、頂上付近の荒れた草木を綺麗にしていただけましたら、心ある人達も手を合わせにやってきます」

お爺さん:「でも今は森林組合の人達も、うちの山の状況を知ってる人は居なくなってしもうとるじゃろなぁ。一から説明するだけでも大変ですわなぁ」

私  :「過去帳を調べて11代も続いている御家ってなかなかないですよね。 代々大事な御山を守ってこられたんですね」

お爺さん:「偉い大事な人の墓がうちの山にあったら何もしないわけにはいきませんですがにぃ・・」

私  :「私達日本人のご先祖様をたどっていくと必ずモーセに行きつきます。そのご先祖様がこの日本の礎を造ったんですね。そのことを童話として、浦島太郎の物語で私達に教え伝えているんですよ」

お爺さん:「浦島太郎がモーゼですかいのぉ

私  :「この丹後半島にはモーゼ伝説や龍宮城伝説なんか残っているでしょう。本当のことはキッチリ私達に童話として教え語り継いでいましたね」

お爺さん:「私にゃ、今一つ分かりませんですがのぉ、もし本当だったら何もしないわけにはいきませんですがねぇ」

私  :「あの竹野神社は我国の創建を語り継いでいますよ。大変な神社ですよ。意味あるものをちゃんと彫り物で教えていますよ。 ホラ、見てください。拝殿の上の彫り物はどこへ行っても龍や鳳凰ですが、ここは軍鶏ですよ。 そして、ブドウに狐です。 そしてちゃんとモーセまで彫っていますよ」

お爺さん:「もうみんな、自分さえ良ければという悲しい時代になってしまいましたなぁ。昔は皆で神社やお寺さんを守ったものでしたが、今は誰も知らんふりですなぁ」

私  :「もうどこの神社もボロボロですね。 でもご先祖様達は、神社の彫り物に意味あるものを彫って、現代の私達に夢を託していましたね」

・・・

  この日本が今、危機的状況にあります。 日本古来の大和の民族が持ち得ていた、世の為、他の為にこの世に生を受けたことの素晴らしさ、有難さを思い起こしてほしいと思います。  今、私は 素晴らしい人生を送っています。  どのようなことを言われようとも、神様のかすかなバイブレーションを信じて、どこまでも信じて、そのような行動を誰かが見守ってくれていて、金銭的にもサポートしていただいています。

こつこつ貯められた大事なお金を、「上森さん、使ってください!」と・・、涙が出る思いです。

皆様の期待に応えるべく、神様をどこまでも信じてやり遂げなくてはなりません。

 そうしないとこの日本は、危機的状況から取り返しのつかない状態へと沈んて行きます。

 この先にどのようなことが待ち受けているかがハッキリと観えている人は、 何人居られますやら・・??

神様がちゃぶ台をひっくり返されますギリギリまで希望を持ちたいと思う私です。  

空海様は最初から、「時間がない、急げ!」と言って居られた意味が、4年4か月経ってハッキリと分かってきましたが・・・。

            

 

・・・

    

 

  

 


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日光、滝尾神社にはこの日、神様達が待って居られたようでした

2014-01-29 16:53:04 | かごめかごめの真実とは

2014年1月27日(月) 

東京五反田でのアネモネさん主催の講演会の翌日、日光の滝尾の路を散策してきました。

東武日光駅前からほどなく歩いたところで、甘酒の文字が目に入り店内に入って甘酒を注文して日光のことを教えてもらうことにしました。 

「弘法大師空海さまが来られているような所はありますか」と訪ねる私に、丁寧に店の御かみさんが教えてくれました。

美味しい甘酒を飲み干して、駅前のタクシーに乗り、「たきのお神社までお願いします」と迷わず目的地へと行き、滝尾神社、滝尾稲荷神社から行者堂を通って日光二荒山神社入り口前へと凛とした空気の中をゆっくりゆっくり歩いていました。 

日光総合会館前で食事を済ませ、またまたそこから駅まえまでゆっくりゆっくり歩いて行きました。

滝尾稲荷神社で不思議な体験をした私でした。 

目を閉じて智拳印(ちけんのいん)を組んで静止状態を続けていると瞼の奥に鮮やかに滝が映し出され、水の流れも鮮やかに観え、その後、そこの下に何やら文字が映し出されました。滝はハッキリと観えますが、文字がハッキリと読めなくて目を開けました。

 

そうすると今まで目に見えていなかった稲荷神社の奥の方に滝が見え、なんと数歩歩いて振り向いた狐さんの下の丸い石に「成就」の文字が刻んでありました。

 

私のかごめの謎解きと、「成就」の意味を、神様、空海様が何か私に微笑んでいるような、又は、「最後まで・・、成就するまでやり通せ!」と激励しているようにも思えました。 滝のごとく涙涙の浄化の旅でした。

 

日光滝尾神社にはこの日、神様達が待って居られたようでした

 

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「時間が無い、早く次の場所へと行きなさい!」役小角は語りかけてきました。

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一体あなたは誰? あなたは一体何者??

2013-11-29 11:38:35 | かごめかごめの真実とは

2013年11月23日(土・祝)

 丹後からGさんが高速バスを使って三宮までやってきて、電車に乗り継ぎ、「今、駅に着きました」ということで、「今すぐ改札口まで行きます」と言って、事務所からの近道を通ってGさんを迎えに行きました。 AM11時前のことでした。

Gさんは私の事務所に着くなり、「ヒヒロガネです。そして・・これは神武天皇にまつわる埴土です。どうぞ・・」と、貴重なものをプレゼントされました。

折角事務所に着かれたばかりというのに、「今から丹後の神明山古墳に行きたいんですが」と言う私に、「じゃ~行きましょう」と言うことになり、一路丹後へと車を走らせました。

車の中は3人で、移動する会議室ならぬ楽しい会話で、長い距離と時間もアッと言う間に過ぎて、夕方陽が沈む前に到着することが出来ました。

この古墳の麓に、軍鶏の彫り物や葡萄に狐の彫り物などで我が国の創建の真実を語り継いでいる竹野神社がありますが、ここ神明山古墳に眠る人はいったい誰なのでしょうか。

私の脳裏にはピン!と来るものがありますが、今は未だ書かないでおきましょう。

三人で手を合わせて、またまた神戸の事務所まで三人で帰って来た私達でした。

瀬戸内から日本海まで行って、また帰ってくるようなことをやらされている私です。

空海様は最初から、「時間がない急げ!一日遅れればどれだけの人間が亡くなるかお前は分かっているのか!!」と言われますので、叱られないように動いているつもりですが、ただただ動き回るしかない私です。

「うえもりくん、もっと機敏に動けないかね」

「とろくて御免なさいね」と。

・・・

 いただいたヒヒロガネをガウスメーターで計測すると不思議なことが・・・。

本当に不思議です。 石のようで石でなく、金属のようで金属でありません。

一体・・ヒヒロガネって 何 ??

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仙台の旅  遅ればせながら・・

2013-09-11 17:09:41 | かごめかごめの真実とは

2013年8月4日(日)

志波彦神社(しわひこじんじゃ)

手水舎の水の出口は関西以西ではほとんど龍なのになぁ・・?? それがありません。

本殿内部の獅子が狐に見えてしまう私ですぅ・・。 へ~~んなの!??

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鹽竈神社(しおがまじんじゃ)

んん!?こちらの手水舎にも龍はいてませんねぇ。

んん?? 阿吽の獅子は両方とも一角獣ですね。 珍しいですねぇ

そして・・、鶴と亀と鳳凰ですね。 大いに意味がありますねぇ。

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境内に不思議な雲が現れましたぁ

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宝物館では・・

おお・・! 右手の鹽竈神社の鳳凰と左手の志波彦神社の鳳凰の大きさが全然違いますねぇ。その他にも・・シンボルマークが大いに意味がありますね

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