2022年5月28日(土)
今日は待ちに待った役行者さんを偲んでのツアーです。
役行者さんは聖徳太子と尊ばれた蘇我入鹿と斉明天皇の間に次男として生まれた漢皇子(あやのみこ)でした。
だ~~れも知らない、でも本当のことなんですねぇ。
下は、今日のツアーの貴重な資料の一部です。
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昨日はなかなか寝付けず、ツアーの資料を読んでいたら気になることがあって、地理院地図とニラメッコが始まった。
そして・・、行者堂では役行者の母親も祀っていると書いてあったので、母親は宝皇女(斉明天皇)なので、行者堂と斉明天皇の墓とを結んで、もう一点の大事な場所を求めた。
すると・・、見事に正三角形の頂点となる場所に越木岩神社があった。そして越木岩神社で手を合わす先に、鬼子母神(豊岡市)の文字。
武部さんが好きな越木岩神社の磐座は、役行者が5人もの子供を産んだ母、斉明天皇を思って磐座を祀っているように思えました。
ちなみに・・、豊中、豊岡の豊は、豊(扶余 豊璋)・天智天皇との関わりを教えているようです。
2022年5月8日(日)
藤原鎌足の墓は、鎌足公古廟から東南東14.88㎞の場所に移されている。
その移し替えられた藤原鎌足の墓から天智天皇の墓までは、36.52㎞。舒明天皇陵までは35.52㎞。斉明天皇の墓までは38.16㎞。
これら4点の関係図はコンパスを想起させる。
そして、四天王寺から手を合わせ崇める山が長老ヶ岳であるが、その長老ヶ岳と藤原鎌足の墓と、その二点から求められる2:1:√3の地点に赤十字山がある。
偶然にしてはあまりにも・・なのです。
フリーメーソンリーのシンボルと言えば、コンパスと定規ですが、やっぱり藤原君がフリーメーソンの核になっていましたねぇ。
2022年5月7日(土)
藤原鎌足の墓は、鎌足公古廟から東南東14.88㎞の場所に移されている。
おそらく第50代桓武天皇の命で動かされたと私は思っている。
その藤原鎌足の墓から天智天皇の墓までは36.52㎞であり、斉明天皇の墓までは38.16㎞であり、凡そ同距離で二等辺三角形を描いている。
斉明天皇が最初に産んだ子は、大海人皇子(天武天皇)であり次が漢皇子(役行者)。 二人の父親は、蘇我入鹿である。
斉明天皇が次に産んだ子が、中大兄皇子(天智天皇)。その次が中臣鎌足(藤原鎌足)である。この二人の父親は、杉山古墳に眠る百済の31代、最後の王、ウィジャ(義慈王)であり舒明天皇である。
その義慈王と斉明の間に生まれた子が豊(豊璋)であり中大兄皇子(天智天皇)。
その弟が勇(百済王善光 くだらのこにきしぜんこう)であり、中臣鎌足(藤原鎌足)である。そして舒明天皇との間にもう一人、女の子を授かっている。
斉明天皇は重祚していない。蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足に殺された時、彼は皇極天皇だった。
上の絵をよ~~く見てほしい。
これは、談山神社の祭神、藤原鎌足(614-669)の伝記をまとめた多武峯談山神社の縁起絵巻のデジタルデータとして公開されています。
蘇我入鹿は、天皇が座る一段高い御座に居たのです。彼は皇極天皇だったのです。
2020年2月22日(土)
3月14日(土) 大阪梅田スカイビル 36Rで、
午前の部
10時受付 10:30~11:45
オリオン座の山々の磐座 イワクラ学会理事 武部正俊
午後の部
12:30受付 13:00~14:00
播磨国風土記から邪馬台国を読み解く
古代史研究家 市川 慎
14:00~15:00
邪馬台国オリオン座説 上森三郎
休憩
15:20~16:20
質疑
終了 16:30
テラファイトを開発してから宗像大社へと行き、不思議な声を聴いて物語の幕は開いたようでした。
それからいろいろな場所へと、いろいろな人に連れて行かれた後、六甲道の前の事務所で又、不思議な声を聴いて契約を迫られて・・。
不思議な不思議な物語です。
契約した後に、十字架を三つ地図上に描かされて、ほとんどの場所に行かされ、「地下神殿の扉を開け」と生野で穴掘りして・・。
それからほどなくして、八幡山ピラミッドを紹介されていた古代史研究家の市川慎さんとの出会いがありました。
それから数年経って、武部さんを契約の主は私に使わしました。
そして、武部さんとともに誰も知らない行かない山々へと同行してもらいました。
それは、忘れ去られた古代大王たちの墓参りでした。
卑弥呼の墓、天児屋命の墓 モーセの墓、テラの墓 アブラハムの墓、そしてイエス・キリストの墓、マリアの墓。
懿徳天皇の墓、懿徳天皇の曾孫の墓 卑弥呼の親族の墓。
桓武天皇の墓 空海様の墓 蘇我入鹿の墓 藤原鎌足の移し替えられた墓 天武天皇の墓、斉明天皇の墓 藤原不比等の墓。
誰も知らない山の中へと行かされました。・・登らされました。
これらのお墓参りをし終わってやっと、ここに来て、意図的に隠されていた邪馬台国の謎を全て教えられたようです。
凡そ10年が経とうとしています。
そして・・、『邪馬台国オリオン座説』を3月14日に語りたいと思います。
その日には、本も出来上っていることでしょう。
この物語の扉が開かれた場所、宗像大社に今日、報告に参ります。
宗像大社で「よう来たの~~」と待っていたのは、空海様でしたね。
今日は卑弥呼さんと共に、お供の福神様たちが待って居られる御様子です。
私が今まで行けてない、壱岐から呼子、福吉、福岡、香椎、福津と七福神様たちが往来した九州ルートを私に案内してくれるとのことであります。
そして、テラファイトを創るきっかけになった弟の13回忌と、テラファイトコアを創るきっかけになった母の一周忌に手を合わせに故郷、熊本へと参ります。
空海様と共に・・旅をします。
さぁ~身支度して・・と。
TRACES OF THE PHOENIX ・・ 先を急がねばなりません。
2020年1月17日(金)
そして、竜神山が空海様の墓を知る重要なベンチマークの山だった。
イエス・キリストの墓を中心にして半径103㎞の円上に比叡山延暦寺根本中堂が在ったり、
天台宗系の天台宗系の修験道総本山があったり、真言宗系の修験道総本山など重要な寺院や役行者や行基の墓が並んでいることは、
タレスの定理の基準になるもう一点があることが推測できる。
・・それで延暦寺根本中堂からイエス・キリストの墓を通って円と交わる点に何があるかを見ると・・・!
円錐形に尖った山が存在した。
・・それは『竜神山(たつがみやま)』。 山の名前からしても重要な山であることが分かる。
延暦寺根本中堂とタレスの定理から求められた竜神山を底辺として、円に交わる点に位置する行基の墓や役行者の墓など、直角三角形になる重要な寺院など沢山浮かび上がる。
そして、重要な竜神山と空海様の墓とを結んで、二等辺三角形になる点を見ていくと、
・・弘法大師廟、藤原武智麻呂の墓や斉明天皇の墓などが浮かび上がる。
そして、空海様の墓の位置決めは、竜神山と七宝山と2:1:√3の位置に決定していることが分かる。
そして、七宝山と八国見山と空海様の墓は、正五角形の一部の直角三角形を描くポイントであり、
七宝山と高島と空海様の墓は、同じような直角三角形を描く。
それにしても・・、空海様の墓の位置を教える、七宝山 竜神山 八国見山 全て綺麗な山ばかりですねぇ。
2019年11月13日(水)
天台宗 鳳樹山興善寺は文徳天皇の勅願により、自覚大師円仁の創建と伝えられています。
その興善寺の建築配置と向きは、見事な設計です。
山門から入る角度は、コンパスグラスで321度。 この方向は、津山市の亀座池である。
又、山門中央に敷きこまれた方位石は、310度。 この方角には、マリアの墓。
鬼子母神堂で手を合わす角度はは、248度。 この方向には、剣山。
不動堂では、38度に向かって手を合わせます。 この方角には、桓武天皇の墓。
聖徳太子堂では、41度に手を合わせますが、この方向には、文徳天皇陵。
石段を上がって行きますが、石段は32度に向かって上がって行きますが、この方角は藤原不比等の墓。
上がり切ったら、18度方向に参道は曲がっています。 この方向には、天狗塚(長峰山・神戸市灘区)。
それから参道は10度に折れ曲がっています。 この方向は、丹後半島にある経ヶ岬です。
そして本堂は、21度に手をあわせますが、この方向には天狗岩(神戸市灘区六甲山町)です。
イエス・キリストの墓と藤原不比等の墓とこの天狗岩の三点は、ケプラー三角形を描きます。見事です!
本堂前庭の参道は、249度へも伸びていて、この方角には剣山。
そして、そこから329方向へともう一本の道があり、この方法の先には觜崎ノ屏風岩(兵庫県たつの市新宮町)。
そして、鐘楼(しょうろう)。この鐘を突く方角には、荒神山(岡山県津山市荒神山)。
鐘楼と聖徳太子堂と鬼子母神堂の三棟は、磁北0度のラインを基軸として配置されています。
本堂前を東に向けると産土神社がありますが、この産土神社で手を合わす角度は32度ですが、この先には藤原不比等の墓があります。
産土神社は藤原不比等の墓に手を合わすように造営されています。
本堂からイエス・キリストの墓までと、文徳天皇陵までの距離は、共に95~96㎞で、三点は凡そ二等辺三角形を描きます。
又、本堂からイエス・キリストの墓までと、桓武天皇の墓までの距離も、共に96㎞で、三点は二等辺三角形を描きます。
んん~~ん、これも見事です!
天武天皇の墓(衣笠山・奈良県吉野町南国栖)から興善寺本堂までの距離と、文徳天皇陵までの距離は、共に75㎞と同距離で三点は二等辺三角形を描きます。
んん~~ん、凄すぎます!
興善寺本堂から高野山弘法大師廟までの距離と、本堂から手を合わす先の天狗岩までの距離は、46~50㎞で三点は直角三角形を描きます。
んん~~ん、あまりにも規則性が見られます。
藤原不比等の墓とイエス・キリストの墓と、弘法大師廟は、40度50度90度の綺麗な直角三角形を描きます。
桓武天皇の墓とイエス・キリストの墓と、弘法大師廟も直角三角形を描いていましたね。
なんと! なんと!!
文徳天皇陵からイエス・キリストの墓までと、弘法大師廟までの距離は、共に90㎞で三点は見事に直角三角形を描きます。
ちなみに、藤原不比等の墓と、亀座池と剣山は直角三角形を描きます。
まだまだ有りましたねぇ。
弘法大師廟と天武天皇の墓と斉明天皇の墓は、2:1:√3の直角三角形を描きましたね。
まだまだた~~くさん霊ラインは繋がっています。
天台宗 鳳樹山興善寺は、日本の本当の歴史を作った大王や天皇たちの墓の場所をキッチリと教えています。
文徳天皇勅願にして自覚大師円仁創建の天台宗 鳳樹山興善寺。
文徳天皇も円仁も全てを知っていましたねぇ!!
このようなことが分かった上で、16日~17日は高野山、吉野へと行きます。
そして12月7日(土)、藤原不比等公の墓へお参りに行きます。あと空席は2人ですが、今日の午前中でキャンセル待ちになることでしょう。
2019年7月22日(月)
昨日21日(日)は参議院選挙の投開票日でした。
その前日20日(土)は思いもよらない所へと行くことになりました。
「佐藤栄作総理大臣の墓があるんですが・・」タクシーの運転手さん。
「そうですかぁ、じゃ~連れて行ってください」と私。
王や王家の方々のお墓参りばかりさせられていて、最近は藤原不比等君や天武天皇の墓、斉明天皇の墓など行きました。
そして悲惨な京アニの爆発火災の件で、藤原家の方々の墓がその地域に集中していることも教えられました。
そして佐藤家の墓に思いもよらず立ち寄ることになりました。
立派なお墓でしたぁ。
・・「家紋は何だろう??」
私は初めて見る家紋でしたが、源氏車という紋でした。
んん?? アレレ!?
源氏車でも、佐藤家の家紋と佐藤栄作総理大臣の家の家紋はちょっと違っていますね。
どうしてなのでしょう・・??
佐藤さんのルーツは藤原鎌足に行きつくようですね。
2019年6月17日(月)
私は今までこれほどに大きくて重要な方位を教える見事な磐座を見たことがない。
岡山県赤磐市の岩神神社の磐座も重要な場所を教える立派な方位石でしたが、奈良県吉野町矢治の岩神神社の磐座は圧巻である。
私はコンパスグラスで計測してきた角度を地理院地図に落とし込んで、岩は何を私達に教えているのかを調べると・・・。
もう見事である。
向かって一番大きな面は、コンパスグラスで337度である。
この角度の方向には、大和郡山の松尾寺の補陀落山である。
ここには、聖徳太子=蘇我入鹿の墓がある。
又、向かって右手の面は90度である。
この方角には、天武天皇の墓である衣笠山の麓の清谷寺を教えている。
そして、向かって左端には岩が割れているが、この割れが教える角度は64度である。
この方角には、天武天皇の墓である衣笠山を遥拝する浄見原神社がある。
又、浄見原神社がある山の三角点も64度に位置していて、その三角点と岩神神社の磐座と、天武天皇の墓である衣笠山の三角点は、見事にケプラー三角形を描いている。
岩神神社の磐座から1.74㎞東に天武天皇の墓、西に1.74㎞に宮滝遺跡。
この地域の神社やお寺も計画された配置になっている。
そして、天武天皇のもとで古事記や日本書紀の編纂に携わった藤原不比等の墓と、天武天皇の墓と平安京建設に大いに関わった秦河勝の墓の三点も、ケプラー三角形を描いている。
又、天武天皇の実母である斉明天皇の墓(比定されている天皇陵ではない)と、天武天皇の墓と、高野山の弘法大師廟は、見事に2:1:√3の直角三角形を描いている。
これらは、全て計算されつくした位置決めになっている。
そしてそれらの墓は、全て兵庫県神崎郡神河町南小田の標高836m地点にある、大国主命=イエス・キリストの本当の墓に繋がるように三角法で霊ライン網が構築されている。
そしてこれらは、時代と共に幾重にも幾重にも賢者達の墓が三角法で重ねられている。
岩神神社の磐座は、天武天皇の墓とその父である蘇我入鹿の墓を教える重要な方位石である。
この磐座を造らせたのは、天武天皇の産みの親 斉明天皇である。
浄見原神社から見る天武天皇が眠る衣笠山は、雄大で実に美しく愛おしい・・!
2019年6月16日(日)
斉明天皇陵はありますが、本当の斉明天皇の墓は分かっていません。
でも、現在のカーナビに劣らないほどの精度で、意味ある3点を三角法で位置だししてお墓の場所を決めています。
ですから、基本さえわかれば割り出せるように先人たちはしてくれています。
斉明天皇の墓は、天武天皇の墓である衣笠山と高野山の弘法大師廟の3点で2:1:√3としていました。
衣笠山から天武天皇を斉明天皇のお墓へとお連れしました。
竹藪をかき分けて目指すポイントへとたどり着きました。
「墓が自然に陥没しています」と武部さん。
「盗掘されていたら、周りに掘った土が盛り上がっているでしょう」と。
6月9日(日) 天武天皇と斉明天皇母子の御対面でした。
6月16日今日、天武天皇の墓と斉明天皇の墓を教えてくれた藤原不比等君の墓に登ります。
2019年6月15日(土) 吉野宮へ その5
浄見原神社を後にしていよいよ衣笠山へと向かいました。
今日中に母斉明天皇の墓へも行かなくてはなりませんから、ゆっくりしていたい場所にもゆっくりできませんでした。
目指す登り口はすぐそこなのに、通行止めの立て看板が立っていました。
それでぐるっと車は表示されていた迂回ルートをたどることになりました。
上るルートは、衣笠山の南に位置する大蔵神社からと決めていました。
武部さんが選んだルートは、コンタラインが密になった急斜面で、磐座を見ながら一気に尾根へと登りつめ、目指す山頂点へとたどり着きました。
山頂点手前で、切り立った大きな岩にわざわざ大きな岩をせりだささせたような見張り台でもあり、龍神岩とも呼べる形の磐座も目を楽しませてくれました。
「ここが天武天皇が埋められた場所かぁ・・」と、感慨深いものが私にはありました。
早速簡単なお供えをして、「君が代」を歌って天武天皇への挨拶としました。
以前は君が代を歌うのをためらっていたという武部さんですが、今は自然と自らすすんで「君が代」を歌う人へとなられたようです。
武部さんが両手を広げたり、歌を歌いだすと不思議と風が吹き出します。 これはもう100%そうなる不思議さをいつも感じます。 何なのでしょう・・?? お供えものはその場で必ず口に入れることにしている私です。この世で食べる、味わうという行為は、見えない世界の人達が私達の身体を使って、味わっていると私は常々思っているので、必ずそうしています。
武部さんは車の運転をしてくれているので、私が少しだけお酒も口に含みました。
武部さんは、山頂点のすぐ下で、人工的に造ったと思われる祠を発見しました。
「祠は、浄見原神社の方角と見事にピッタリです」と声が弾んでいる武部さんでした。
ここもゆっくりすることなく、下山となりました。
2019年6月12日(水) 吉野宮へ その3
翌日9日の宮滝の朝は、清々しいものでした。
「タナカさん、夜中に何かありましたか!?」と私。
「夜中に何か分かりませんが、ガタガタと音がしていました」とタナカさん。
「タナカさんは、鴨族の血を引いた御姫様ですよ」と私。
タナカさんは、鴨の部屋に泊まりました。
鴨族は賀茂であり、天武天皇の母である斉明天皇は賀茂の血を受け継いだが故の運命に翻弄されました。
本当の斉明天皇の墓から真北に京都の下賀茂神社があるのは偶然でしょうか。これは意味ある配置です。
朝も温泉に浸かり、大きな窓の向こうの谷合の山並みの向こうに思いを馳せていました。「今日、そちらへ行きます」・・と。
朝食は、土鍋に炊かれ鮎の雑炊でした。 これもまた非常に美味しいものでした。
朝食を済ませたら、ゆっくりすることもなく、宿を後にしました。
そして最初に立ち寄ったのが、宮滝遺跡後でした。
そしてそこから次に向かったのが、岩神神社でした。
武部さんは前日に行っていたとのことで、私たちを連れて行ってくれました。
途中、見事に三角と丸い特徴ある山が現れました。
この型は、この山の向こうに重要な役割を担ったホキ集落があることを教えています。
そしてその山が大きく目の前に現れたところがビックリする巨大な方位石の磐座が神社の裏にそびえていました。
磐座に近づいてコンパスグラスで角度を測ってきましたが、これらの角度が何を教えているのかをその場で知りえることはできませんでしたが、後日地理院地図に落とし込んで分かった時、それはもうビックリするばかりです。 ・・つづく