2020年10月28日(水)
王家の方々のお墓参りと確認作業は続いています。
10月3日(土)弘文天皇の墓
4日(日)天武天皇の墓
4日(日)志貴皇子の墓
24日(土)額田王の墓
24日(土)十市皇女の墓
25日(日)葛野王の墓
・・と、お墓参りに行ってきました。
それらの場所は、全て山の上に造営されています。
『崇める』の字は、それらのことを端的に教えています。
現人神たちは、山の上に葬られ祀られているのです。
現代の考古学の学芸員の方々の常識とは、「お墓は山の上にはありません」という常識がまかり通っているようですが、いつまでもそのようなことを偉そうに言っていたら、神様に『祟られる』ことになります。
先祖を敬い、山を崇めなかったら化けて出るぞぉ~!と、どこかで聞いたことがありませんかねぇ。
そうそぅ、コロナ禍の時代になったということは、神様たちの堪忍袋の緒が切れたということでしょう。
私は、三角法を駆使してお墓の位置決めがなされた王家の方々が葬られ祀られている場所を教えられ、特製のゼロ磁場Lロッドコアで地底に玄室があるのかを確かめましたが、6ケ所全てにそれぞれの形のお墓が保存されいることが分かりました。
さぁ~大変です。
今までにも法則に則って割り出されたお墓の場所には、石室が保存されています。
本当のお墓は、山の上にあるのです。
額田王の墓から天武天皇の墓までと十市皇女の墓までは12.17㎞と同距離で二等辺三角形を描いています。
また、葛野王の墓から弘文天皇の墓までと十市皇女の墓までも20.8㎞と同距離で二等辺三角形を描きます。
あくまでも仮説を立て、地理院地図の等高線を読み解いて割り出した場所に行って、特製のゼロ磁場Lロッドでそれぞれの地底の空間の大きさと方角を読み解いての100%の確率です。
三角法でのお墓の位置決めの仮説は正しいことを物語っています。
あとは、地権者の了解のもとにひとつづつ入口を開ける作業で、そのことは立証されます。
御一方御一方、御霊に手を合わせ感謝の意を表し改めて供養してあげなければなりません。
「かごめの唄の夜明けの晩」が迫りつつある今だからこそ、その作業に取り掛からなければなりません。
鶴と亀の統合です。
後ろの正面の山を崇め祀らなければなりません。
2020年10月17日(土)
弘文天皇と天武天皇と志貴皇子の墓参りと調査を終えて、「みんな再開してどうなったかなぁ~」と思いながら、お三方の位置情報を地理院地図で整理していたところへ、〇重さんから久しぶりの突然の電話です。
「10日のセミナーに行きま~す」という会話から、「ところで、十市皇女の墓はどこにあるの!?」と。
〇重さんは、10年前のこの不思議な物語の始めの頃、いろいろと私を明日香などに案内してくれた方でした。
「とうちのひめみこって誰ですか」と私。
「弘文天皇の后で天武天皇の皇女よ」と。
このタイミングで、大変な人物名を口走ります。
今の世の中、知らなくてもインターネットですぐさま検索して知ることができます。
大変便利な世の中です。
調べれば知るほどに、このタイミングですから、「十市皇女の墓に行きたい!」と、弘文天皇と天武天皇が言っているような気がしてきました。
いえいえ、「私のお墓にも来てください!」と十市皇女が言ってるような気になってきます。
その時、ちょうど地理院地図を開いて整理していましたから、電話を切った後、その方がどこに眠って居られるかを割り出すにはさほどに時間も要りませんでした。
その時代の天皇や王家の方々の墓は、全て関係を持たせた場所に三角法を駆使して造営されていますから、10分もかかりませんでした。
2020年10月15日(木)
10月4日(日)天武天皇の墓から向かった場所は、弘仁寺の裏山である虚空蔵山だった。
虚空蔵山は、春日宮天皇と呼ばれた志貴皇子の墓である。
弘仁寺に着いたのは夕方五時前で山頂に登る道はもうかなり薄暗くなっていた。
山頂傍には小さな祠が祀られていたが、それをゆっくり見ることもなく特製のゼロ磁場Lロッドコアを取り出して、山頂の地底の探索を行った。
結果、志貴皇子の墓は東西に長い玄室でした。
もうかなり日も暮れてきていたので、急いで山を下りました。
天智天皇の第一皇子である弘文天皇の墓と、第七皇子の志貴皇子の墓とは、一ラジアンに意味をおいた直角三角形を描いています。
素晴らしい、位置関係ですねぇ。
彼らは歴史の真実をたどれるように、三角法でお墓の位置決めをしています。
山頂近くはイノシシが掘り返して赤い土がむき出しになっていましたが、早く掘り出して供養してあげなさいと言ってる気がしましたねぇ。
「弘仁寺の明星堂の意味が分かったかね」・・と、空海さま。