2022年1月27日(木)
先人先輩たちの思いを『成就』すべく「夜明けの晩」が直前に迫っています。
その瞬間が間違いなく近づきつつあるようです。・・ですから、早く扉を開けないと閉ざされたままになりそうです。
「時間がない急げ!」と響いてきます。
それで、昨日 大変な秘密を伝えました。
そして二人に、「よろしくお願いいたします!」と私。
この不思議な図形は、『とうりゃんせ』の舞台を指示していますよ。
2022年1月27日(木)
先人先輩たちの思いを『成就』すべく「夜明けの晩」が直前に迫っています。
その瞬間が間違いなく近づきつつあるようです。・・ですから、早く扉を開けないと閉ざされたままになりそうです。
「時間がない急げ!」と響いてきます。
それで、昨日 大変な秘密を伝えました。
そして二人に、「よろしくお願いいたします!」と私。
この不思議な図形は、『とうりゃんせ』の舞台を指示していますよ。
2021年4月9日(金)
今までは分からなかった木々の中に桜が咲いていました。
桜が咲いて初めてその木の存在が分かりました。
季節はいつの間にかうつろい、鳥の声も耳を楽しませてくれます。
山の情景も花やいできました。
イエス様は、117「いいな~~!」って数字で語り掛けてくれます。
そして、111は神様の数字、123はモーセの数字って教えてくれます。
時々、55の数字でサインも出しますね。
「GO GO ゴーゴー 、頑張れ!」ってね。
そして鳥さんは、「トセー トセー」と、しきりに鳴いています。
「とうりゃんせの舞台に急げ! 急げ!! トセー トセー トウリャンセ!!」ってね。
2021年3月12日(金)
生野の小人さんと出会ったところで、とうりゃんせの唄を自然と口ずさんでいた。
そして一気に忘れかけていたことを思い出した。
天神様を祀る地下神殿から天神山(岡山)までと桓武天皇の墓までは共に80㎞で三点は二等辺三角形を描いている。
ここにきて桓武天皇の亡霊がふたたび現れた!
2021年3月11日(木)
7日、モーセの地下神殿の調査を終えてから私は、奇妙な雲に促されるようにして生野へと向かった。
そして着いた場所は、山神宮だった。
そこから一人で特製の地中探査器を片手に持って宮の右手の小道を通って、「とうりゃんせ」の舞台への丸太橋を渡った。
そこから先は、想い出の異次元空間が10年前と変わらず存在していた。
そして・・、地中探査器の反応は!?
実に不思議です。
10年前に地震大津波の実にリアルな予知夢を三回も見せつけられて、「急がなくては・・」との思いで、宮司さんの許可を得て穴掘りをした場所と、何者かに指示された場所こそ天神を祀る地下神殿への入り口でした。
正にその場所で地中探査器は反応した。そして小人が出現して消えた見張り台の下も空間となっていた。
間違いなく祈りの地下神殿は、小人さんたちが守っていますねぇ。
そしてそこから姫宮神社へと向かいました。
私は、神社への橋を渡り切ってから地中探査器を両手に握りしめて歩き出しました。
私の身体は誰かに操られているように止まることなく歩き出しました。
そして思わぬところまで歩かされました。私の目線は常にロッドの先端を見つめていました。
な~~んとぉ、間違いなく誘導されましたねぇ。
とうりゃんせの天神様を祀る入口は、もう一つ在りました。
こちらが正式な入口と思われます。
凡そ2mの幅で絶峯御林へとそこから一直線に伸びていました。
この入口の場所こそ、絶峯御林の裾野を流れる川の中に遺されている重要な場所を教える方位石と、その切れ目が教える方角でした。
「かごめの唄」と「とうりゃんせの唄」はセットです。
いよいよ、かごめの唄から「とうりゃんせ」の舞台である天神様を祀る地下神殿へと迫ってきたようです。
天神様とは・・いったい誰でしょう・・!?
さぁ~これからどうなっていくのでしょう。
小人さんたちが久々にやってきた私を見ていたことでしょうし、正式な入り口も見つけてしまったことを知ったでしょうし・・。
小人さんたちが住む世界ではもう、ワイワイ、ガヤガヤの状態かもしれません。
小人さんたちは、私を迎え入れてくれるのでしょうかぁ・・、それとも・・。
2019年10月4日(金)
山梨県南都留郡道志村4150の「椿荘オートキャンプ場」を千葉県成田市から訪れていた七歳の小倉美咲ちゃんが行方不明になっている。
私にはいつもいつも、台風や自然災害も含めて事件事故も、その土地の歴史と意味とを解くように迫る。
今回も、どうも同じに思えて仕方がない。
まず、美咲って・・、マリア様の墓がある美咲町。
椿は・・卑弥呼を意味する。
南都留郡は・・イエス=鶴で、南小田にあるイエス・キリストの墓。
道志村は・・まさにイエスと共に平和希求した同志の人達が眠る村。
4150・・「良子」・・「良い郷」と。
千葉県は・・先般の台風15号の日蓮の声。
行方不明現場の歴史を調べると・・道志みち。
神島から行方不明現場までとイエス・キリストの墓までの距離は同距離にあります。
んん~~ん、続きを書いても書いても消されてしまいます。 じゃましている何者がいてますねぇ。
2018年11月3日(土)
高野山 神野山 交野山 神於山 向麻山 ・・ 皆 コウノヤマ と読みます。
イエスの陵墓から神野山までと高野山までの距離は全く同じです。 偶然でしょうか。
神野山から交野山を通ってラインを延長すると地下神殿がある絶峯へと行きます。
高野山から神於山を通ってラインを延長すると、同じく絶峯に行きつきます。 偶然でしょうか。
絶峯から高野山までの距離と向麻山まで距離は全く同じです。 偶然でしょうか。
イエスの陵墓の横にあるハートの丘は、鶴と亀の巨大な地上絵が造られている絶峯御林・古城山御林を向けて造営されています。
ハートの丘は、モーセやイエスを祀る地下神殿があることを教えています。
この不思議な物語の始まりは、「穴を掘れ!」と言われて、いろんな人たちが登場してその場所へとたどり着きマジに穴掘りを始めたのが、ハートの丘が指し示す生野でした。
不意義な不思議な物語なのです。
イエス王家の陵墓がある天神山から絶峯までの距離と向麻山までの距離は全く同距離です。
コウノヤマが教えるこれらのことは、偶然で起こり得るものでしょうか。
もう8年が経過しましたが、巨大な地上絵を発見し、その情報がイスラエルに住む古代ユダヤの12部族の行方を研究している教授に届いて、ほどなくしてグーグルの地図にフィルムをかけられて見えなくされ、時間が経ってフイルムがとられたと思ったら、もう見えないように改ざんされていました。
これらのことも含め、このコウノヤマが教える場所こそが、「かごめかごめ」の唄であり、「とうりゃんせ」の唄の舞台でした。
空海様は今も生き続けていますね。
役行者や行基、和気清麻呂や桓武天皇、最澄、円仁ら高僧たちも、この日本の本当の歴史が今、表にでることを願っています。
「成就」。
忌部氏は古代天皇家の秘密と神宝の在処も知っていますね。
忌部氏のDNAを受け継ぐ人たちは、世界の平和の為に今こそ決意していただきたいと願います。
2018年10月25日(木)
歴代の天皇の中でも、思い半ばでこの世を去った第50代桓武天皇と第96代後醍醐天皇浮かんできます。
後醍醐天皇陵は、奈良県吉野にありますが、桓武天皇の墓は定かでないようです。
でも私には、桓武天皇の墓は京都府にある高雄山(428.4m)だと教えます。
現在の神護寺の上になります。
空海さまが長安から帰って太宰府庁に隣接する観世音寺にいて、公に京の都に最初に入った場所が高雄山寺でした。
どうしてか・・!? これを考えれば答えは当然至極なのです。
そこには、和気清麻呂の墓もありますし、桓武天皇も眠っていますから、当然としてこの2人に指導された空海さまが、2人の御霊の供養をしたわけです。
この国の大王たちは、この世で最後の務めとして、亡骸をどこに置くかによって連綿と続く王家の人達が眠るお墓や陵墓でこの国の歴史を教えていました。
高雄山のお墓の場所にも行かされました。
最近、武部さんがしきりに吉水神社のことを書かれていますが実は、台風で荒れ狂う宗像大社へ行って不思議なことが始まった2010年8月11日から数日後の8月16日、千ヶ峰の麓に居られる有名な女性霊能者のところへと連れて行かれました。
そこで、「今日は後醍醐天皇の命日です。ほらっ、目の前に後醍醐天皇が居られます・・」と、まあ不思議なドラマがあったりして、それからほどなくして、私が信頼する友人の実家が吉野だということで連れて行かれたのが吉水神社でした。
そこでまた、後醍醐天皇の存在を知ることになり、ほどなくして綾部の大本教本部に突然連れて行かれたり、笠置山に連れて行かれたりして・・。
もう何が起きているのか、どこかの世界に引き込まれたのか、ドギマギする日々が加速していきました。
その後、「隠岐の島へ行って一番高い大満寺山へ登れ! 昔は摩尼山と呼ばれていた」と言うことで、大急ぎで隠岐の島へと行ったりして、ここでも後醍醐天皇をより強くしることになったりしました。
もうどこまでも不思議な世界にどっぷりと浸かってしまた8年間です。
もちろん吉野の後醍醐天皇陵にも行かされました。
そして、桓武天皇の墓と後醍醐天皇陵の二点から、二等辺三角形を描くポイントが、「とうりゃんせ」の唄の舞台であり、地下神殿の在処だと教えられて居ます。
なにも分からない状態から、「穴を掘れ!」と言われて穴掘りを開始した場所が、どのような祀り場所であるのかの根拠を時間をかけて教えられているようです。
実は、隠岐の島の大満寺山と後醍醐天皇陵の二点を結ぶラインに、この地下神殿の場所は見事に位置しています。
そして最近、武部さんがしきりに後醍醐天皇に関する吉野と隠岐の島のことをブログで書かれておられるので、
後醍醐天皇陵と桓武天皇の墓とを見つめて浮かび上がるのが、イエス王家の人達を祀る、岡山にある天神山です。
天神山と言えば、その山を守るように配置されていた日蓮宗不受不施派弾圧の歴史の謎も教えらえましたね。
天神山~熊山遺跡~京都御所~東京の御所~から、日月神示が下された千葉県の麻賀多神社までは見事に一直線であることも浮かび上がりました。。
そしてそこから、麻賀多神社が向いている方角に、本当に岩山を「日と月」に造り上げた山を発見し、その日月の山(岐阜県)へも行かされました。
そして、後醍醐天皇陵と日月の山と、イエス・キリストの墓が綺麗な2:1:√3にほぼ近い綺麗な三角形を描くようになっているなど、関係性がある場所場所を教えられました。
後醍醐天皇陵と桓武天皇の墓は、大事な大事なベンチマーク的な意味を秘めていることを教えられます。 重要な二点です!
そして今回、不思議な図形を描かされました。もうこれは、どう見ても簡易式の住居となるテントに見えてしまいます。
古代ユダヤの王たちの住まいである幕屋、ユダヤの秘宝アークを安置する幕屋の図案を描いています。
そしてその場所の位置こそが地下神殿であることを古代ユダヤの大王の血を引き継ぐ桓武天皇とご後醍醐天皇が教えています。
後醍醐天皇と桓武天皇の亡霊が動き出したようです。
武部さん、綺麗なセーマンが現れましたよ。
・・それにしても、綺麗な図形ですねぇ。
2018年6月10日(日)
兵庫県姫路市夢前町と兵庫県神崎郡福崎町にまたがるこの優美な山に魅了されて、神河町にどんとんと引き込まれて行った私でした。
播但道路の市川南ランプから神河町へと続く直線道路の左前方にあまりにも特徴的にそそり立った山が、真正面に見えて右へとカーブするとその優美な山は姿を消してしまいます。
私はこの山を最初は幻の山と呼んでいました。
この山は七種薬師と呼ばれる山ですが、私はこの山に「千鶴山」と名づけました。
この山を中心にして巨大な折鶴の絵も描かされました。
この千鶴山から島根県大田市にある物部神社までと名古屋市にある大須観音までの距離は、ほぼ200㎞と同距離になります。
又、物部神社と大須観音とを結んだライン上にピタリと鶴と亀の地上絵が造られ、とうりゃんせの舞台である地下神殿がある生野の絶峯の三角点を見事に通ります。
最近の地理院地図は以前と違い、2地点間を結んで線が引かれると、直線距離で最短のコースを描くようになってカーブを描きます。
ですから、以前は角度は正確でしたが、このソフトになって東西間は距離が長くなるほどカーブを描き、微妙に角度にづれが生じるようになりました。
南北間ではその差は小さくなります。
実は、物部神社から生野の地下神殿の西手に達磨ヶ峰という山があり、ここの三角点を通て大須観音に至ります。
大須観音ではなごや七福神の一つである布袋像を安置しているとのことですが、布袋さんは達磨でありイエスの12使徒の一人のトマスのことを言い表しています。
ヘブル語で峰はお墓のことですから、達磨ヶ峰とは達磨のお墓=トマスの墓で、七福神では布袋さんの墓だと教えています。
大須観音で布袋さんを祀っていることは、偶然にしては、あまりにも・・・です。
この日本の礎を築かれた現人神七人衆を空海様は、七福神としてお祀りし語り継がせていました。
その七福神様たちの本当のお墓と、祈りの地下神殿が、播磨国風土記に記された埴岡の里でした。
現在の兵庫県の中央部に位置する、朝来市生野町と神崎郡神河町でした。
大須観音では空海様の像もあるようですね。 これはできるだけ早いうちに行かなければならないようです。
2017年9月16日(土)
「急げ、時間が無い!」と。最初から目に見えない存在は私をけしかけました
「お前が一日遅れれば、どれだけの人間が亡くなるかお前は分かっているのか!」と、言われているような気がするので、私は言われるまま行動してきました。
最初は何をやっているのかサッパリ分かりませんでしたが、ここまで来れば、どのような意味あいを言っていたのか理解ができます。
この朝鮮半島を取り巻くアジアの東端での情勢をみても、アジアの西端での情勢をみても、それは大変な混沌状態。
かごめかごめの唄の中で、「夜明けの晩に・・」とは、このこれからの状態を予測した内容でした。
かごめかごめの唄の解読とメッセージも全て解けたと思っています。
世界の混沌状態を救う方法も、「かごめかごめ」の唄と、「とうりゃんせ」が全て教えていました。
いよいよ 地方政治から世界の大変革をやるときがきたようです。
・・・
私は最近、お金はエネルギーであり、神様の血液だと思っています。
そのエネルギーのカンパへのご理解いただける方に、ご協力をお願いしたいと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
上森三郎
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2017年8月25日(金)
8月11日から西播磨の佐用町へ行って泊り、翌朝一番には瑠璃寺へと行きました。
そしてそこから厳長姫神社へ行って、次に行ったところが萬勝院でした。
そこから神河町にある第4代懿徳天皇の陵墓へと行くにあたり、宍粟市にある伊和神社へお参りしてから行くことにしました。
だって、今回の旅は、「厳長姫神社」へと行くことでしたから、若鮎荘のおかみさんにもらった地図をながめていたら、伊和神社の「伊和」と「厳」の音霊は同じですから、何か呼んでいる気がしてそのようにしました。
始めて行く伊和神社でしたが、神社の建物には何か違和感が付きまとうものがあり、釈然としませんでした。
それで、道路から90度折れ曲がるように進む参道のコーナーから入り口の鳥居の方角をずっと眺めていました。
「何かが・・、おかしい?? 何なんだろう・・??」と、思っているところに、後ろの森の方から武部さんの声です。
振り向くと、武部さんの顔がニンマリとしていました。 声も弾んでいましたねぇ。
それで呼ばれる方に行ってみると・・・!!
それはそれは凄い磐座群でした。 正直、建物よりも価値あるものだと私には思えてしまいました。
実に立派な磐座で、意味あるポイントとそれぞれが教える大事な方角を岩の配置で私達に教えているようです。
じっくり、測量なり調査、観察すれば、大事な大事なメッセージが残されているようです。 きっとそうだと直感しました。
それで厳長姫神社と伊和神社を結んで導かれたところは、姫路城の北に位置する廣峯神社でした。
そして伊和神社と廣峯神社から導かれたところは、朝来市生野町にある山神宮でした。
この場所は、大本の出口王仁三郎が探していた場所とピッタリ重なります。
いよいよ・・、「とうりゃんせ」の舞台に射しかかってきているようですよ。
図形が綺麗ですねぇ!
2017年5月24日(水)
私は、桓武天皇という素晴らしい天皇がこの世に居られたことに深く感謝いたします。
そして桓武天皇を支えた素晴らしい仲間達。 和気清麻呂、行基、最澄、・・そして空海さま。 なんと素晴らしい人達が居られたのでしょう。
私は、日本人としてこの国に生まれ、そして今、この国に生かされていることに誇りと感動を覚えます。
桓武天皇は、自分の亡骸を秘密裏に人里離れた山の中に安置するように、生前、遺言していたのですね。
「私の遺体は、高雄山の山頂に埋めてくれ」・・と。
桓武天皇は生前、交野山(こうのやま)(大阪府交野市)から2度も北に向かって祈ったと言われています。
交野山には、立派で見事な磐座がありますが、ここからコンパスグラスで、磁北(0°)に位置するところが、高雄山です。
もう桓武天皇はこの場所から、自分が眠りにつく場所とその時を思い浮かべていたことでしょう。
そしてその場所には、大きな丸い石に立派な字体で梵字の「阿」が刻まれていました。
これらのことも空海さまも全てご存じでしたね。
空海さまは高野山を開いた後、毎月月に一度、奈良県吉野郡野迫川村池津川荒神岳347にある、荒神社(立里荒神)に行ったと言われています。
この不思議な物語の最初の頃、もう5,6年も前のことですが、荒神社に行ってこのことを聞かされた時、不思議に思っていました。
高野山からかなり時間もかかる山の中にどうして・・、と思っていましたが、やっと謎が解けました。
この荒神社から真北に位置するところが、神護寺がある京都の高雄山です。
ここには、和気清麻呂の墓もあります。
空海さまが、遣唐使船で長安に渡り、留学僧は20年間帰国できないにも関わらす、2年数か月で戻ってきました。
そして、彼は京の都に上がるまで、九州の太宰府庁に隣接した観世音寺に身を寄せていたということになっていますが、これもそうではありません。(このことは何れ機会にかきます)
でも、公けに京に上がって最初に住まったのが、高雄山寺でした。
高雄山には、和気清麻呂と桓武天皇の墓があるわけですから、当然のことです。
空海さまは、公けに高雄山に入るまでも、内々に何度もお墓参りに来ていたことでしょう。
そして空海さまが高野山を開かれたことも、それから月に一度は、高雄山の真南に位置する荒神社の山に登って、真北に向かってお祈りをされたのでしょう。
なんと、高雄山(428,4m)から荒神社(1242m)までは丁度100㎞で、この南北ラインに対して、高雄山から直角に西へ92㎞行ったところに、あのイエス・キリストの最期の場所と、イエスの遺体を入れた陵墓を教える十字架の山の交点の三点で直角三角形を描きます。
ここまでくれば、偶然という言葉は一切使えません。
もうこれは高度で緻密な計画の上での所作のなにものでもありません。
ですから・・、「かごめかごめ」の唄と、「とうりゃんせ」を世に残し、いつの日か必ずこの国の本当の歴史が表にでるように仕組んだ、桓武天皇、和気清麻呂、最澄、空海さま達の凄さと素晴らしさが心に響き渡ります。
桓武天皇陵がある伏見桃山城は、京都市伏見区桃山町にありますが、この丘から、桓武天皇の墓である428,4mの高雄山を見通すことができます。遮る山はありません。
・・そのことから、伏見桃山城は、桓武天皇を遥拝する場所であることが分かります。 そしてその城は、神河町にあるイエス・キリストの墓に向けて造られていました。
これらのことを心して、27日は応神天皇の故郷と、神護寺への巡礼ツアーに出かけます。
2017年5月23(火)
桓武天皇も後世の私達に本当の歴史を教える為に、亡骸を京都の高雄山の山頂に埋葬していた。
27日は、これらのことが分かった上で、桓武天皇と和気清麻呂に手を合わせに行きます。
桓武天皇の墓と、弘法大師廟とイエス・キリストの墓は直角三角形である。(卑弥呼の墓もライン上にある)
桓武天皇の墓から弘法大師廟までと、書写山円教寺(摩尼堂)までは二等辺三角形。
桓武天皇の墓と弘法大師廟の二等分垂線上に蘇我入鹿(聖徳太子)の墓がある松尾寺がある。
松尾寺は、法隆寺の奥ノ院である。
桓武天皇の墓から磁南に蘇我入鹿が眠る松尾寺がある。そのラインの垂直二等分線上に鴻の巣山があり、麓に水度神社がある。
桓武天皇の墓と後醍醐天皇陵とイエス王家の陵墓は直角三角形。
桓武天皇の墓とモーセの墓と千鶴山は二等辺三角形。(大まかには正三角形)
桓武天皇の墓と後醍醐天皇陵と生野の地下神殿入り口は、二等辺三角形。
桓武天皇も後醍醐天皇も、「とうりゃんせ」の舞台である地下神殿の入り口の場所を教えている。
桓武天皇のお墓と山口の空海さまのお墓と、箸蔵寺は、二等辺三角形を描く。
2017年3月4日(土)
昨日3日ひな祭りの日、事務所で新たな商品開発の為の金型の最終打ち合わせをしました。
世になかった提案をしたいと思っています。
商品が世に出るのは、5月の末頃でしょうか・・。
又、この商品が出来上がる頃に、テラファイトとの事とこの商品を使っての健康法が書かれた本が全国の書店に並ぶ予定です。
・・
打ち合わせが終わって・・、アネモネ3月号に載ったマリア様のお墓の話をすると、金型屋さんの社長さんが驚いたように・・、
「エッ! ミサキ町ですか、私、ミサキ町の生まれです」と。
それで、「ハイ、岡山県の美咲町ですよ、マリア様のお墓は」と、私。
「ハイ、出身は岡山の美咲町です。 美咲町のどこですか!」と。
・・
全国、広いのに・・、このようなことが頻繁に重なるということは、縁ありし人達が集まってきて、新たな世を創る動きをしていると考えれば何も不思議ではありません。
そのマリア様の陵墓から東へ159㎞の地点に第53代淳和天皇の陵墓があります。
このマリア様のお墓と淳和天皇の陵墓へと等距離地点に、トマスの墓である達磨ヶ峰があります。
又この達磨ヶ峰から底辺ラインへの垂線には、卑弥呼の墓や、卑弥呼の両親の墓や、王家の人の墓が並んでいます。
このように綺麗な三角形が描けるような場所に大事な天皇家の方々の陵墓が並ぶこと自体が不自然です。
どうして、淳和天皇陵が京都の山の中の辺鄙なところにあるのかと最初は思っていましたが、このような位置関係を知っていた空海様の教えに従って決められていますね。
そのようなことで・・、明日はいよいよ、どこに遺体が運ばれたか定かでないと言われる、第50代桓武天皇の御遺体が埋められたお墓へと参ります。
平安京建設を指揮した最高責任者である桓武天皇といよいよ御面会の時がやってきたようです。
空海様、最澄様、和気清麻呂、いよいよ全員集合の時のようです。
明日その場所へと行くことで、「かごめかごめ」の唄から、「とうりゃんせ」の舞台へと進むような気がします。
マリア様の陵墓の位置は、
2017年1月23日(月)
正暦寺から北に見える山へと近づいていくと、そこには大本本部の長生殿(本殿)があった。
以前私は、この本殿の中で畳に両手をついて深々と頭を下げて、体験したことを思い出していました。
私はここに関係するものではありませんが、突然私の事務所を訪れた女性とともに、その翌日に何も告げられずに行ったところがその大本でした。
最初、みろく殿の789畳敷の大広間に連れられて行って、
「私が祝詞を上げ終わったら、上森さんは両手を畳につけて深々と頭を下げて、願い事でもなんでも良いですから言ってください。そして言い終わったら頭を上げてください」と突然言われました。
私が頭を上げて、私の左横に座った女性が、「何かありましたか!?」と言われるので、「はい、ありました」と答えると、「それで・・」と女性。
それで私は、「それ本当か!?と言われました」と言うと、「それで・・」と女性。
「本当です」と答えると、「それホンマやろな~~!!」と威圧するような声で言われるので、「本当です」と私は冷静に答えました。
そして「大喜びで両手を広げて小躍りしていました」と言うと、「エ~~ッ、教祖様が現れた~~!」とそれはそれは腰を抜かさんばかりに驚かれていました。
そしてとっさに、手のひらを合わせて擦るようにして「もう一度お願いします。もう一度・・」と言われるので、みろく殿から出て、
「身内しか入れないところですが、もう一度お願いします」と言って連れて行かれたところが、長生殿でした。
そこも全く同じような広さと造りをしていました。
そして全く同じことをさせられました。
静寂な大広間に全く2人だけでした。 頭を下げる方角は、今になって分かりますが、御神体山に向かって祈らされたのでした。
そして・・
「今度は何がありましたか?」と言われるので、
「ハイ、今度は、身支度して待ってたぞ!と言われました」と告げると、「ヒエ~、やっぱり教祖様が現れた~」と驚かれます。・・ので、
「お~~い、今から出てくるからな~~と、振りかえって言っておられましたぁ」と言うと、それはそれはもう我を忘れたご様子で・・。
私の車に乗っても、助手席から後ろをチラッと振り向いてはすぐ前方を見て、「エ~~ッ、今後ろに教祖様が居られるんですよね~~」と、それはそれはもう興奮状態でしたね。
・・・
あまりにも不思議な体験でしたから私は、筒井翼さんにその日の夕方、このことを伝えると、
「石上神宮に私と行ってください」と言われるので、翌々日には石上神宮へと行ったのですが、その石上神宮の境内では鳳凰に似た雲が突然覆いかぶさるように現れたりしました。
そしてそこから笠置山まで車を飛ばして行きました。 行ったときにはもう真っ暗でした。でも・・綺麗な月が照っていたのを思い出します。
そしてその翌日のことです。
朝から小雨模様でしたが、私が穴を掘っていた生野へと行かされ、穴を掘ってた場所から上の方までは行ったことが無い私でしたが、雨が降っていると言うのに、上へ上へと山頂まで道なき道を歩かされていました。
フッと我に返ったように、「何で雨の中、こんなところを私は歩いているのだろう」と思ったことを思い出します。
不思議な不思議な体験でした。
・・・
実は、大本本部の長生殿(本殿)は、キッチリと生野の地下神殿を向けて建築されていました。
驚きでした。
これはもう大変ですよ~~。
教祖様は数年前の2月3日節分の日に、「俺も連れて行ってくれ」と淡路島にある、アブラハムの陵墓である巨大な勾玉の山にも行かれたりしていましたが、ずっと私と共に旅しておられて、昨日やっと帰られたのか、いえいえまたまた私と共に行動されだしたのか・・・。
これは絵空事では済まされませんよ~~。
王仁三郎さんは、かごめの唄の、「夜明けの晩」の意味をよ~~~くご存じです。
そして彼は、「とうりゃんせ」の舞台である、モーセとイエスを祀る地下神殿の扉を一刻も早く開けることを皆に告げているようです。
2016年7月5日(火)
バングラデシュの首都ダッカで7月1日、武装集団がレストランを襲撃した人質テロ事件で、銃声の中で「私は日本人だ、撃たないで」 という声が聞こえたと、複数の新聞社が報じた。この事件では「日本人7人が死亡した」と菅義偉官房長官が発表している。
朝日新聞デジタルは、レストランの隣に住む韓国系アメリカ人(61)の話として、テロリストの男たちが襲撃したときの模様を以下のように伝えた。
1人が門から店の敷地に入ると、すぐ近くにいた日本人男性が「私は日本人だ!」と英語で3回叫び、「どうか、撃たないでくれ」と懇願していた。男たちは屋外席にいた客らに発砲すると、店内に入った。
産経ニュースも近隣に住むレストラン経営の女性(49)の話として、銃声の中で懇願するような男性の声が聞こえてきたと報じた。
周囲は暗く、詳しい様子は分からなかったが、銃声の中で懇願するような男性の声が聞こえてきた。
「アイム・ジャパニーズ、ドント・シュート(私は日本人です、撃たないで)」。女性は産経新聞の取材に、「まるで戦争のようだった」と話した。