散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

天皇制を考えない

2019年03月16日 | 歴史
題名は間違いではありません。「天皇制を考える」ではなく「天皇制を考えない」です。

近頃、本当に考えません。元号が変わるのは面倒だな、ぐらいです。天皇家のお嬢さんの結婚にも何の興味もありません。

じゃあ昔は考えていたかというと、そりゃ今よりは考えていたでしょうが、特に深く考えたことはありません。

昔はお茶の水方面にいくと明治大学の前に「タテカンバン」があって、「天皇制打破」とかデカデカと書いてありました。だからそれを見ると、「なんとなくは考えて」いた気はします。

今はそういう風潮もないので、本当に考えないなと思います。

ただし「昭和天皇の戦争責任」や「君が代問題」は高校ぐらいからよく考えました。そして私なりの結論を得ましたが、特にそれを主張する気もないので、ここには書きません。

ついでに言うと邪馬台国も考えません。ヤマタイ→ヤマトの連続性があるとかないとか、畿内だとか九州だとか。そもそもヤマタイコクなんてないぞ、ヤマイチコクだとか、昔は「政治性がからんで」、随分と熱い「戦い」があった気がします。学問論争というより「政治論争」でした。まさに「天皇制をめぐる戦い」「政治の戦い」「右と左の戦い」です。

あの時代を考えると天皇問題も随分と「おだやか」になりました。

今上天皇の退位の理由は流石に聞きました。「昭和の終わりのように、天皇が重態になった時、国民がみんな喪に伏すようなことがあってはいけない」という部分が印象的です。

昭和の終わり、井上陽水がクルマのCMにでて「みなさん、お元気ですか」と言ったら、「天皇が病気なのに、お元気ですかとは何事だ!」と放送中止になりました。あれは悪夢です。今上天皇も「あれを繰り返してはいけない」と考えているようで、正しい選択だと思います。基本的に「いい人」みたいな気がします。会ったことも話したこともありませんが。これは天皇だからではなく、全ての老人(私も含む)に対して共通して思うことですが、穏やかな老後を過ごしていただきたいものです。

織田信長が豊臣秀頼に転生したら・豊臣秀頼はドラマ、小説の主人公になりうるか。

2019年03月15日 | 豊臣秀頼
豊臣秀頼に「誰か」が転生する小説が「きっとあるだろうな」と思って検索すると、一作ヒットします。例によって「高校生が」秀頼に転生するというものです。読んではいません。「例によって」と書いたのは「信長協奏曲」においても「高校生が転生」しているからです。

私など「頭が柔軟でない」せいか「言葉が通じないだろ」とか考えたりします。まず明治以後の和製漢語が使えません。

使えない言葉の例・・「自由」「革命」「美術」「宗教」「文学」「意識」「文化」「文明」「民族」「権利」

その他、無数にあります。西周、森有礼、福沢諭吉などが外国の概念を「日本語化」した言葉です。それから例えば「人間五十年」という場合の、「人間」とは「人の世」のことで、「今とは用法が違う言葉」も無数にあります。発音も違います。秀吉はたぶん「フィデヨシ」に近い発音です。だから現代から転生しても言葉が通じません。

まあ、そんな心配は必要ないですが、転生なんてしないから。

織田信長が豊臣秀頼に転生したら、という「題」をつけたのは、「豊臣は存続できただろうか」と考えたからです。あと「ちょっとふざけてみたくなった」からです。

信長は1582年に死にます。豊臣秀頼は1593年に生まれます。1598年の10月ぐらいに「転生」すると、秀頼はその時、満5歳です。10月なら秀吉は一か月前に死んでいます。

まず怒るでしょうね。「信長である秀頼」は。あるいは悲しむ。「織田信忠までが死んだのか」と悲しむ。「秀吉は三男の信孝を殺しやがった」と怒り狂うことも考えられます。

周りをみると、大坂城には信孝を殺した直接の下手人である次男の織田信雄がいます。それから信忠を見捨てた信長の弟である有楽斎、それから織田信包がいる。こいつらにも「怒り狂う」でしょうが、5歳では斬り殺すことも、切腹させることもできないでしょう。

あと五大老制にも怒るでしょう。最悪のしくみです。しかもメンバーが悪い。家康、病気の前田利家、ほとんど口をきかない上杉景勝、どう考えても凡庸な毛利輝元、お前は誰なんだと言いたくなるような若僧である宇喜多秀家です。

で、関ケ原は2年後に迫っています。関ケ原段階でも7歳ですから、「何を言っても相手にされない」という状態が続くと考えられます。

ただしその後、11歳、つまり小学5年ぐらいになれば、多少は自分の意見を通せるでしょう。1604年です。もう家康は将軍となっています。その翌年には大御所となって秀忠が将軍です。

誰であろうと、流れを変えるには「遅すぎる」感じですが、それでも、

まずは「淀殿と大蔵卿局を大阪城から追い出して、北政所(ねね)を自分の公式の母親であると宣言」する。北政所を自分の「後見」にするわけです。まあ、関ケ原が終わっているとなると、効果は薄いでしょうが、北政所を「かか様扱い」してきた加藤清正、福島正則、それから黒田長政あたりはちょっとはビビるでしょう。親類の浅野長政も困惑するでしょう。家康はビビりませんが、「面倒だ」とは思うかも知れません。

でも「そこで手詰まり」となります。

「信長である秀頼」が周りを見渡しても、「かつての自分の重臣」はほとんどいません。みんな死んでいます。1604年の話です。

柴田勝家、前田利家、村井貞勝、丹羽長秀、佐々成政、滝川一益、池田恒興、堀秀政、前田玄以、、、全部いません。残っているのは細川幽斎ぐらいです。細川幽斎は織田にとっては外様の家臣です。ちなみに太田牛一も生きてはいます。織田譜代の金森長近もいますが、4万石程度ぐらいの小大名です。

他の大名を見ても、関ケ原後ですから、「家康親族、家臣の大名」と「かつて秀吉の子分だった大名」ばっかりです。

もっとも「転生した」と仮定した1598年だって大名は「かつて秀吉の子分だったやつら」と「かつて敵だった毛利、上杉、島津、長曾我部」ばかりです。かろうじて前田利家がいますが、病気です。

つまるところ「勝手知ったる昔の家臣」はほぼいません。関ケ原後ですから、側近にできそうな大名もいません。清正、正則ぐらいでしょうか。それと片桐且元。

そうなると「育てる」しかない。木村重成とか大野修理とその弟大野治房、それから渡辺糺などを育てるしかない。でも11歳では「きつい」でしょう。

つまり「誰が転生しようと」、秀頼の置かれた状況は「きわめてきつい」わけです。

ただし、大阪の陣段階では「既に22歳」ですから、相当な活躍はできるはずです。真田信繁の進言をいれて「大坂城を出て野戦をすれば」、「戦術的勝利」は可能かも知れません。

また「籠城する」なら、カルバリン砲、セーカー砲、半カノン砲、石火矢などを沢山調達しておく。大坂城側からも「ガンガン大砲を撃って」やればいいのです。「炸裂砲弾ではない」ので、要するに鉄の塊を飛ばすわけですが、徳川側の陣屋を破壊したり、心理的に混乱させたりする効果はあるはずです。

でもそこから「政治的勝利」を勝ち取るのは難しい。幕藩体制は既に成立から10年以上が経っています。

つまり言いたいことは、豊臣秀頼が仮に信長並みの才能を持っていたとしても、関ケ原後では「きつい」ということです。

一番いい方法は「石田三成の挙兵を止めて、関ケ原を起こさない」ことでしょう。7歳の子供にそれができるかなあとは思いますが。

ちなみに、

大坂の陣段階において、「秀頼の中身が信長だったなら」、大坂城を出て華々しく戦い、そして死んだとしても、後年大河ドラマの主人公にはなれると思います。


☆全く別の「逆転パターン」も考えることはできます。

関ケ原後であっても、浪人が沢山います。大坂の陣には十万集まったとされています。

「信長である秀頼」が、15歳ぐらいから7年かけて、大坂の陣までに、「大坂城にある有り余る金」を使って「鉄砲と大筒、西洋大筒を買い込む」。

そして浪人衆を家臣化して「軍事訓練」を行う。数年あるから「組織化された統率のとれた十万の軍隊」が出現します。

それを駆使すればあるいは幕府を倒せるかも。なにせ幕府は島原の乱の鎮圧にだって苦労したのです。

史実としては「せっせと寺とか鐘とか作っていた時に」、上記の強大な軍事集団を作れば、逆転の展開もありえます。

もっとも、その行動を家康と秀忠が「黙って看過している」とは思えません。しかし「中身が信長」なら、そこは「なんとかする」気もします。毛利、福島、熊本の加藤、堀尾、浅野なんかを取り込めば、つまり強大な軍事力を前提に、これらの外様藩に調略を行えば、なんとかなる気がするのです。取り込めなくても、誰も味方しなくても「最新の武器を持つ、組織化された統率のとれた十万の軍隊」があって、大坂城があり、砲弾攻撃でアタフタする淀殿なんぞを追放しておけば、勝ち目は十分あるでしょう。


最後に、私個人としては「豊臣政権が続いてほしかった」とは思ってもいません。これはあくまで「思考実験」に過ぎません。

戦国史ファン、大河ドラマは「東国を軽視」してきたか。

2019年03月15日 | 戦国時代
今回も「歴史新書y」関連ですが、批判は書きません。

伊東潤・乃至政彦共著「関東戦国史と御館の乱」

こんな記述が最初の方にあります。

「司馬史観以来、戦国史は西国偏重でした。すべては京の都が中心であり、そこから遠い地方で行われた戦いは、すべて局地戦というとらえ方をされ、その帰趨は、ほとんど天下の動向にかかわりないとされてきました。また東国は、西国に比べ、文化的にも軍事的にも後進地帯であると、何の根拠もなく言われてきました。」

「司馬史観以来、戦国史は西国偏重でした」

日本語表現として非常に解釈がしにくい一文です。

司馬さんの本や司馬さん原作のドラマが多く作られ、国民に受容された。そうして「司馬史観なるもの」が国民にじわりと浸透した。
「その結果、戦国史の研究は西国中心になった。」という意味なのか「研究者はともかく、戦国ファンは西国にのみ注目してきた」という意味なのか。

おそらく「戦国史を扱ったドラマは西国、畿内中心だった。国民の関心も織田、豊臣、徳川に集中した」という感じなのでしょう。

そうなのかな、となんとなく私は考えています。

大河ドラマは「地方を描くこと」にこだわる傾向「も」あります。武田信玄、真田親子、数回にわたり映像化されています。「武田信玄」「風林火山」「真田太平記」(大河ではない)「真田丸」。伊達関連なら「独眼竜政宗」。上杉謙信は「天と地と」だけですが、「信玄関連作品」には必ず登場します。さらに上杉景勝なら「天地人」。西国ですが遠国である「毛利元就」。

まあ「相対的に少ない」のは確かですね。戦国以外なら「風と雲と虹と」「炎立つ」「樅ノ木は残った」「草燃える」「琉球の風」「北条時宗」「義経」「八重の桜」「花燃ゆ」は「京都中心の作品では」ありません。

謙信は一回ですが、上杉家なら「天地人」があるから二回です。ただし謙信主人公は大昔の話です。

鞭声(べんせい)粛粛(しゅくしゅく)夜河を過(わた)る、とか書いても、これが川中島における謙信ことを詠んだ頼山陽の詩だとは若い人には分からないでしょう。上杉謙信が主人公になったのは50年前だからです。僕だって「天と地と」なんて覚えていません。

四国が描かれない。長曾我部が描かれない。
戦国島津も描かれない。毛利も一回だけ。東北だと伊達が一回。戦国北条氏が「主人公になったことは」一回もない。

ただし甲斐、信濃は意外と濃厚に描かれてきた。武田信玄、上杉謙信、真田昌幸、信繁、信之。

川中島の戦い、有名なわりには「ドラマ素材としては面白くない」のです。何回もやって「ほぼにらみ合い」です。4回だけが多少知られていますが、実態がよく分かりません。
上杉謙信の「車がかりの陣」とか。どういう戦術、陣立てなのか、ほとんどわからないわけです。

一番有名な川中島の戦いですらその程度です。

「やっぱり局地戦だな」と僕には思えてなりません。「御館の乱は関ケ原にも匹敵する重要な戦いで、その後の歴史に多大な影響を与えた」と伊東さんは言いますが、そんなこと言うなら「川中島の戦い」だって、「厳島の戦い」だって「上田合戦」だって、「みんな関ケ原に匹敵することになってしまう」でしょう。

まあ、もう少し考えてみます(続く)。

補足
ちなみに西国、畿内だって描かれていません。畿内の三好氏だって描かれませんし、近江の六角氏も描かれません。浅井長政も朝倉義景も「信長のわき役」として描かれるのみです。
これはある程度「国民の期待に沿った」ものなので、つまり三好を描いても観てもらえないわけで、なんともしょうがないことなのかも知れません。

北条氏政の名誉回復・森田善明氏は平成の八切止夫なのか。

2019年03月14日 | 戦国北条氏
前回に続けて「歴史新書y」の「悪口」を書きます。

森田善明氏「北条氏滅亡と秀吉の策謀」。八切止夫「信長殺し、光秀ではない」の悪夢がよみがえりそうな本です。

言ってることは簡単で、

1、北条氏政は歴史の流れを認識し、秀吉に従うことを約束していた。しかし秀吉は途中で北条討伐に政策を変更し、上洛を「拒否」した。北条氏政は「稀代の歴史作家」である司馬遼太郎氏が言うような「おごり」を持った人物ではないのだ。

2、名胡桃城強奪事件なんかなかった。北条討伐の大義を得るための秀吉のねつ造だ。それに真田昌幸が加担したのだ。

そして「ついに定説は覆り、北条氏政の名誉は私によって回復された。私はあの司馬遼太郎氏さえ超えた存在なのだ」という「ご本」です。

北条討伐は「いくさ」です。謀略も策謀もそりゃあるでしょう。

「武田家滅亡は織田信長の策謀、謀略だ。勝頼だって、小山田だって、他の武田家臣だって、最後は信長に降伏しようとしたのだ。でも信長はそれを許さず。実際に降伏してきた者の多くを殺した。勝頼も殺した。これは信長の謀略だ!」と言っているのに「近い」と思います。

その秀吉の策謀を見抜いて「北条氏政がどうしたのか」を書けば、北条氏政の「救済」にはなるでしょうが、「秀吉にだまされて殺された上、秀吉の宣伝工作によってアホな大名の汚名まで着せられたのだ」と森田さんは言っているわけです。そうだとしたら「騙されたほうがアホ」なのです。

北条氏政は武田や徳川や上杉と堂々と戦って、関東に一大勢力を誇った戦国大名です。私もアホではないと思います。

「真田丸」では高嶋さんが演じましたが、実に魅力的な武将として描かれていました。最期も立派でした。(むろんフィクション)ですが。

北条氏政の名誉回復には私も賛同します。ただし森田さんのご本はちっとも名誉回復になっていません。ただし色々資料は使っているので、「ご苦労様」とはいいたくなる本です。

ただし
1、自分の主張に合致する一次資料(主に手紙)は真実として扱う。
2、自分の主張に合致しない一時資料は「疑わしい」とする。特に秀吉の資料は当時のものであっても基本的には「ねつ造」として扱う。

という具合です。初めに結論があって、その結論に沿う一次資料をせっせと探す、という謀略論者(研究者も含めて)がよくつかう資料の使い方をしています。

「おわりに」にはこう書かれています。
「天正18年に滅びた北条氏の無実を主張した歴史研究者は一人もいない。そのために北条氏は、現在に至るまで、愚かにも自らの過失によって滅びた、と信じられてきたのである。」

そりゃ「無実を主張する歴史家」がいるわけありません。北条氏は「罪があって滅びたと考えている人間はまずいません」から、「無実を主張する必要がない」のです。
引用した文章の後半部分を見ると、「無実を主張する歴史家がいないから」「自らの過失によって滅びたと信じられて」とあります。
つまりこの文脈によれば「罪とは自らの過失」ということになります。しかし「過失」とは「ミス」であって、倫理上の「罪」とは少し違う概念です。

それでも「無実」という表現を使う。なぜなら「秀吉のねつ造によって押し付けられた、上洛の遅れ、城強奪という罪」を筆者は前提としているからです。

「無実」などと書かずに、「判断ミスはなかった」と書けばいい。しかしそうは書かない。何故か。それは「判断ミスはある」からです。

「豊臣政権に参加しようとしないというミスはなかった。また名胡桃城強奪事件を起こすというミスはなかった」という筆者の主張を「仮に認めた」としましょう。

でも北条氏は滅んでいます。だからそこには「なんらかの判断ミス」はあったわけです。

筆者の主張に沿ってそのミスを指摘するならば「悪辣非道な秀吉の政治を見抜けなかったミス」「秀吉にコロリと騙されるというミス」ということになります。
あくまで「筆者の主張を認めるならば」の話ですが(私は認めていませんが)、そういうミスがあったから滅びたわけです。

もし北条氏政を救済したいなら、堂々と「彼がいかに優れた政治家であり、武将であったか」を書けばいいのです。秀吉にだまされた可哀そうなヤツにしてしまってはいけないと考えます。
親子も殺しあうあの時代の話をしているのに「秀吉がだましたからいけないのだ」と言われても、、、、というのが私の感想です。

大河「麒麟がくる」のストーリー展開を考える。

2019年03月13日 | 麒麟がくる
大河「麒麟がくる」のストーリー展開を考えてみます。

以下はNHKが発表した「今の時点で分かっている展開」です。

「麒麟がくる」は、大河ドラマの原点に戻り、戦国初期の群雄割拠の戦乱のなか、各地の英傑たちが天下を狙って、命をかけ愛をかけ戦う、戦国のビギニングにして「一大叙事詩」です。
脚本は、第29作「太平記」を手がけた池端俊策のオリジナル。
大河ドラマとしては初めて智将・明智光秀を主役とし、その謎めいた前半生に光があてられます。
物語は、1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」であった時代から始まり、丹念にそれぞれの誕生を描いていきます。
若き明智光秀、織田信長、斎藤道三、今川義元、そして秀吉が、家康が、所狭しと駆け巡る……。
「麒麟がくる」──新たな時代の大河ドラマの始まりです。

時代考証・小和田 哲男

以上NHK発表。

「太平記」を手がけた池端俊策のオリジナル、時代考証が小和田さん。となると、「奇妙奇天烈なトンデモ展開」はないはずです。

1、最初は「光秀美濃編」から始まる。

光秀が死んだ年齢は55歳とされるのが普通です。そうなると1528年生まれぐらいになります。1540年代から始まるみたいですから、光秀は12歳の少年です。
NHK発表で美濃出身とされていますから、土岐家支流明智家出身となるのでしょう。実はこの設定を裏付ける確定的な歴史資料はありません。
40歳までの光秀の行動は「わからない」のです。
でも「国盗り物語」以降、光秀は土岐氏明智家出身で斎藤道三に仕えるという「設定」がよく使われます。池端俊策のオリジナルとありますが、「国盗り物語」がベースになって、それを現代風に「たぶん大幅に」アレンジするのは間違いないわけで、この12歳段階で「光秀は美濃にいて道三の小姓として薫陶を受けている」となると思います。

戦闘シーンとしては、美濃斎藤道三VS尾張織田信秀が主となるでしょう。ただし今川義元がからんでくるようです。駿河の継承権がなかった義元の「国盗り」も描かれるのでしょう。そして織田信秀と義元の「小豆坂の戦い」が出てくると思います。信玄と謙信はワキ役みたいですが、この二人の「国盗り」も出てくるかも知れません。

美濃編は1556年の「道三の死」まで続くでしょう。光秀はこの時28歳です。ただしずっと美濃にいるわけではなく、「京都留学」みたいな「くだり」があるかも知れません。あるいは道三の父親の「油屋」に居候し、京都見聞を行い、朝廷や将軍家や諸大名などと「からむ」のかも知れません。

2、次は「信長美濃攻略編」

やがて光秀は織田信長と「盟友」となるそうです。そして齋藤義龍(道三を殺した息子)とは「学友」という設定がされています。
信長が光秀の盟友、そして齋藤義龍が「学友」とすると、信長の美濃攻略に「光秀もからんでくる」のでしょう。普通はからみません。
なぜなら、道三の死後、光秀は越前朝倉の家臣となることが多いからです。
でも主人公の光秀を28歳から40歳まで「朝倉氏でぶらぶら食客をしている」としたのでは面白くありませんし、史実としては「わからない」から「そう描く必要はない」のです。
だから「道三の死後」は光秀はまず京都を目指し、堺正章さん演じる「医師」の「つて」で、当時近江の朽木谷にいた「足利義輝と接近」、「足軽大将」で朝倉に出向くとなると思います。
考証の小和田さんは「光秀、義輝の足軽大将説」をとっています。
朝倉だけでなく、尾張にも出向く。なんなら美濃にも駿河にも出向く。そして信長の美濃攻略に「からんでくる」と思います。

もっとも、その前に「桶狭間の戦い」に「からむ」のでしょう。たぶん桶狭間において「重要な役回り」をすると思います。で、家康や秀吉とも知り合いになるでしょう。

道三の死後、ずっと朝倉家の家臣だった、とはならないと思います。

3、8月ぐらいから信長天下布武編

信長の上洛から死までは15年です。明智光秀の動向が比較的はっきりしているのもこの15年だけです。光秀40歳から55歳です。
この辺りは今まで「散々描かれてきた」ので、8月ごろからかなと思います。
それまでは織田信秀、今川義元、斎藤道三、、、ついでに信玄、謙信の若き日などを比較的濃密に描くのでしょう。

で、あとは史実を基本として展開。で、本能寺。おそらく「天下の治め方に対する考え方の違い」が本能寺の原因とされるでしょう。光秀はあくまで「民の側に立つ」のだと思います。
「四国説」は光秀が自分の勢力減衰を恐れたという「説」ですから、重く採用されることはないと思います。ただし「四国説」は今ちょっと流行なので、出てはくるでしょう。

あとは「信長の経済力」が強調されるのでしょう。信秀以来の「経済重視の政策」が描かれると思います。ついでに「謙信が非常に経済を重視していた」ことなんかも描かれるかも知れません。
堺の街が描かれ、いかにして多くの鉄砲を調達できたのか、が描かれると思います。

また本能寺に戻りますが、光秀を主人公にする以上、「くだらない黒幕説」はとらないと信じています。朝廷とか義昭とかイエズス会とか、とにかく「黒幕」は必要ありません。

幸福な人生を送った戦国武将、ランキング。

2019年03月13日 | 戦国武将
幸福な人生を送った戦国武将、個人的ランキング・徳川家臣は除く(つまり本多忠勝や本多正信、井伊直政などは除く)

1位 豊臣秀吉と「ねね」

豊臣家は滅びますが、それは秀吉死後です。秀吉は織田時代も、本能寺後も「やりたい放題」の人生です。挫折がないのです。「我が子を殺した」なんてのもありません。「甥の秀次は殺して」ますが、それによって心に傷を負った感じもありません。
最後の最後に「秀頼を残して死にたくない」となりますが、そりゃ「死にたくない」のは誰だって同じです。家康だって信長だって「死にたくなかった」でしょう。

とにかく「生きているうちは成功の連続で、天下人になってからは金も城も女も家臣の命も自由自在」。1位だと思います。63ですから長生きでもありました。

ちなみに奥さんの「ねね」。徳川時代は高台院として幕府の保護を受けます。80歳ぐらいまで生きました。

2位 徳川家康

苦難の連続とか言いますが、他の戦国武将に比べればましです。それに75まで生きました。当時としては超長生き。長い病気とかもありません。

結局天下を手にして、満足して亡くなります。74ぐらいで大阪の陣に出陣していますが、逆に言えば「それほど元気だった」わけです。

ただ長男を殺しています。正妻も殺しています。それを気にしてもいました。そこがマイナスです。

3位 織田信長

「残念、無念」なのは「死に至るまでの1時間」ぐらいです。
それまでは「やりたい放題」の人生です。彼自身は幸福だったと思います。もっとも彼のせいで不幸な死を迎えた人間は数知れません。
弟を殺してますが、別に気にしてなかったようです。とにかく「本能寺」の寸前まで、成功続きの幸福な人生です。

4位 真田信之

信繁(真田幸村)の兄です。松代藩藩主。約10万石です。4位にしたのはとにかく「現役で長生き」だからです。病気がちではあったものの、現役として93歳まで生きます。当時としては妖怪のごとく長生きです。75歳で亡くなった家康が「驚くほど長生きした」と言われた時代です。93で、しかも現役です。ただし、晩年、お家騒動があったのはマイナスです。

5位 細川幽斎・細川忠興親子

細川といっても支流で名門ではありません。小大名ながら織田→豊臣→徳川と生き抜き、結局は熊本54万石です。
苦労は多かったと思いますが、そりゃ他の武将も同じです。幽斎は77歳まで、忠興は83歳まで生きました。マイナスはガラシャの死かなと思います。

6位 真田信繁(幸村)

6位ではないかな、とは思います。14年間ぐらい九度山に流されています。ただ「生涯に二回ぐらいしか戦っていない」のに、日本一のつわもの、とか言われます。
生きているうちに「幸福だ」と思ったことはないかも知れません。「亡くなった後が幸福な人」です。

7位 前田利家・金沢藩

織田では柴田勝家の「与力」です。23万石程度でした。秀吉の時代になって、徳川への「重し」として「友達だった秀吉」から80~100万石をもらいます。徳川時代も約100万石をキープします。亡くなったのも60ぐらいですから、当時としては長生きです。正妻のおまつさんも有名で、利家死後、加賀100万石は彼女が支えたと言われます。気になるのは「幕末、100万石を持ちながら、特に大きな行動は起こさなかった」点です。

8位 黒田長政・如水

親子そろって才能があったという家です。結局福岡52万石です。両名とも50代後半に亡くなっています。平均以上は生きました。

9位 加藤清正

秀吉の小姓から熊本52万石です。死後の名声も得ました。マイナスなのは50歳で亡くなったこと。そして加藤家が二代で改易されたことです。

10位 伊達政宗

天下なんぞ狙ってなかったと思います。秀吉下でも徳川下でもうまく生き抜いたと思います。70歳と長生きもしています。

11位 藤堂高虎

そもそも豊臣秀長の家臣でした。その後徳川家康に近づきます。家康側近にもなります。そして32万石です。75歳ですから非常に長生きです。

その他の候補者

山内一豊・池田輝政・蜂須賀小六・上杉景勝・武田信玄・上杉謙信・北条氏康など。毛利元就も候補ですが、前半生にあまりに苦労が多いかなと思います。

御館の乱の「描かれ方」・上杉景勝・上杉三郎景虎

2019年03月13日 | 上杉謙信
大河「真田丸」に出てきた上杉景勝・上杉家は「相当衰退して」いました。番組内では説明がなかったのですが、単に「上杉謙信がいないから→衰退した」わけではありません。

謙信死後に内乱があったから衰退したのです。

単純に書くと、

上杉謙信の死→御館の乱(上杉景勝と上杉三郎景虎の戦い)→景勝の勝利→でも上杉家は衰退→信長の侵攻→滅亡寸前→本能寺の変→秀吉の配下へ→会津120万石→関ケ原→米沢30万石→その後15万石

となります。

謙信の死後、越後で「内紛」が起きます。戦ったのは謙信の甥(姉の子)である上杉景勝と謙信の養子である上杉三郎景虎です。景虎は北条氏の息子です。ちなみに景虎は謙信の俗名と同じです。だから三郎景虎と書くのです。

信玄でも謙信でも、「家臣をまとめる」には相当苦労したようです。武田の場合、遺言があり勝頼以外に適当な当主候補がいなかったことと、長篠で宿老が沢山死んだために、「内紛」までは起きませんでした。でも、滅亡段階を見ると武田もバラバラ状態です。勝頼はよくやりましたが、それでも「家臣をまとめる」ことは無理だったようです。

上杉家の場合、「謙信の遺言がどうやらなかった」らしいのです。それで景勝派と景虎派に分かれ、正面衝突です。景虎は北条の出身でしたが、才気に溢れ謙信に気にいられていました。景勝は謙信の姉の子ですが、「親父を殺したのは謙信ではないか」と思っていたふしがあります。その上、才気煥発でもなかった。しかも謙信とは違う流れの長尾氏です。で、「甥だから家督を継ぐ」とは簡単にはなりませんでした。

この点は大河「天地人」でやや詳しく描かれました。

謙信後の上杉家の内紛、これが「御館の乱」です。最初は景虎が有利でしたが、景勝が盛り返し、武田に領土を譲ったり金を払ったりして味方につけ、結局景勝が勝ちます。

この過程で活躍したのが直江兼続です。(活躍なんかしていないという人もいる)

「御館の乱」なんて「天地人」の火坂雅志さんぐらいしか描いていないかと思ってましたが、他に描いた人もいます。

伊東潤「北天蒼星、上杉三郎景虎血戦録」です。

天地人は景勝側から描きました。伊東さんは景虎側から描いています。

面白い小説なんですが、一点だけ「非常に残念な点」があります。

あまりに景虎に肩入れするあまり「上杉謙信を殺したのは上杉景勝・直江兼続である」という「謀略論」を採用してしまっているのです。

必要ないと思います。普通に49歳で脳卒中で死んだでいい。そもそもあの段階で謙信を「暗殺」したりしたら、「上杉家そのものが潰れる」可能性があり、実際本能寺の変がなければ滅亡していました。だから「暗殺」はありえないと思います。

史実が「多少あやふや」だと、なんでもかんでも「謀略・暗殺」にしてしまうのは、小説家の悪いくせです。伊東潤「北天蒼星、上杉三郎景虎血戦録」は悪くない作品なので、謀略論を採用してしまったのは非常に残念。リアリティがぐんと落ちてしまいます。

そもそも景虎の方が後継者候補だった、ぐらいまではいいのです。だからと言って景勝・直江兼続が上杉謙信を殺したとされると、ちょっと「やりすぎ」のような気がします。

それにしても謙信が後継者をはっきりと明示していなかったのは確かで、その点は謎です。そもそも謙信自体が謎だらけの人で、だから「女だった」なんて論も堂々と書かれたりするのです。

さて御館の乱で勝利した上杉景勝と直江兼続。なんとも残念な主従です。関ケ原段階で「上杉には徳川と戦う気があった」という前提で考えると、「どうして東軍を追撃しないのだ」という疑問が残ります。最上や伊達がいたから、徳川秀忠もいたから、などが考えられますが、よくわかりません。

「天地人」(小説)では「敵を後ろから襲うのは上杉の義に反する」とか書いてありますが、そんなアホな。

「上杉にはそもそも東軍と戦う気はなかった。が攻めてきてしまった。ところが三成が挙兵して東軍が西に向かったので安堵した。」と主張する人がいますが、説明としては理にかなっています。

上杉景勝はとてものこと名将とは言えないので、直江兼続がやたらと「持ち上げられ」ますが、やったことと言えば、上杉を30万石にして、その貧乏所帯を支えたことぐらい。あと徳川に取り入るために本多正信の息子を養子にとったりもしている。「武士の鑑」とはとても言えない。

「天地人」は天と地と人に恵まれた直江兼続が主人公なんでしょうが、ちっとも恵まれていない。史実から見れば「天地人」はどう考えても徳川家康・秀忠親子です。

最後に、、、御館の乱を考えると非常に大切なことが一つ分かります。それは上杉謙信と言えど「国衆たちの盟主に過ぎなかった」ということです。国衆に対して絶対的命令権を持っているわけではない。第二世代である謙信の立場はそうなのです。それが第三世代である織田信長(謙信と年の差はほどんどないが)、になると、専制君主的強権を手にしていきます。そしてその「専制君主的姿勢」が、信長の命を奪いました。秀吉の場合も「専制君主的姿勢」が他の大名に忌避されたのだと思います。家康はそこをうまく考え、「盟主みたいな専制君主」という微妙な立場に立ちました。そこが徳川の成功の秘訣だと思います。

2020年大河「麒麟がくる」・キャスト予想・☆印はNHK発表済み・信長は染谷将太・斎藤道三は本木雅弘・帰蝶は沢尻エリカ

2019年03月13日 | 麒麟がくる
主人公は「明智光秀」、主人公並みの重要人物は「斎藤道三」「斎藤利三」「織田信長」「細川藤孝」「今川義元」「織田信秀」「松永久秀」「足利義昭」「今井宗久}と思われる。

これは旧版で最新版はこちらです。

信長と光秀が「盟友である」という設定は、NHKが公表している。信長の親の世代を描く意図、主人公たちの青春時代を描く意図も発表している。従って全体に俳優の年齢が若くなっている。

齋藤道三の死去は1556年・桶狭間の戦いは1560年・信長の上洛戦は1568年・義昭追放は1573年・本能寺の変は1582年・関ヶ原の戦いは1600年

☆印はNHK発表なので、予想ではなく、本当のキャストです。

主人公・明智光秀関連
☆明智光秀(1528-1582 早くに両親を亡くし、祖父光継に育てられた、道三に仕え、道三死去後、信長と盟友となる、諸国を遍歴、乱世収拾の道を探る)・・・長谷川博己
明智煕子(没1576 あけちひろこ、光秀の妻)・・・吉岡里帆
明智光継(光秀の祖父、光秀の育ての親、武芸に秀でている)・・・近藤正臣
☆明智牧(史実では名前不詳、光秀の祖母・京都公家出身、教養が深い)・・・石川さゆり
明智光慶(史実を変更)(あけちみつよし、光秀の長男、学説では死んだ時まだ14歳であるため、それを24歳と設定する。光秀と信長の連絡係として活動したことにする)・・・神木隆之介
☆明智光安(1500-1556 美濃明智城主、明智家家督、道三正室の兄)・・・西村まさ彦
明智倫(史実では名前不詳、光秀の長女、荒木村重室→明智光春室)・・・山本美月
明智宝子(史実では名前不詳、光秀の四女、信長の従弟である津田信澄の正室)・・・橋本環奈
明智左馬助光春(1536-1582 明智秀満 光秀の女婿にして重臣)・・・山崎賢人
明智珠(1563-1600 あけちたま 光秀の三女、細川ガラシャ、細川忠興正室、関ヶ原の混乱の中で死去)・・・桐谷美玲
明智光忠(光秀の従弟、光秀重臣)・・・浅利陽介
齋藤利三(1534-1582 光秀腹心の部下、春日局の父)・・・ムロツヨシ
溝尾庄兵衛(1538-1582 溝尾茂朝 光秀重臣、光秀と共に討ち死)・・・斎藤工
藤田行政(1582没 光秀の古参の重臣)・・・佐藤二朗
細川藤孝(1534-1610 細川幽斎、はじめ光秀とともに足利義昭擁立に尽力する。のち織田信長に仕え、光秀の与力武将となる。古今伝授を受けた歌人)・・・向井理
細川忠興(1563-1646 細川幽斎の嫡子、細川ガラシャの夫、関ケ原で功を立て、肥後細川家の基礎を築く)・・・溝端淳平
京極高次(1563-1609 衰退した北近江の守護家に生まれる 本能寺後光秀に協力 のち許され豊臣家→徳川家 妻は淀殿の妹である初、妹は秀吉側室)・・・勝地涼
上泉信綱(1508-1577 柳生新陰流の祖、諸国を遍歴して、槍術、剣術を広めた。一時美濃に滞在し、光秀に槍術剣術を指南、将軍義輝の剣術信南、光秀と義輝をつなぐ)・・・真田広之
伊丹新之助(架空の人物)(商人ではあるが武術の達人、その自由な生き方が光秀に大きな影響を与える)・・・オダギリジョー

齋藤道三関連

☆齋藤道三(1494-1556 斎藤利政、美濃国主、土岐頼芸より美濃を奪取した。天下取りの野望を光秀と信長に託す)・・・本木雅弘
長井新左衛門尉(生没年不詳、ながいしんざえもんのじょう、道三の父。はじめ京都妙覚寺僧侶、還俗して京の油屋山崎屋に入り婿し、その財力を背景に国盗りを目指して美濃土岐家の家臣となる)・・・松重豊
お万阿(架空の人物)(おまあ、道三父の京都の妻、道三の母ではない。京都の豪商、油屋山碕屋の女主人)・・・井川遥
土岐里子(架空の人物)(土岐家支流の娘、道三の母)・・・黒木瞳
深芳野(みよしの、道三の側室、もとは土岐頼芸側室、斎藤義龍の母)・・・麻生久美子
小見の方(1513-1551 おみのかた、道三正室、明智光安の妹、濃姫の実母)・・・広末涼子
竹中半兵衛(1544-1579 天才的軍略家、幼少時は道三の薫陶を受ける、神童と言われ12歳で道三の軍略を受け継ぐ、斎藤家家臣→信長家臣、秀吉の与力)・・・志尊淳
☆齋藤義龍(1548-1573 道三の子、実は土岐頼芸の子とされることもある、長良川の戦いで道三の首を奪う)・・・伊藤英明
赤兵衛(架空の人物)(元妙覚寺の寺男、道三の父の最古参の腹心、道三にも仕えた)・・・(華丸大吉の華丸)
稲葉一鉄(1515-1589 西美濃三人衆の一人、土岐家→斎藤家→織田家→豊臣家、娘は斎藤利三室、春日局の祖父)・・・安田顕
猪子兵助(1546-1582 いのこひょうすけ、道三の小姓、道三没落後、織田信長に仕える)・・・濱田岳
☆土岐頼芸(1502-1582 ときよりよし、もと美濃国国主・道三により尾張に追放される)・・・尾美としのり
日運上人(1484年生、美濃常在寺住職、長井氏出身、道三の父とは妙覚寺で同学)・・・温水洋一
天堂玄隆斎(架空の人物、てんどうげんりゅうさい)(道三の武術指南、槍術の達人)・・・仲代達矢
山崎屋いろは(架空の人物)(道三の父とお万阿の間に生まれた娘、道三の異母妹、やがて油屋山崎屋女主人となる。京都における信長、光秀の指南役として大きな存在感を発揮する)・・・常盤貴子

織田信長関連

☆織田信長(1534-1582 初めは道三とは対立、が濃姫と婚姻後、道三と手紙で交流、道三の野望を受け継ぎ天下人を目指すことになる)・・・染谷将太
信長については「保守的、中世的側面を強調、経済政策に優れていた点も強調される」とNHKが発表している。
☆織田信秀(1511-1552 信長の父、京都志向がある教養人にして強き武人、道三と幾度も戦うが結局美濃を奪うことはできなかった)・・・高橋克典
織田信定(没1538 清州織田家に仕えた奉行、織田信秀の父、信長の祖父、信秀の尾張制覇の野望に賛同できぬものの黙認、隠居する)・・・大和田伸也
☆帰蝶(1535生誕、没年不詳 斎藤帰蝶、濃姫、信長正室、道三の娘、母は小見の方、幼き頃は光秀に淡い恋心を抱いていた)・・・沢尻エリカ
お市(1547-1583 信長妹、浅井長政正室、淀君の母、お江の母、豊臣秀頼、徳川家光の祖母、長政没落後、柴田勝家に嫁ぐ)・・・北川景子
土田御前(没年1594 信長の母、信長の才能を実は見抜いていた、息子である織田信行の謀反を心配している)・・・水野美紀
織田信忠(1557-1582 信長の嫡子、幼名は奇妙丸、織田家家督を継ぐ、本能寺の変にて討ち死)・・・竹内涼真
生駒吉乃(1528-1566 いこまきつの、信長側室、信忠、信雄、徳姫の実母ということになっている、穏やかな性格で濃姫との関係も悪くない)・・・満島ひかり
織田信行(没年1558 信長弟、信長と家督を争い、謀殺される)・・・三浦春馬
織田長益(1547-1622 おだながます、織田有楽斎、信長弟、信秀の11男、茶人、東京都有楽町は彼に由来する)・・・坂東巳之助
柴田勝家(1522-1583 織田家重臣、通称権六、織田家家督に信行を推した過去を持つ)・・・市原隼人
木下藤吉郎(1537-1598 後の豊臣秀吉)・・・大泉洋
木下寧々(1548-1624 秀吉妻、のちの北政所)・・・夏帆
前田利家(1539-1599 織田家家臣、柴田勝家の与力武将、秀吉とも親しく、のち加賀前田100万石の当主となる)・・・山崎樹範
前田まつ(1547-1617 前田利家正室、芳春院、「加賀100万石は芳春院でもつ」と言われた)・・・瀧本美織
森蘭丸(1564-1582 信長小姓、信長より5万石を与えられた、本能寺にて討ち死)・・・加藤清史郎
夕顔(架空の人物)(信長、光秀に情報をもたらす女忍び)・・・栗山千明
丹羽長秀(1535-1585 織田家方面司令官の一人、秀吉政権で一時は120万石、その後減俸、子孫は二本松藩主となり、明治まで続く)・・・塚本高史
滝川一益(1525-1586 織田家方面司令官の一人、関東担当、秀吉と戦うも、のちお伽衆となる。子孫は江戸幕府で旗本)・・・甲本雅裕
佐久間信盛(1528-1582 織田家司令官の一人、本願寺担当、のち信長に追放される)・・・戸次重幸
池田恒興(1536-1584 織田家重臣、信長とは乳兄弟、子の輝政は初代姫路藩主)・・・窪田正孝
☆平手政秀(ひらて・まさひで)・・・上杉祥三(信秀を支える織田家老臣。信長のもり役)



戦国武将・その他
武田信玄(1521-1573 52歳で死去、甲斐の戦国大名)・・・平岳大(ひらたけひろ、平幹次郎子息)
山本勘助(半ば架空の人物、甲陽軍鑑や古資料にみられるが、完全なる確証はない、信玄の軍師として高名)・・・荒川良々
武田信虎(1494-1574 甲斐国主、息子の武田信玄によって今川に追放された。信玄より少し長く生きた)・・・角野卓三
上杉謙信(1530-1578 48歳で死去、越後の戦国大名)・・・井浦新
上杉景勝(1556-1623 67歳で死去、上杉藩初代藩主、越後→会津→米沢、関が原により120万石から30万石に減俸)・・・玉山鉄二
今川義元(1519-1560 41歳で死去、駿河の戦国大名、領地経営に優れていた、桶狭間の戦いで戦死)・・・滝藤賢一
北条氏康(1515-1571 56歳で死去 相模国の戦国大名、後北条氏三代目当主、謙信・信玄と互角に戦った)・・・鈴木浩介
北条氏政(1538-1590 52歳で死去 相模国の戦国大名 後北条氏四代目当主、東国の覇者 秀吉に最後まで抵抗する)・・・市川猿之助
浅井長政(1545-1573 28歳で死去、北近江の戦国大名、お市の最初の夫、のちに信長と対立、豊臣秀頼、徳川家光の祖父)・・・賀来賢人
朝倉義景(1533-1573 40歳で死去、あさくらよしかげ、越前の戦国大名、光秀は信長と謀り、越前の状況を探るべく、一時義景のもとに身を寄せていた)・・・中村七之助
六角承禎(1521-1598 77歳で死去、六角義賢、近江の戦国大名、信長上洛戦にて敗退、その後も信長と交戦、晩年は秀吉の保護を受ける)・・・要潤
本願寺顕如(1543-1592 一向一揆の総本山石山本願寺住職、浄土真宗本願寺派宗主、10年以上信長と激しい戦いを繰り広げる)・・・伊勢谷友介
三好長逸(1573年前後に死去か、みよしながやす、将軍義輝を暗殺した三好三人衆の一人、畿内で三好政権ともいわれる勢力をほこった。信長上洛で逃亡するが、その後も本願寺と連携、信長と戦う)・・・松田龍平
波多野秀治(没1579 八上城城主 光秀の丹波攻略時の敵将)・・・相島一之
荒木村重(1535-1586 信長家臣、信長より摂津一国の経営を任される。光秀の娘と村重の息子は婚姻関係にある。のち信長に謀反して失敗、しかし生き延びる)・・・六角精児
筒井順慶(1549-1584 大和国大名、のち信長に臣従、光秀の与力となる。妻は信長の娘である)・・・柄本佑
ルイスフロイス(1532-1597 ポルトガルの宣教師、足利義輝、織田信長の保護のもとで布教、著書「フロイス日本史」を残す)・・・ピーターフランクル(数学者にして大道芸人)
松永久秀(1508-1577 69歳で死去、畿内を実質的に治めていた三好家の重臣、やがて主君を上回る力をつけていく。信長以前に天下統一を夢みた梟雄。)・・・稲垣吾郎
足利義輝(1536-1565 29歳で死去、足利幕府13代将軍、三好三人衆によって御所で暗殺される、剣豪でもあり、多くの寄せ手を斬り殺した)・・・中村獅童
足利義昭(1537-1597 60歳で死去、足利幕府15代将軍、信長が将軍に擁立、のち信長と対立。信長包囲網の中心人物となる。晩年は秀吉の保護を受けた)・・・松坂桃李
雑賀孫一(史実不詳)(さいかまごいち、紀州雑賀衆の頭目、またの名を「尻くらえ孫一」、鉄砲隊によるゲリラ戦を駆使して信長の雑賀侵攻を退け、「信長、わが尻をくらえ」と言い放つ)・・・椎名桔平
近衛前久(1536-1612 関白、太政大臣、信長と親交があった)・・・田中哲司
徳川家康(1543-1616 73歳で死去、三河遠江の戦国大名)・・・野村萬斎
今井宗久(1520-1593 堺の豪商、会合衆、信長の経済戦略の要となった人物)・・・高橋一生


☆望月東庵(もちづき・とうあん)・・・堺 正章
京に暮らす医師。今は落ちぶれているが、朝廷や各地の戦国大名などに不思議な人脈を持つ。生涯にわたって光秀を導く存在になる。大の双六好き。架空の人物です。
☆駒(こま)・・・門脇 麦
光秀が京で出会う娘。医師・望月東庵の助手をつとめている。戦災孤児で、伝説のいきもの・麒麟の存在を信じている。架空の人物です。
☆菊丸(きくまる)・・・岡村隆史
光秀が美濃で出会う三河出身の農民。神出鬼没で、敵か味方かわからないが、常に光秀の危機を助ける。


最後にお知らせ

言うまでもなく「予想キャスト」です。☆印は「NHK発表済み」ですから「本当」です。予想はなんだか全員が「主役級」になってしまいました。カッコ内の解説は6割ぐらいが史実です。4割は「設定」ということです。縁戚関係については故意に嘘は書いていません。間違っていたら私が浅学であるせいです。そもそも戦国の人物については、資料の正確さに問題があり、縁戚関係についてすら確定的なことを言うことはほとんどできません。主人公の光秀の前半生を、もし誠実に書くとしたら、「ほとんどわからない」ということになると思います。なお、1540年ぐらいからを描くようです。そうなると武田信玄(晴信)ですらまだ19歳です。となると大御所役者ではなく若い俳優となるはずです。つまり全体に比較的若い俳優の起用ということになると予想しています。

大河「麒麟がくる」・新キャスト・織田信長役は染谷将太・帰蝶、濃姫役は沢尻エリカ・一言感想

2019年03月13日 | 麒麟がくる
私の予想はここにあります

織田信長(おだ・のぶなが)染谷将太
光秀が尾張で出会う信秀の嫡男。明智光秀との出会いが、信長自身の運命も変えていく。

☆あまりよく知らない俳優さんです。力量はあるのでしょう。実際にドラマを見て見ないと何とも言えません。

帰蝶(濃姫)(きちょう/のうひめ)沢尻エリカ
道三の娘(母は正妻・小見の方)。光秀とは姻戚関係であり、幼いころからの付き合いでもある。政略結婚により、のちに織田信長の正妻となる。

☆帰蝶は「はかなげ」か「気が強い」のどっちかで描かれます。史実ではいつまで生きたか分かりません。まあドラマではきっと本能寺まで生かします。が「一緒には死なない」気がします。
沢尻さん=気が強いキャラとはならないでしょうが、「経済的にも自立した女性として描かれる」のが現代風かなと思います。光秀との「淡い恋」は定番通り描かれる気がします。

斎藤道三(利政)(さいとう・どうさん/としまさ)本木雅弘
美濃の守護代で光秀の主君。一介の油売りだった亡き父とともに親子二代で美濃の国盗りを目指す戦国下剋上の代名詞的存在。天才的な軍事力と狡猾な政治力を持ち、金銭への執着も強い。

☆「はげたじいさん」俳優が多かったのに、随分とシュンとした道三です。準主人公ですから本木さんなんでしょう。

織田信秀(おだ・のぶひで)高橋克典
尾張に根を張る、道三のライバル。織田信長の父。海運を牛耳り、豊かな経済力を背景に、美濃の道三や駿河の今川と争う勇猛果敢な戦国武将。

☆信秀も準主役のようです。高橋克典さんは大河初出演とか。そういえば、出たことありません。

平手政秀(ひらて・まさひで)上杉祥三
信秀を支える織田家老臣。信長のもり役。

☆「平手のじい」が出るのですね。切腹の理由をどうするのか。予想では旧来通りの「諫死」ではと思います。

土岐頼芸(とき・よりのり)尾美としのり
美濃の守護。かつて道三と結託し、兄を守護の座から追い落とした過去を持つ。鷹の絵を描くのを好む。

☆この人なんでもできる俳優さんです。

斎藤義龍(高政)(さいとう・よしたつ/たかまさ)伊藤英明
道三の嫡男。母は守護・土岐頼芸の愛妾だった深芳野(のち道三の妾)。自らの出自の謎にこだわるが故、父との折り合いは悪い。光秀の幼いころからの学友。

☆光秀の「学友」って何だろう?今まではただ「道三を殺す息子」でした。が、今回はいろいろ複雑に描くのでしょう。母親は深芳野(みよしの)というのはNHK発表です。誰がやるのでしょうか。かつては「若き日の三田佳子さん」でした。本木さんの側室ですから、30~40代の綺麗な女優さんでしょう。

明智 牧(あけち・まき)石川さゆり
光秀の母。光秀が幼少時に死んだ父の代わりに「武士としての心構え」を諭す厳しくも心優しき母。

☆功名が辻にも出ていたようです。記憶にありません。

明智光安(あけち・みつやす)西村まさ彦
光秀の叔父(父の弟)。明智家の当主で、道三の家臣。
明智家の行く末を常に案じている。

☆西村まさ彦さんは「真田丸」にも出てました。草刈さんも「麒麟がくる」に是非出してほしい。信玄役とかで。


望月東庵(もちづき・とうあん)堺 正章
京に暮らす医師。今は落ちぶれているが、朝廷や各地の戦国大名などに不思議な人脈を持つ。生涯にわたって光秀を導く存在になる。大の双六好き。

☆架空の人物です。


駒(こま)門脇 麦
光秀が京で出会う娘。医師・望月東庵の助手をつとめている。
戦災孤児で、伝説のいきもの・麒麟の存在を信じている。

☆架空の人物です。

菊丸(きくまる)岡村隆史
光秀が美濃で出会う三河出身の農民。神出鬼没で、敵か味方かわからないが、常に光秀の危機を助ける。

☆架空の人物です。よくある「敵か味方かわからない」担当です。きっと最後に「光秀の死を見届ける」のも岡村さんだと思います。