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上杉謙信・小田原城包囲・近衛前久

2019年03月18日 | 上杉謙信
近衛前久、1554年から1568年まで関白です。上杉謙信と親交があり、織田信長ともあります。信長の甲州征伐に同行したとありますが、本当でしょうか。とにかく「いろんなところへ行く」人です。本能寺の変後は徳川家康とも近くなります。さらに豊臣秀吉を「猶子」にもしています。

本能寺の変の時、明智側は近衛前久の邸宅の上に乗って二条御所を攻撃したといわれており、そのため、「なにかというと本能寺の変の朝廷側の黒幕」とされちゃう人物です。

上杉謙信と気が合って「室町幕府再興」を語り合った、というのは「どうやら本当」みたいです。

謙信のことを書こうと思っているのですが、近衛前久の話が先にきてしまいました。

さて謙信。大河ドラマに「意外と出てこない」人です。主人公になったは1回。石坂浩二さんの「天と地と」、覚えていません。

「武田信玄」だと柴田恭兵さん。「風林火山」だとガクトさん。ガクトさん、たしか最後まで「白頭巾をかぶらなかった」ような気がします。「天地人」にも少し出てきました。阿部寛さんです。

結局何をやりたかったのか、よく分からない武将です。

というより、「自分から能動的に何かをしたい」と思っていなかった「ふし」があります。

兄から越後守護代を譲られた時も、「しぶしぶ引き受けた」ようです。奪い取った説もありますが、実態は「しぶしぶ」だったようです。1548年。満18歳です。

その後「関東管領職」を上杉氏から譲られますが、これもやりたかったのどうか。そもそも越後ですから関東から少し離れています。

で、「関東管領並み」になって北条氏を成敗しようとします。「小田原城包囲」です。1561年、満31歳です。1530年生まれですから年齢計算が楽です。

なんで新潟にいる人間が神奈川の小田原城を囲めるのか。ルートを調べると、新潟から群馬に入り埼玉そして東京、で神奈川に入って小田原包囲みたいです。

「反北条氏感情」を持っていた国衆たちがこぞって参加し。10万を超える軍勢になりましたが、小田原城は落ちません。「食料等」「農作業等」の関係で秀吉みたいな「長期滞在」はできませんから、1か月ほどで退陣します。

この「小田原城包囲」でかなり体調を崩したようです。温泉にばっか行っていたようです。

そうこうしているうちに、武田信玄が騒ぎ出す。で、第四次川中島合戦に突入します。北条との戦いもやめられません。

信長の足利義昭追放までは織田家との関係は良好でした。信長が自分に代わって「幕府を再興してくれる」と信じていたのかも知れません。

それでも足利義昭が「上洛しろ、上洛しろ」と言うので、「義昭追放の前」から上洛には意欲はあったようです。で地図で言えば越後の「左にある」越中に軍を出します。でも一向一揆の抵抗があってなかなかうまくはいきません。

そのうちに義昭は追放されます。で、織田との対立です。柴田勝家がやってきます。これが1577年です。「手取川の戦い」で「大勝利」というのは「ちょっと嘘くさくて」、「七尾城が落ちたので、援軍をやめ引き返そうとした織田軍を追撃した。引き返そうとしているのだから戦闘意欲は薄く、その上、手取川が増水して織田軍がおぼれた」というのが実態みたいです。でも勝利です。

その翌年、たぶん脳溢血で急死します。満だと48歳、一般には49歳とされます。

今のところ「室町幕府を再興して、室町的秩序を回復したかったのかな」と思えます。「かな」です。もう少し調べてみないと、断定的には言えません。




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