散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

織田信長が豊臣秀頼に転生したら・豊臣秀頼はドラマ、小説の主人公になりうるか。

2019年03月15日 | 豊臣秀頼
豊臣秀頼に「誰か」が転生する小説が「きっとあるだろうな」と思って検索すると、一作ヒットします。例によって「高校生が」秀頼に転生するというものです。読んではいません。「例によって」と書いたのは「信長協奏曲」においても「高校生が転生」しているからです。

私など「頭が柔軟でない」せいか「言葉が通じないだろ」とか考えたりします。まず明治以後の和製漢語が使えません。

使えない言葉の例・・「自由」「革命」「美術」「宗教」「文学」「意識」「文化」「文明」「民族」「権利」

その他、無数にあります。西周、森有礼、福沢諭吉などが外国の概念を「日本語化」した言葉です。それから例えば「人間五十年」という場合の、「人間」とは「人の世」のことで、「今とは用法が違う言葉」も無数にあります。発音も違います。秀吉はたぶん「フィデヨシ」に近い発音です。だから現代から転生しても言葉が通じません。

まあ、そんな心配は必要ないですが、転生なんてしないから。

織田信長が豊臣秀頼に転生したら、という「題」をつけたのは、「豊臣は存続できただろうか」と考えたからです。あと「ちょっとふざけてみたくなった」からです。

信長は1582年に死にます。豊臣秀頼は1593年に生まれます。1598年の10月ぐらいに「転生」すると、秀頼はその時、満5歳です。10月なら秀吉は一か月前に死んでいます。

まず怒るでしょうね。「信長である秀頼」は。あるいは悲しむ。「織田信忠までが死んだのか」と悲しむ。「秀吉は三男の信孝を殺しやがった」と怒り狂うことも考えられます。

周りをみると、大坂城には信孝を殺した直接の下手人である次男の織田信雄がいます。それから信忠を見捨てた信長の弟である有楽斎、それから織田信包がいる。こいつらにも「怒り狂う」でしょうが、5歳では斬り殺すことも、切腹させることもできないでしょう。

あと五大老制にも怒るでしょう。最悪のしくみです。しかもメンバーが悪い。家康、病気の前田利家、ほとんど口をきかない上杉景勝、どう考えても凡庸な毛利輝元、お前は誰なんだと言いたくなるような若僧である宇喜多秀家です。

で、関ケ原は2年後に迫っています。関ケ原段階でも7歳ですから、「何を言っても相手にされない」という状態が続くと考えられます。

ただしその後、11歳、つまり小学5年ぐらいになれば、多少は自分の意見を通せるでしょう。1604年です。もう家康は将軍となっています。その翌年には大御所となって秀忠が将軍です。

誰であろうと、流れを変えるには「遅すぎる」感じですが、それでも、

まずは「淀殿と大蔵卿局を大阪城から追い出して、北政所(ねね)を自分の公式の母親であると宣言」する。北政所を自分の「後見」にするわけです。まあ、関ケ原が終わっているとなると、効果は薄いでしょうが、北政所を「かか様扱い」してきた加藤清正、福島正則、それから黒田長政あたりはちょっとはビビるでしょう。親類の浅野長政も困惑するでしょう。家康はビビりませんが、「面倒だ」とは思うかも知れません。

でも「そこで手詰まり」となります。

「信長である秀頼」が周りを見渡しても、「かつての自分の重臣」はほとんどいません。みんな死んでいます。1604年の話です。

柴田勝家、前田利家、村井貞勝、丹羽長秀、佐々成政、滝川一益、池田恒興、堀秀政、前田玄以、、、全部いません。残っているのは細川幽斎ぐらいです。細川幽斎は織田にとっては外様の家臣です。ちなみに太田牛一も生きてはいます。織田譜代の金森長近もいますが、4万石程度ぐらいの小大名です。

他の大名を見ても、関ケ原後ですから、「家康親族、家臣の大名」と「かつて秀吉の子分だった大名」ばっかりです。

もっとも「転生した」と仮定した1598年だって大名は「かつて秀吉の子分だったやつら」と「かつて敵だった毛利、上杉、島津、長曾我部」ばかりです。かろうじて前田利家がいますが、病気です。

つまるところ「勝手知ったる昔の家臣」はほぼいません。関ケ原後ですから、側近にできそうな大名もいません。清正、正則ぐらいでしょうか。それと片桐且元。

そうなると「育てる」しかない。木村重成とか大野修理とその弟大野治房、それから渡辺糺などを育てるしかない。でも11歳では「きつい」でしょう。

つまり「誰が転生しようと」、秀頼の置かれた状況は「きわめてきつい」わけです。

ただし、大阪の陣段階では「既に22歳」ですから、相当な活躍はできるはずです。真田信繁の進言をいれて「大坂城を出て野戦をすれば」、「戦術的勝利」は可能かも知れません。

また「籠城する」なら、カルバリン砲、セーカー砲、半カノン砲、石火矢などを沢山調達しておく。大坂城側からも「ガンガン大砲を撃って」やればいいのです。「炸裂砲弾ではない」ので、要するに鉄の塊を飛ばすわけですが、徳川側の陣屋を破壊したり、心理的に混乱させたりする効果はあるはずです。

でもそこから「政治的勝利」を勝ち取るのは難しい。幕藩体制は既に成立から10年以上が経っています。

つまり言いたいことは、豊臣秀頼が仮に信長並みの才能を持っていたとしても、関ケ原後では「きつい」ということです。

一番いい方法は「石田三成の挙兵を止めて、関ケ原を起こさない」ことでしょう。7歳の子供にそれができるかなあとは思いますが。

ちなみに、

大坂の陣段階において、「秀頼の中身が信長だったなら」、大坂城を出て華々しく戦い、そして死んだとしても、後年大河ドラマの主人公にはなれると思います。


☆全く別の「逆転パターン」も考えることはできます。

関ケ原後であっても、浪人が沢山います。大坂の陣には十万集まったとされています。

「信長である秀頼」が、15歳ぐらいから7年かけて、大坂の陣までに、「大坂城にある有り余る金」を使って「鉄砲と大筒、西洋大筒を買い込む」。

そして浪人衆を家臣化して「軍事訓練」を行う。数年あるから「組織化された統率のとれた十万の軍隊」が出現します。

それを駆使すればあるいは幕府を倒せるかも。なにせ幕府は島原の乱の鎮圧にだって苦労したのです。

史実としては「せっせと寺とか鐘とか作っていた時に」、上記の強大な軍事集団を作れば、逆転の展開もありえます。

もっとも、その行動を家康と秀忠が「黙って看過している」とは思えません。しかし「中身が信長」なら、そこは「なんとかする」気もします。毛利、福島、熊本の加藤、堀尾、浅野なんかを取り込めば、つまり強大な軍事力を前提に、これらの外様藩に調略を行えば、なんとかなる気がするのです。取り込めなくても、誰も味方しなくても「最新の武器を持つ、組織化された統率のとれた十万の軍隊」があって、大坂城があり、砲弾攻撃でアタフタする淀殿なんぞを追放しておけば、勝ち目は十分あるでしょう。


最後に、私個人としては「豊臣政権が続いてほしかった」とは思ってもいません。これはあくまで「思考実験」に過ぎません。

戦国史ファン、大河ドラマは「東国を軽視」してきたか。

2019年03月15日 | 戦国時代
今回も「歴史新書y」関連ですが、批判は書きません。

伊東潤・乃至政彦共著「関東戦国史と御館の乱」

こんな記述が最初の方にあります。

「司馬史観以来、戦国史は西国偏重でした。すべては京の都が中心であり、そこから遠い地方で行われた戦いは、すべて局地戦というとらえ方をされ、その帰趨は、ほとんど天下の動向にかかわりないとされてきました。また東国は、西国に比べ、文化的にも軍事的にも後進地帯であると、何の根拠もなく言われてきました。」

「司馬史観以来、戦国史は西国偏重でした」

日本語表現として非常に解釈がしにくい一文です。

司馬さんの本や司馬さん原作のドラマが多く作られ、国民に受容された。そうして「司馬史観なるもの」が国民にじわりと浸透した。
「その結果、戦国史の研究は西国中心になった。」という意味なのか「研究者はともかく、戦国ファンは西国にのみ注目してきた」という意味なのか。

おそらく「戦国史を扱ったドラマは西国、畿内中心だった。国民の関心も織田、豊臣、徳川に集中した」という感じなのでしょう。

そうなのかな、となんとなく私は考えています。

大河ドラマは「地方を描くこと」にこだわる傾向「も」あります。武田信玄、真田親子、数回にわたり映像化されています。「武田信玄」「風林火山」「真田太平記」(大河ではない)「真田丸」。伊達関連なら「独眼竜政宗」。上杉謙信は「天と地と」だけですが、「信玄関連作品」には必ず登場します。さらに上杉景勝なら「天地人」。西国ですが遠国である「毛利元就」。

まあ「相対的に少ない」のは確かですね。戦国以外なら「風と雲と虹と」「炎立つ」「樅ノ木は残った」「草燃える」「琉球の風」「北条時宗」「義経」「八重の桜」「花燃ゆ」は「京都中心の作品では」ありません。

謙信は一回ですが、上杉家なら「天地人」があるから二回です。ただし謙信主人公は大昔の話です。

鞭声(べんせい)粛粛(しゅくしゅく)夜河を過(わた)る、とか書いても、これが川中島における謙信ことを詠んだ頼山陽の詩だとは若い人には分からないでしょう。上杉謙信が主人公になったのは50年前だからです。僕だって「天と地と」なんて覚えていません。

四国が描かれない。長曾我部が描かれない。
戦国島津も描かれない。毛利も一回だけ。東北だと伊達が一回。戦国北条氏が「主人公になったことは」一回もない。

ただし甲斐、信濃は意外と濃厚に描かれてきた。武田信玄、上杉謙信、真田昌幸、信繁、信之。

川中島の戦い、有名なわりには「ドラマ素材としては面白くない」のです。何回もやって「ほぼにらみ合い」です。4回だけが多少知られていますが、実態がよく分かりません。
上杉謙信の「車がかりの陣」とか。どういう戦術、陣立てなのか、ほとんどわからないわけです。

一番有名な川中島の戦いですらその程度です。

「やっぱり局地戦だな」と僕には思えてなりません。「御館の乱は関ケ原にも匹敵する重要な戦いで、その後の歴史に多大な影響を与えた」と伊東さんは言いますが、そんなこと言うなら「川中島の戦い」だって、「厳島の戦い」だって「上田合戦」だって、「みんな関ケ原に匹敵することになってしまう」でしょう。

まあ、もう少し考えてみます(続く)。

補足
ちなみに西国、畿内だって描かれていません。畿内の三好氏だって描かれませんし、近江の六角氏も描かれません。浅井長政も朝倉義景も「信長のわき役」として描かれるのみです。
これはある程度「国民の期待に沿った」ものなので、つまり三好を描いても観てもらえないわけで、なんともしょうがないことなのかも知れません。