散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」・13人の名前と年齢

2020年01月12日 | 鎌倉殿の13人
鎌倉殿の13人とは以下の13人・ただし三浦義澄に代わり子の三浦義村が描かれる可能性がある。

大江広元 公文所別当 → 政所別当
三善康信 問注所執事
中原親能 公文所寄人 → 政所公事奉行人。鎮西奉行
二階堂行政 政所家令 → 政所執事
梶原景時 侍所所司 → 侍所別当。播磨・美作守護 正治元年(1199年)失脚(梶原景時の変)
足立遠元 公文所寄人
安達盛長 三河守護 正治2年(1200年)病死
八田知家 常陸守護
比企能員 信濃・上野守護 建仁3年(1203年)謀殺(比企能員の変)
北条時政 伊豆・駿河・遠江守護 元久2年(1205年)追放(牧氏事件)
北条義時 寝所警護衆(家子)
三浦義澄 相模守護 正治2年(1200年)病死
和田義盛 侍所別当 建暦3年(1213年)滅亡(和田合戦)

源頼朝(1147-1199) 享年52才 1180年時点33才・1192年時点45才

大江広元(1148-1225)・おおえひろもと
享年77才・1180年時点32才・1199年時点51才 大江姓は晩年・それまでは中原広元・中原親能は兄・嫡男大江親広は承久の乱で上皇側
早くから政所長官・守護地頭設置を進言・頼朝存命時は実質ナンバー2・一貫して北条義時と協力関係

三善康信(1140-1221)・みよしやすのぶ
享年81才・1180時点40才・1199年時点59才
問注所執事(裁判所長官)・承久の乱では主戦論を展開・北条義時とは協力関係

中原親能(1143-1209)・なかはらちかよし
享年66才・1180年時点37才・1199年時点56才
京都守護・政所奉行・大江広元の兄

二階堂行政(生没年不詳・頼朝と同年代か)・にかいどうゆきまさ
京都の公家出身・行政官・政所執事

梶原景時(1140?-1200)・かじわらかげとき
享年60才・1180年時点40才・1199年時点59才
坂東武者・御家人・合議制発足後すぐに失脚・教養人・歌人

足立遠元(1130頃-1207頃)・あだちとおもと
享年77才・1180年時点50才・1199年時点69才
東京都足立区あたりを拠点とした武将・平治の乱に源義朝のもと参加・公文所寄人

安達盛長(1135-1200)・あだちながもり
享年65才・1180年時点45才・1199年時点64才
鎌倉最有力御家人安達氏の祖・源頼朝の側近・子の安達景盛は頼家とは対立、実朝の側近

八田知家(1142-1218)・はったともいえ
享年76才・1180年時点38歳・1199年時点57才
保元の乱に参加・北条氏に対抗した頼家の下知により、阿野全成(頼朝の弟・頼家のおじ)を誅殺した

比企能員(没年1203)・ひきよしかず
頼朝の乳母比企尼の猶子・娘、若狭局は頼家の妻・頼家の外戚として権勢を振るう

三浦義澄(1127-1200)・みうらよしずみ
有力御家人・享年73才・1180時点53才・1199時点72才
三浦氏の運営は子の三浦義村(1160-1239)に譲っていたと考えられる。

和田義盛(1147-1213)・わだよしもり
享年66才・1180年時点33才・1199年時点52才
坂東武者・最有力御家人・初代侍所長官・数々の武功を挙げる

北条時政(1138-1215)
享年77才・1180年時点42才・1199年時点61才

北条義時(1163-1224)
享年61才・1180年時点17才・1199年時点36才

最新の画像もっと見る

コメントを投稿