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2022大河ドラマ「鎌倉殿の13人」・鎌倉幕府の成立を、どう考えたらいいのか。

2020年01月11日 | 鎌倉殿の13人
北条義時についての「説明」は、「北条義時は信長より凄い」で書いています。

鎌倉幕府を語るにはどうしたって、後白河法皇から始めないといけません。時代は1167年ぐらいです。京都の政務は、以前から「治天の君」(ちてんのきみ)と言われた「上皇」が行っていました。そこに登場するのが後白河上皇です。平清盛とともに、まあ時々は喧嘩しながら、政務を行っていました。政務って、まあ土地の調停とか、治安の「そこそこ維持」といったものです。あとはまあいろいろ、みたいです。

彼はあまり品のよろしくない流行歌が大好きでした。「今様」(いまよう)と言います。「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)という歌集が今でも残っていて、彼の最大の文化的遺産です。いい歌が沢山あります。今でもAKBが大好きとかいう「くだけた知識人のおっさん」がいますが、そんなもんです。新しもの好きだったようです。

この人、平氏を利用し、あるいは平氏から利用され、後白河&平氏政権みたいなものを運用していきます。平家滅亡後も木曽義仲を利用しようとして失敗したり、源義経を利用したりしますが、源頼朝と鎌倉政権だけは利用できなかったようです。

平清盛は割と最後まで後白河法皇とうまくやっていきますが、いろいろともめ事は両者にはありました。1179年になって「土地の所有権をめぐる争い」(これは当時最大の政治課題)が「直接のきっかけ」になって法皇にぶちきれます。それで清盛はクーデターを起こして、後白河を幽閉して院政を停止させてしまいます。1179年という年が重要。源頼朝が鎌倉政権をスタートさせる挙兵をするのが翌年の1180年です。

平清盛はどこまで「やってやろう」と考えていたのか。その後福原(神戸)に都を移します。平家幕府を構想していたという人もいますが、それはここでは書きません。とにかく「平氏の世」はここで頂点を極め、同時に没落が始まります。

その頃、関東には北条氏のような存在がいました。土豪というか開発領主と言おうか、土地を持っていて武力を持つ人々でした。しかしその土地の所有権・課税権は不安定なうえ、土地紛争を中立的に裁定する機関もなく、そのうえ、畿内の治安警護に動員されてもいました。彼らをなんと呼ぶかは学説でも一定していないように思います。ここでは坂東武者とでもしておきます。

後に鎌倉幕府の中核を担う人々です。平氏政権にも後白河政権にも貴族にも寺社にも「不満だらけ」だったわけですが、団結して反抗することもできず、ひたすら不満を抱えながら我慢していたわけです。

京都なんかに干渉されない「おれたちの王様」を持って、その王様に「土地問題を判断してもらえばいい」、そう考えるようになっていたと思われます。

そもそも「我慢する」ような人間でもありません。江戸の武士とは違う存在です。犬を集めて弓で射る競争をしたり(犬追物、江戸期も薩摩藩などに残存)、場合によっては人を射って生首を並べて興奮したり、要するに「あらくれ者」です。品のいいサムライなんかじゃありません。

そこに後白河法皇の幽閉という事件が起きるのです。後白河の息子である以仁王は「平家追討の令旨」を発し、それが全国に流布します。なお以仁王の令旨は平家にも否定されましたが、朝廷も後に「非公式」として否定しているようです。そもそも以仁王は皇太子ではないので、令旨は出せません。出せるのはせいぜい御教書です。つまり本来はそんなに重いものでもないのです。

とはいうものの、源頼朝はこの令旨を利用します。彼は伊豆に流されていたのですが、決起するしかない状況にありました。令旨を手にした以上、決起しなければ逆に平家に追討されるのです。そして決起するにあたりこの令旨を「自分は正しい」という根拠として利用します。

ここで大河「鎌倉殿の13人」の主人公である北条義時や父の北条時政は、頼朝に味方しますが、最初の方の戦いでは300程度しか兵がいません。令旨の効力など当然なく、平家側にボコボコにされて、千葉に逃げます。この時、平家側の梶原景時は、落ち武者狩りで発見した源頼朝をひそかに逃がしたとされます。梶原は後に鎌倉で重臣となります。

この時の北条義時は、江間小四郎と名乗っており、北条家の嫡男ですらありません。ただの17歳の若武者でした。

さきに関東武者は「おれたちの王様」を必要としていたと書きました。その根拠の一つが「負けた頼朝軍の増大」です。負けた源頼朝軍に、上総介広常(かづさのすけひろつね)を始め、関東武者が次々と参加します。単に「源氏への恩」でもなく、「平家への反発」だけでもない。彼らは等しく無学でしたが、それでも中には「源頼朝をかついで、おれたちの独立勢力を築く」と考えていた知恵者はいたと思われます。彼らは、京都政権からは「ほとんどただ収奪されるだけの存在」だったからです。

政権の仕組み構築には「知識人」が必要ですが、頼朝には近くに京都からきた知識人が多少いたようですし、やがて大江広元なども鎌倉にやってきます。むしろそういう京都の知識人こそ「頼朝のもと坂東武者を組織化して、関東に独立勢力を築こう」としていたのかも知れません。

増大した頼朝軍は次々に平家側を破ります。ここで頼朝には「京都に攻め込んで、平氏にとって代わる」という選択肢もありました。なにしろ源氏は貴族です。しかし関東武者たちが反対します。

彼らは京都の干渉を排除して、自分たちの土地の所有権を認めてくれ、土地紛争が起きた時には調停する「おれたちの王様」が必要だったのであり、「なんで京都まで行かなくてはいけないのか」と主張したのです。頼朝も京都進軍を一旦中止し、関東に政権の基礎を築いていきます。(本領安堵新恩給付)

その後、守護地頭の設置、承久の乱の勝利を経て、幕府の姿は変容しますが、京都の干渉を排除するという姿勢は一貫しています。ただし京都には干渉し、幕府の意志で天皇を決定したりします。

初期の鎌倉政権はこのように「独立勢力として」成立しました。成立は1180年という考え方です。むろん他にも成立年代に対する考え方はあり、それぞれに根拠は持っています。

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