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真田昌幸と織田信長

2019年01月21日 | 歴史
真田昌幸(信繁=幸村の父)と織田信長を比べるのは「視点がおかしい」とは思います。真田昌幸はあれだけの謀略を使いながら、せいぜい6万石程度の領地しか持たなかった人間です。信長とはスケールが違います。年齢も信長が13歳ぐらい「年上」です。さらに言えば一時ですが、昌幸は織田家に臣従もしています。

が「真田太平記ファン」の私としては「つい比べてみたくなる」わけです。伊達政宗が「東北に生まれず、しかも信長と同世代だったら天下をとっていた」とは思いません。なにかというと伊達政宗は天下を狙っていたことにされますが、彼の一生を見る限り、そんなそぶりはありません。娘婿の「松平忠輝」が徳川宗家に「かなり警戒」されていたので、それが理由となって「松平忠輝を擁して天下に号令しようとした」とされることもありますが、「伝説」と言えましょう。伊達政宗は徳川幕府に対し実に忠実です。

同じように「真田昌幸が信濃に生まれなかったら天下をとれた」というのも「伝説」です。それと「分かりつつ」書いています。

真田昌幸の「不幸」は「主君武田家がしっかりしていた」ということです。下克上を起こそうにも、そんなスキは勝頼時代だってありません。信長の場合、父の代ですでに「主君は力を失って」いたわけです。斯波氏ですね。信長は「尾張を受け継いだわけでない」わけで、父の作った土台の上で、「自分で尾張を統一した」のですが、「主君が武田のように強大だったら」、無理だったでしょう。ちなみに斯波氏を滅ぼして尾張を統一したとは言えず、織田家同族との争いが主でした。

信長も昌幸も「小さな領地を継承した」点では同じですが、信長が「自由に振舞えた」のに比べ、昌幸にはそんな自由はなかったわけです。自由が欲しいとも思わなかったかも知れません。なにせ主君が武田信玄です。強大過ぎます。それに昌幸は信玄近習なわけで、下克上なんて発想そのものがなかったと考えられるわけです。

しかしその武田も滅び、昌幸は「ある種の自由」を得ます。しかし周りを見渡せば「織田→豊臣の勢力」「勢力を増した徳川家」「関東の覇者北条家」「衰えたと言えど強大な上杉家」に囲まれているわけです。彼が「本領安堵」、つまり「もともと持っていた領地を保全したい」と考えるのも当然です。どう見てもそれが「限界」だからです。

しかも彼の生まれた土地は「信濃」です。畿内で起きていたような下克上は「既に終わって」いました。信玄時代を見るならば「上杉」「武田」「北条」「今川→徳川織田」で周囲はがっちり固められていました。(北条早雲が下克上のはしり、武田信玄は父を追放、上杉謙信はもともとは長尾氏ですが、それら下克上は既に終わっていたわけです)

それに比して信長の周りにいた大名は「名門」でした。本拠の尾張は斯波氏。周囲には六角氏(佐々木氏)、北畠氏。古いけどやや力が弱い名門です。美濃は脅威でしたが、道三の娘をもらうことにより、解消します。もっとも道三死後は「最初の最大の敵」となりました。しかし美濃を攻略し、この時点で尾張+美濃、領国は100万石を超えます。しかも交通交易の要衝です。「美濃を制するものは天下を制する」とまでは言えないと思いますが(司馬ファンとしては言いたいのですが)、「日本の中心地帯の一部」であることは間違いないと思います。

しかも畿内では下克上の風潮が満ち満ちていました。浅井氏なんても「新興勢力」ですし、三好や松永など「下克上の権化」みたいな存在もいました。さらに本願寺勢力、これも「新興」と言えば新興です。

信長の力が真田昌幸をはるかに凌駕していたのは間違いありません。ただ「生まれた土地が良かった」のもまた間違いないと思います。


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