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「麒麟がくる」・キャストの「ビジュアル画像」を分析する

2019年12月30日 | 麒麟がくる
そもそも、歴史家でもなく、史学科出身でもない私が歴史ブログ(時代劇ブログ)を書いているのは、中学生の頃、司馬さんの「国盗り物語」を「繰り返し繰り返し読んだ」ためだと思います。何度読んだか分からないぐらい読みました。

中学時代はその他の司馬さんの作品はさほど読んでいなかったと思いますが、とにかく「国盗り物語」だけは「暗記するぐらい」読んだと思います。いわゆるバイブルというやつです。

だから「国盗り物語」のリメイク、たぶん内容的にはかなり違ったリメイクになると思いますが、「どう考えても国盗り物語がベースとなっている」作品である「麒麟がくる」に関しては、とにかく書かずにはいられません。

さっきNHKの10分ほどの「作品紹介」を見ましたが、ちょっと「真田丸風」でした。西村まさ彦さんが「黙れこわっぱ的な演技」をしていました。

私はこのブログでも数年前から「国盗り物語をリメイクしてほしい」と何回か書いています。そうして「リメイクされたら」、この何十年で描かれた「明智光秀像は吹っ飛んでしまうだろう」とも書きました。司馬さんの光秀は例えば「功名が辻の光秀」だと思われていますが、あれは違うのです。「国盗り物語」の光秀は最初から「天下を狙っている」のであり、「室町幕府の再興を願うだけの真面目な武将」なんかではありません。

さて、本題に移ります。ビジュアルが公開されています。 https://www.nhk.or.jp/kirin/index.html

多少分析してみると

1、主人公であるはずの明智光秀の紹介文が淡泊である。「武士の誇りを忘れぬ男」、、、、なんか単純すぎて物足りない。恰好も「普通の武士の恰好」である。
  「この男は何者なのか」ぐらいの「あいまいな表現」にしておいた方が、人物の描き方が「多面的」になると思われるのだが。

2、織田信長が圧倒的に「みすぼらしい恰好」をしている。青年時代の「たわけの服装」ではあるけれども、信長公記の叙述とも違っているように思われる。
つまり「当時の信長公は、湯帷子の袖をはずし、半袴をはき、火打ち袋などをぶらさげ、髪は茶筅に結い、紅や萌黄の糸で結び、太刀は朱鞘のものをもちいていた。」と信長公記にはあるが、そういう恰好を信長はしていない。

3、徳川家康も武将らしさが全くなく「悲運の三河大名」とか書かれている。人質時代の苦労が強調されるのかな。「おんな城主」でも一応強調されてはいたけどな。
  実際に麒麟を呼び寄せるのは家康だから、あまりクローズアップされないのかも知れない。

4、藤吉郎、つまり秀吉は「意外と小ぎれいな恰好」をしている。今まで「秀吉があんな汚い恰好をしていては信長が怒るぞ」と言われてきたから、小ぎれいな秀吉なのだろう。

5、ビジュアルをみる限り、主役は「斎藤道三」「足利義輝」「織田信秀」「松永久秀」のようにも見える。「足利義昭」も賢そうである。

6、細川藤孝が「剣をかまえて」いる。室町幕府を「よく描きたい」のだろう。三淵藤英も「英雄とされる」のだろう。

7、予想通り「駒」の存在が大きそうである。次に大きな存在は光秀の妻なのだろう。すると帰蝶はどうなるのか。


織田信長の描き方

これについては、すでに「保守的側面も強調」とか「経済力も重視」とかNHKが言っています。室町幕府も朝廷も重んじていたとされる。「書かれた史料」だけ読むとそうなるのですが、まあ「よくできた嘘」ですね。最近小島道裕さんの「信長とは何か」を読みましたが、小島氏の分析などはバランスがよく、「文字資料だけに頼っていない」のです。文字資料だけに頼ると、「建前が本当」になってしまい、人物を読み違えます。金子拓氏のように。ちなみに小島氏は信長に対してきわめて批判的です。英雄視はしていない。むしろ「あんな生き方しかできなかったのか」と嘆いている面もある。それでも記述には納得できる部分が多いのです。

きっと「麒麟がくるの織田信長は変だ」という声が上がると思います。それに対して「最近の研究だ」とか「知ってるふり風の声」も上がるでしょう。「そうなのか」と納得する人もいる。本郷和人さんは「信長普通の武将論では彼の行動が説明できない」と「最新研究なるもの」を批判する。で、色々と信長を巡って論争が盛んになる。でもそれによって信長のイメージが大きく変わることはないと思います。「つまらない信長なんて庶民は望んでいないし、そもそも最新研究なんて怪しい、十年後は分からない」からです。「戦国武将総選挙」において「織田信長は圧倒的な1位」でした。「パイオニアとしての信長像」が「今の段階での最新研究ごとき」で変わるとは思いません。信長研究は「新説→否定→また新説→否定」の繰り返しですから。

明智光秀の描き方

考えてみると「信長を英雄」とするのは「今の日本の価値観」では難しいのです。サイコパス的だし、晩年は虐殺しすぎです。そうなると明智光秀主人公もうなずける。光秀は「信長のすべてを否定」しなくてもいいし、実際否定しないと思います。「比叡山の焼き討ち」をどう描くかが最初のポイントでしょう。

彼は旅行をし、「歴史の重要シーンに遭遇する」、目撃者として描かれると思います。真田丸の真田信繁などにもそういう側面がありました。主役は真田昌幸→秀吉→三成→家康。真田信繁は目撃者。そういう構造にもなっていました。今回も光秀は「目撃者」として描かれることが多くなると思います。

「武士の本当の使命とはなんなのか」、光秀はそれを考えるそうです。NHKが発表しています。答えはなんなのでしょう。「民を守る」では単純だ。「平和を実現する」も平凡過ぎる。「民と手をとりあい、民とともに、駒とともに平和を実現する。麒麟を呼ぶ。」、、、そんなところかなと思います。あまりに「難解に」しても仕方ないでしょうから。

駒の存在

麒麟を最終的に呼び寄せるのは駒、だと予想しています。どういう風にそう「持っていく」のかは分かりません。光秀は志半ばで死ぬわけです。誰かがそれを継がなくてはいけない。単純に考えればそれは秀吉であり、家康です。でもたぶん「駒」になる。どうやったらそうなるのか。それは予想できません。「王が麒麟を呼ぶ」そうなので、正親町天皇あたりが変に活躍するのかも知れません。

まあ「不思議な力で麒麟を呼びよせる」とはならないでしょう。それでは物語の構造が崩れてしまうからです。でも多少は「不思議な力を持った少女」として描かれる気もします。

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