散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

麒麟がくる・最終回のあらすじ

2019年12月31日 | 麒麟がくる

初めに、2020年11月加筆

「以下本文」の部分から下は「去年の12月」に書いたもので、麒麟がくるはまだ一話も放映されていませんでした。
2020年の11月ともなると、だいぶ最終回が分かってきます。ただしハンドブックにも最終回は載っていないようです。でも予想はつきます。
「いろいろな要因が重なって本能寺が起きる」ということです。信長への違和感。「幕府政策、義昭追放」「松永久秀の扱い、死」「帝の軽視、正親町帝との齟齬」「斎藤利三の件」「虐殺行為への違和感」、、、そういうことを最終回に向かって描いていく。そして本能寺が起きる。つまり「一つの要因は設定しない」ということです。ただし黒幕説は採用しないようです。幕府のため、というのも光秀の意志で、義昭のコントロールではないようです。朝廷の件も正親町帝は「信長ではどうも心配だ」ぐらいしか言わないようです。「信長を討て」とまでは言わない。犯罪教唆ぐらいの感じでしょうか。

光秀は「自分が征夷大将軍になる」という決意をするという情報もあります。フェイクかも知れません。でもそうなるとあの不自然な「武士に幕府は必要」という変な信念にもつながってくるとは思います。

以下が本文ですが、なにしろ一年前の予想ですから、読むのならばそこを踏まえてご容赦願いたいと思っています。さらに後半は2020年10月段階の加筆なので「非常に読みにくい感じ」になっています。


以下本文 2019年の12月
正確には「最終回のあらすじの予想」です。NHKのハンドブックとかに基づいてはいませんし、現時点では最終回まで書いたハンドブックなど出版されていません。

つまり「完全に私個人の予想」です。

1、本能寺の変に至る道

光秀は一貫して「乱世の収束」を目指しているわけです。「麒麟がくる世の実現」です。信長は設定上「光秀の盟友」ですから、途中までは光秀と信長の願いは一緒です。
しかし本能寺の変の10年前ぐらいから、二人の道は分かれてきます。将軍義昭の追放。まあこれは「それも平和な世のため」なら光秀は受け入れ可能です。
しかし「一向一揆の虐殺」、、、天正2年、1574年ころから始まるこの「虐殺」に光秀はついていけなくなる。
もっとも「それから8年我慢する」だと長くなりすぎます。だから最終的には「天正伊賀の乱の虐殺」1581年、本能寺の一年前、あたりで光秀は信長を見捨てるのかも知れません。
さらに「信長は朝廷を超える権威をめざす」とされる(これは今までも描かれてきましたが)ことも多い。

とにかく平和路線のずれ、天下構想のずれが本能寺を招くことになるでしょう。ありきたりですが、そんなに「ひねらない」と思います。

なお「四国政策」ですが、きっと紹介はされるでしょう。しかし本能寺の根本原因とはされない。「四国の取次としてのメンツをつぶされたから本能寺を起こした」では、光秀が「私利私欲の人」になってしまうからです。

ただし、四国政策は特別という風に描くこともできます。長曾我部は服属すると言っている。服属すると言っているのに叩くという。それは異常ではないか。そんなことをしたら、北条だって反旗を翻すであろう。結論を先に書きますが、そうなってくる可能性が高いと思います。つまり四国政策を「信長の変心」と十兵衛が捉えるということです。

2、陰謀論は採用しない。
光秀が主人公なのですから「黒幕などいては困る」わけです。下らない陰謀論は採用しないでしょう。

3、光秀はどこで誰に殺されるのか。
小栗栖の里で農民の竹やりで殺される。これは「みんな知っている」ことですから、これも「ひねらない」と思います。
ただし「主人公だからただでは死なない」のは確実です。
「華のある死」「明日へとつながる死」とされます。描き方はいろいろあるでしょう。

ここでも変な陰謀論はないと思います。佐々木秀吉はたぶん「それなりに立派な光秀のライバル」となるはずで、本当は見事な死だったのだが「農民が竹やりで殺したことにしよう」とか言い出すことはないと思います。それ以前の山崎の戦いの描き方、敗因設定の方はひねってくる可能性があります。

4、駒(門脇麦)と岡村さんとマチャアキによって「偶像化」される明智光秀
ナレーションで顕彰されるなんてことはないでしょう。「光秀の思いはやがて秀吉、家康に引き継がれた」とかなんとか、ナレーションで処理されるなんてことはないでしょう。
織田方面軍による地方への軍事侵攻。これを「天下統一事業として描くのではなく」、「乱世の拡大として」描く。そうすれば光秀の行為は「乱世拡大の阻止」「虐殺の阻止」とできます。
それを「駒の口で語らせる」、そして岡村さんと堺さんが同意する。ついでに光秀の幻があらわれて「この後は、わしでなくても、できることだ」とか語る。
そうすれば光秀を「乱世を収束させた英雄」として描くことは可能です。「光秀を英雄として描くかどうか」はまだ分かりませんが、そんな終わり方になるのではと予想します。

加筆 以上を書いたのは2019年の12月です。「麒麟がくる」は始まってもいません。今は2020年の10月です。ここまで見ての加筆をします。

これを読んでいる方が、どれほど予備知識を持っているかはかり難いので、基礎的なことを書きますと、本能寺の変については「四国説」という考えが存在します。四国、長宗我部への「取り次ぎ」を任されていた光秀が、四国攻め政策によって「面目を失い」、秀吉との競争からも脱落し、そして本能寺を起こした、、、という「感じ」の説です。四国説といっても実は様々です。
そういう「個人の面目」というもので本能寺の変を起こした、、では私利私欲から起こしたことになり、ドラマとしては成立しません。だから単純な四国説が採用されることはない。これは去年の段階で述べた通りです。
しかし一方「四国政策のみが天下静謐という大義に反する」という説があるのです。東大准教授の金子拓さんの説です。天下静謐は「てんがせいひつ」です。NHKは去年の段階からこの金子説をクローズアップし、歴史秘話ヒストリアで「世にもマジメな魔王」という回を放送しました。監修は金子さんだと思われ、ご本人も登場します。
「麒麟がくる」の時代考証は小和田さんですが、NHKの「去年からの下準備」を見ると、この金子仮説が、採用される可能性が極めて高いと思われます。
金子さんの説の詳細については「織田信長、天下人の実像」(講談社現代新書)をお読みください。
間違い覚悟でチラとまとめますと、光秀も信長も室町的秩序である「天下静謐」を目指していた。放送では越前攻めの場面でこの「天下静謐」という言葉を十兵衛が発します。
京都に武家の棟梁たる信長がいて、あとは大名たちの「ゆるやかな連携」によって「世の秩序を守る」という考えで、秀吉的な「天下統一」とは違っています。「麒麟がくる」における十兵衛と秀吉には「根本的な秩序感覚の違い」が存在するのです。信長は今は光秀派です。
ところが最後の最後に信長が「秀吉的な志向」を見せた。これでいいか分かりませんが、それが金子さんの説だと思います。つまり「天皇すらその下にある天下静謐という大義」に信長が最後に背いたというわけです。それが四国攻めです。
この根本的理念の相違によって「十兵衛が信長をうつ」。何言っているか、私の文章がつたないせいで、伝わらない向きもあるかと思います。

ゆるやかな大名連合政権を目指していたはずの信長(ドラマ上で)が、「強い中央集権国家」を目指していく。独裁者的立場になっていく。つまり「関白秀吉路線に近づいて」いく。光秀が主導していた天下の計画が、いつのまにか秀吉主導のものとなっていく。信長は相変わらず「空洞のような人物」で、どんどん秀吉路線に乗っていく。それが本能寺の原因となる。この信長には特に路線はないので、秀吉路線と光秀路線の対立が原因となる。そんな気がします。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿