散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

大河ドラマはフィクション・史実通りである必要はない・でも超えてはいけない一線はある気がする

2020年01月02日 | 麒麟がくる
大河ドラマはフィクションです。史実通りである必要はありません。でも超えてはいけない一線はある気がします。「気がするだけ」です。それを普遍化して正論として主張する気はありません。

「女信長」という「時代劇」がありました。天海祐希を起用し、視聴率20%を目論んだけど、10%にも行かなかった。「そりゃ見ないよな」と思います。信長を女にしても、何一つ面白い感じになる気がしません。さっき調べたら「斎藤道三が織田信長の処女を奪う」とか書いてありました。「地獄」です。見るわけありません。

一方大河ドラマで「男色を描いたり」「奴隷商人を描いて」もらっても困ります。「そこまで史実を描かなくてもいいです」と言いたくなります。

大河ドラマは「ある程度史実を基にしたフィクション」であって、それでいいと思います。この「ある程度」が「どの程度」なのかが難しいのですが。

例えば「本能寺の変は豊臣秀吉の陰謀である」。小説や時代劇では「よくある設定」ですが、大河ではほとんどこの設定はとられません。「利家とまつ」において「そんな感じ」が描かれた程度です。それから「おんな城主」では「家康と光秀が共謀した」という設定がなされました。でも大河では「本能寺陰謀論はほぼ採用されない」のです。それが「超えてはいけない一線」です。今のところ。

私は「信長協奏曲」(ドラマ・映画版)は「なかなか面白い」と思います。タイムスリップものです。「アシガール」なんぞもそうです。タイムスリップものにも面白い作品はあるのです。でも大河ドラマでやられては困るとは思います。私が困っても、別にNHKさんは「考慮する必要なんてない」のですが。

「信長協奏曲」には「初めから史実なんて期待しない」わけです。ところが「信長の行動は教科書通り」です。ワルの秀吉を「サル君」と呼んだり、池田恒興を「恒ちゃん」と呼んだり、明智光秀(実は本物の信長)を「ミッチー」と呼んだりします。松永久秀は「松永さん」です。人物設定は「そんな感じ」です。

ところが信長は史実通りに行動します。現代の「歴史を知らない高校生」がタイムスリップして信長になる。そして「平和のために、なんとか信長を演じていく」。ところが「史実なんて知らないで行動したら」、史実通りの信長の行動になってしまった。そんな設定です。コメディ要素が強く笑えます。帰蝶とのラブコメでもある。でも高校生の「平和への願い」もちゃんと伝わってきます。

信長の業績を「ほぼ教科書通り」に描いているのです。高校生の「信長入門」としてもすぐれた作品だし、エンタメ的にも優れた作品です。

つまり「史実を基にしたフィクション」で「一線もまあ超えていない」のです。超えても大丈夫な作品なんですが、不思議と超えない。タイムスリップは仕方ありません。そういう作品なんだから。

こういう作品には好意が湧いてきます。問題は大河ドラマのくせに、つまり「フィクションです」とも言っていないくせに、一線を越えている作品です。例えば「西郷どん」。ウソばかりで質が低い。

ところがこの世は広いのです。例えば「麒麟がくる」に対しても「光秀を天海にして生き残らせたら面白い」「オリジナルなんだから光秀を生き残らせて幕府を開かせたら面白いのではないか」という意見もあるのです。

「何が面白いのだろう」とは思いますが、それは私個人の見解です。その人が「面白い」というのだから真実です。その人にとっては面白いのです。それを批判することはできません。「面白いと思うな」なんて権利は誰にもないし、そんな批判、基本的には間違っています。「障害を持った方が困っているのを見て面白いとは何だ。ふざけるな!」という批判は成立するでしょう。しかし「このドラマを面白いと思うな」というのは、基本的には成立しません。「人殺し賛美ドラマならかろうじて成立するかな」とは思いますが。

感性そのものを批判しても意味はない。面白いものはその人にとって面白いのです。

だから大河ドラマの「フィクションであっても超えてはいけない一線」を普遍性をもって主張することはできません。しかし「どうやら存在する」のです。例えば「上杉謙信女性説」は大河では無理だと思います。どうして無理かを明確に書くことはできないけど、「どうやら無理みたい」です。私も「上杉謙信女説の作品」は見ません。

あくまで「私の一線に過ぎないもの」です。でもそれが不思議と多くの大河ファンの意見と近くなるのです。「それをやったらおしまいヨ」という線は「どうやらある」気がしています。


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