遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『ボタニカ』  朝井まかて  祥伝社

2023-08-07 15:07:22 | 朝井まかて
 NHKの朝ドラ「らんまん」は人気があるらしい。朝ドラは見ていないので内容は知らない。NHKのウエブサイトを見ると、連続テレビ小説であり、「春らんまんの明治の世を舞台に、植物学者・槙野万太郎の大冒険をお届けします!!」の後に、「高知県出身の植物学者・牧野富太郎の人生をモデルとしたオリジナルストーリー」だと記されていた。 本書は、2021年の『類』に続いて、牧野富太郎その人の植物研究人生を綴った伝記風小説である。史実にフィクションを織り込んだものと思うが、牧野富太郎その人の風貌と生き様のエッセンスはこの作品の中軸としてしっかり捉えられているように感じた。
 世間的な物差しでみれば、やはり奇人変人の部類につらなる一人なのだろう。植物と語り合い、植物研究の為にはお金のことなどお構いなしに己の思いを貫き進んで行く。まず研究ありき。事情、状況がどうであろうと、それを結果的に貫けたという人生はなんと恵まれた人だったのか・・・・・そんな思いが第一印象に残る。

 著者はこの小説を次の文章で結んでいる。(p494)

   惚れ抜いたもののために生涯を尽くす。かほどの幸福が他にあるろうか。
   この胸にはまだ究めたい種(ボタニカ)が、ようけあるき。
   ゆえに「どうにもならん」と「なんとかなるろう」を繰り返している。

   富さん、ほら、ここよ。 
   富さん、私のことを見つけてよ。
   一緒に遊ぼうよ。

 本書のタイトル Botanica(ボタニカ)は、ラテン語で「植物の」という意味という。
英語で botanical になるのだろう。ネット検索すると、ラテン語では、植物(botanica comes)、植物学(botanicae)と説明されていた。
 本書の最終章が「十三 ボタニカ」で、その中に上掲の「種」にボタニカとルビがふられている。本書タイトルはここに由来するのだろう。
 本書は月刊『小説NON』(2018年11月号~2020年11月号)に連載後、加筆・訂正を加え、令和4年(2022)に刊行された。

 植物学者で絵の巧みな牧野富太郎という名前はどこかで見聞していたが、それ以上に踏み込んで考えたことがなかった。小説という形ではあるが、本書で初めて牧野富太郎という人物の全貌をイメージでき、一歩近づけた気がする。
 文久2年(1862)土佐(高知県)佐川村の牧野家に生まれた。屋号を「岸屋」と称する造り酒屋を生業とし、江戸時代には名字帯刀を許された家。地方の素封家である。ものごころがついた頃には両親を亡くしており、祖母に育てられた。このストーリーは明治6年富太郎が数え12の時から書き出されていく。塾では抽んでて優秀、村での遊びにおいてはおのずから大将になる。野山を巡り植物を愛でる。植物に不思議を感じ、植物に惚れ込んでいく素地はこの少年期に形成されたようだ。
 祖母は祖父の後妻であり、富太郎とは血がつながらない人であるが、「岸屋」を継承し富太郎に「岸屋」を継承させるために育て見守った。富太郎のやることをまさに見守ることに徹し、彼の行動に釘をさすようなことはしなかった。それが富太郎を植物学の世界にのめり込ませ、自由奔放に行動できる環境を培ったようである。何事もそうだが、植物を研究するにも金がいる。研究するための情報源である書物を入手し、読まねばならない。富太郎が少年期以降、まず恵まれていたのは、金について心配を一切しないという立場を貫けたということだ。勿論後年に金について苦労があったとはいえ、気にせず己の行動を貫いていく。植物の研究について資金面で挫折して終わりということがなかった。
 富太郎が研究のために東京に居住するようになってからも、祖母に金を送ってほしいといえば、金が届けられた。祖母は富太郎の従妹にあたる3歳離れた「お猶」を引き取り養女として育てていた。祖母の目論見どおりに、後に富太郎は猶との祝言を上げる。だが、それは名前だけの夫婦であり、富太郎は研究の便宜性から東京を拠点とした生活に入る。祖母の死後は、土佐の猶に金送れと連絡を入れるだけ。やがて、東京でスエという女性を見初めて一緒に住むようになる。つまり、当初はいわば現地妻である。富太郎には実質的な妻であり、東京での家庭を築く。富太郎はスエの存在を猶に告げている。猶が己を取り乱すことなく、そのことに対応するというのも明治という時代感覚なのだろうか。現代では考えられない状況と思う。富太郎が「岸屋」の身代をつぶし、猶と離婚した後は、東京での金の工面は正妻となったスエが陰で担うことになる。それは借金という形での自転車操業なのだが。
 富太郎は金の入手源について頓着しないのだ。研究には金が要るものと思うだけ。そのことからだけでも、まず世間的には奇人の部類に入るだろう。だが、それが結果的にまかり通った人生なのだからびっくりするとともにうらやましさすら感じてしまう。

 富太郎は全く完全な在野の研究者ではなかった。東京を拠点にするようになったのは、研究を継続するためには、当時の東京帝国大学植物学教室への出入り、研究のための蔵書の閲覧利用や最新情報に接することが不可欠と判断したからである。植物学教室への出入りがどのようにして可能になったのか。その経緯が興味深い。
 それは富太郎が20歳で土佐から上京することから始まる。独学で研究する富太郎が会いたかった博物局の小野先生を訪ね、そこで天産部長の田中芳男先生にも会う。そこから『泰西本草名疏』の著者小野圭介先生を小石川の植物園に訪ねることになる。その人間関係が植物学教室の扉を開けることになっていく。興味深いのは、富太郎が大学に入り、植物学の学位をとるという方向に一切興味を示さなかったことである。富太郎は文献情報や資料にアクセスでき、疑問を問える相手がいれば、独学で十分研究できるという信念を培っていた。少年期から実行してきた植物の咲く現場で植物に接し、採取し、研究するということが本道であると。誰にも負けない植物を描く才能も開花させてきた。
 植物学教室の出入りを許され、教室での手伝いをする。教授との軋轢で植物学教室の出入り禁止となったり、一方で東京帝国大学農科大学の教室への出入りが可能になる。その後、帝国大学理科大学植物学科助手になる。更に紆余曲折をへて、講師になった時期もある。不思議な立場を歩んだ人である。この経緯がおもしろい。

 史実に基づいているのだろうが、本書によれば富太郎の人生で大きくは2回、己の借金を肩代わりし清算してもらう経緯があったようだ。勿論、それができたのも、牧野富太郎という在野の植物学者の非凡な才能を有識者が認識していたからである。この借金清算の紆余曲折がストーリーではいわば山場になっていく。読者はどうなることか、富太郎の研究はこれで頓挫か・・・と一層引き込まれていくことになる。
 このストーリーには、富太郎がどのような研究をしていたのかがきっちり書き込まれていく。その実質的な業績と彼の知識レベルにより、富太郎の才能を認識し、彼を支えようとする人々に恵まれていたとも言える。

 なぜ、富太郎が莫大な借金を抱えるに至るのか。
 研究のために必要な本なら購入資金のことを考えずに、どんどん購入してしまう。
 研究した成果を本にまとめて出版する。自費出版である。その費用がかさむ。自ら印刷機を購入するという手段さえとる。石板印刷の技術を実地に学ぶことすら行った。
 富太郎は、山野に分け入り、植物を採取し、それを克明に描画し、植物標本を作成するという現場主義を植物研究の本道と考えている。そのため、しょっちゅう日本全国の山野に赴くことになる。月単位での現地踏査に及ぶ。
 活動資金のことを考慮せずに、思いつくままにそれらを実行するのだから・・・・・。
 だが、そこにはそれを結果的に許す環境があったのだ。たとえそれが、「岸屋」を破産させ、また巨額な借金を作ったとは言え。

 昭和32年(1957)1月、齢94歳で没する。牧野富太郎、稀有な人生を駆け抜けた人。
 凡人には思い及ばない生き様。ある意味、うらやましいなぁ・・・・・。
 その生き様には己への自負と気概があり、輝きを感じる。
 植物学の世界において、花に触れ、花を愛で、その不可思議を研究し続けた人。
 日本における植物学を日本人が確立する!我ここにあり・・・・スゴイ人が実在した。

 最後に、印象的な記述個所を引用してご紹介しておこう。
*教えること、すなはち一方的に伝えることではない。教えることは、自らで何かに辿り着く瞬間を辛抱強く待つことでもある。思い起こせば、目細谷の伊藤塾の欄林先生はよく問い、よく待ってくれた師だった。  p45
*書物を読んで知を得、その知を深く識るためには己の足で探索し、己の目と手、いや、持てるものすべてを使って観察することだ。するとなにかしらに気づく。  p148
*植物にかかわる学者であるなら、やはり大学の外を歩くべきだ。山に登り、渓流に入ってこそ得られる景色と植物があるのであって、研究室に籠って欧米の学会誌や専門書を読み漁るテーブル・ボタニーだけでは日本の植物学者は自前で屹立できない。 p352
*だが、周囲の誰も彼もが、「教授を立てよ」「気を兼ねよ」と、足を引っ張りにかかる。そんな情実を挟んでおったら、日本の植物学はいつまで経っても進歩できんじゃないか。  p361
*不遜傲岸と退けられようと、最初から世界を見ていたのだ。好きなこと、信じることのみに誠実に生きてきた。   p468
*人生は、誰と出逢うかだ。 p415

 ご一読ありがとうございます。

補遺
練馬区立牧野記念庭園 ホームページ
  牧野富太郎について
高知県立牧野植物園  ホームページ
  牧野富太郎
東京都立大学 牧野標本館 ホームぺージ
  牧野富太郎博士
小石川植物園で活躍した研究者:牧野富太郎  :「Science Gallery」(東京大学)
牧野富太郎  :ウィキペディア
牧野富太郎、日本初の植物学雑誌創刊のため、石版印刷の技術を身に付けた熱意|植物学者・牧野富太郎の生涯(3)  :「JBpress オートグラフ」
牧野富太郎が歩いた「国有林」 :「四国森林管理局」
牧野富太郎特設サイト  :「報知新聞」
なぜ研究室を出禁に? 牧野富太郎を絶望させた「恩師・矢田部良吉との確執」 歴史街道                  :「YAHOO! ニュース」
神戸を知る 牧野富太郎  :「KOBE」
牧野富太郎ってどんな人?  :「絵本ナビ」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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『朝星夜星』   PHP
「遊心逍遙記」に掲載した<朝日まかて>作品の読後印象記一覧 最終版
                 2022年12月現在  8冊


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