遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『朝星夜星』  朝井まかて  PHP

2023-05-22 16:43:16 | 朝井まかて
 大阪の中之島に、かつて「自由亭ホテル」があったということを、本書を読み初めて知った。1881(明治14)年に開業し、1895(明治28)年に改築し「大阪ホテル」と改称された。明治・大正時代に、大阪の最高級の格式を誇り、当初は外国人が大阪市内で唯一宿泊できるホテルだったそうだ。この小説は、「自由亭」を運営した草野丈吉・おゆき夫妻の物語である。調べてみると、「自由亭ホテル(大阪ホテル)」の跡地は、現在「大阪市立東洋陶磁美術館」が建っているところだった。大阪市立東洋陶磁美術館は幾度も展覧会の鑑賞に出かけているが、その近くに「自由亭跡」の説明板が建てられていることには気づかなかった。
 本書は、月刊文庫「文蔵」(2019年9月号~2022年4月号、2021年3月号・4月号を除く)に連載された後、加筆・修正され、2023年2月に単行本が刊行された。本文が502ページという長編である。

 ストーリーはおゆきが丈吉のもとに嫁ぐ時点から始まる。
 おゆきは、肥後の百姓の家に生まれで、12歳の時から長崎の円山町にある有名な傾城屋「引田屋」の奥女中として25歳まで13年間奉公していた。読み書き算盤も怪しい、肝心なところでぼうとして気働きがなく、図体の大きな女である。そのおゆきが丈吉に見初められたという。
 丈吉は、長崎の出島に奉公していた阿蘭陀料理の料理人である。家は伊良林の、若宮稲荷の袂にあり、両親、妹のよしと一緒に住んでいる。丈吉もまた、読み書きはできないが、出島で奉公する間に、生活経験の中で阿蘭陀語、英語などを覚えて使えるようになっていた。阿蘭陀の軍艦に乗り込んで下働きから料理人の道に進んだのだ。阿蘭陀料理をベースにして仏蘭西料理もできる西洋料理人となる。
 いつ、なぜ、丈吉がおゆきを見初めたのか? 引田屋で通詞の宴が催されたとき、阿蘭陀料理人の丈吉が料理を任されたのだ。丈吉が鍋や皿を洗っている時に、奥に夜食を運んだ後、おゆきが他の女中等と食事をしている姿を見た。それがきっかけだと言う。祝言の後に、丈吉がおゆきに告げた。「お前はほんに旨そうに食べとったたい。頬や顎を動かすさまは、気持ちよかほど元気で」「料理人の作るもんはぜんぶ胃袋の中に入って、何も残らんたい。一日がかりで仕込んで卓の上にいかほど皿を並べても、一刻ほどで消えてしまう。いや、残されたら料理人の恥、きれいさっぱり余さず消し去ってもらう稼業たい。故におれらの甲斐はほんのつかのま、食べとる人の仕合わせそうな様子に尽きる。その一瞬の賑わいが嬉しゅうて、料理人は朝は朝星、夜は夜星をいただくまで立ち働くったい」(p24)
 おゆきの食べっぷりのよさが丈吉を惹きつけたというのだからおもしろい。そして、この丈吉の言葉の中に、本書のタイトルの由来がある。さらに、朝星夜星は、まさに丈吉おゆき夫妻の生き方そのものでもあった。このストーリーは、二人がどのような人生を歩んだかを描き出す。

 このストーリーの面白さと興味深さを列挙してご紹介しよう。
1.おゆきは祝言後、おゆきの無様な庖丁さばきを見られて丈吉に言い渡される。
 「台所はおよし、お前に任せる。おゆきは掃除と洗濯、縫い物。以上」(p27)と。
 つまり、おゆきは料理の才なしとみなされたのだ。
 一方で、丈吉は出島から、乗組員たちの洗濯物を引き受けてくる。西洋式の洗濯法をおゆきに教える。西洋式洗濯屋がまずおゆきの仕事になる。家計の一助となることで、おゆきの居場所ができる。そのおゆきも、少しずつ料理になれて、それなりに料理の腕をあげていくのだから、おもしろい。
 このストーリー、一貫しておゆきの視点から描かれていくところが興味深い。

2.丈吉は薩摩の家中、五代才助(友厚)に料理の腕を贔屓される。そして、五代の勧めもあって、丈吉は突然に西洋料理屋をまず、自宅の一部を使って開くという行動に出る。それは、冒頭に記した「自由亭ホテル」開業に至る道を歩み始める端緒となる。
 このストーリーの中軸は、丈吉が西洋料理屋を己の人生を賭けて拡大して行く事業達成物語である。そしておゆきと義妹よしが陰で如何に支えたかの経緯物語でもある。
 
 西洋料理屋の開店と事業拡大の節目を簡略にまとめてご紹介する。それがこのストーリーの中軸であり、節目にもなって行く。
 1863年7月2日「良林亭」開業。伊良林郷にある自宅にて。鬱蒼とした山の斜面にて。
   ⇒1862年に生麦事件。1863年7月に薩英戦争。五代は長崎に不在の時期となる。
 1864(元治元)年4月 良林亭改め「自遊亭」の看板を掲げ借地で営業。
   坂を下った中腹で、二つの道に面した三角の角地。二階建て建坪30坪ほどの店。
   ⇒佐賀藩鍋島閑叟が店に同伴した海軍取調方付役佐野の助言で「自由亭」に改称
 過労により丈吉が倒れ、病床に伏す。その間自由亭はおゆきが女将で義妹よしと営業
   ⇒土佐の亀山社中の人々が贔屓客となる関わりが出来る。
 丈吉が健康を回復した後、自由亭に陸奥陽之助が訪れる。
 7月末、初秋に土佐藩の大監察、後藤象二郎の用命を受ける。後藤の面識を得る。
   ⇒後藤の推挙により、土佐藩の接待御用を承る。
 明治に改元の年、丈吉は土佐藩山内容堂に5人扶持で召し抱えられ、草野丈吉と称す
 1869(明治2)年 川口居留地外国人止宿所(大阪の自由亭)を開業。
   ⇒大阪府判事兼外国官権判事五代才助の命を受ける。
    大阪府知事後藤象二郎、摂津県知事になる陸奥陽之助、五代才助、岩崎弥太郎
    等との関わりが深まっていく。
   ⇒大阪での自由亭開業に伴い、丈吉の家族は大阪に移住する。
   ⇒止宿所の運営上、負債面で存続問題が発生。打開策の目途が立つ。
 1871(明治4)年 神戸に長男・孝次郎名義で蒸気船問屋開業。大阪府御用達を拝命
 1875(明治8)年 第1回京都博覧会開催予定を契機に、京都に進出。
   ⇒知恩院宿坊が外国人用ホテルの一つに。丈吉は中村楼と当ホテルの経営を実施
 1876(明治9)年 川口の冨島1丁目(旧大阪府外務局跡地)に自由亭の支店を開業
 1879(明治12)年7月 長崎の本大工町の島屋跡に自由亭を開業。
      同年11月15日 長崎に自由亭馬町支店を開業
 1880(明治13)年 京都自由亭の二階を増築して新規開業
 1881(明治14)年1月 中之島自由亭ホテル開業。大阪府商船取締所跡地(借地)
   ⇒建物は自前の新築。寄棟式の総二階建。外壁は漆喰仕上げの瀟洒な西洋館。

 大阪の中之島に自由亭ホテルが開業されるまでの凄まじい丈吉の事業活動をストーリーの文脈から抽出した。年次を読み違えているところがあるかもしれない点はお断りしておく。文中に年次の明記が無い描写の箇所は文脈から判断したので。
 借金を重ねながらも、一介の阿蘭陀料理人丈吉がこれだけの事業展開をした背景には、出島での奉公という体験と、西洋料理人という仕事を介して、明治初期に活躍した政界・経済界の枢要な人々との交わりがある。枢要な人々に接して得たた丈吉の見識、思いの発露がそこにある。日本人と西洋人が対等な関係で交わりを深められる。日本人による西洋料理を媒介にしてそんな場を作り上げる。そんな気概が丈吉には漲っていたのだ。
 上記の通りおゆきの視点からその経緯が回想風に語られて行く。丈吉の人物像が浮かび上がって行く。

3.丈吉の発言と、丈吉の語ったことからの理解並びにおゆきが見聞したことを背景にして、おゆきの視点で、幕末から明治中期にかけての日本の政治経済、国際関係の状況が枢要な人物を介して描き込まれていく。その一つが、政治の世界から在野に下り、大阪の復興に力を注ぐようになる五代才助(友厚)の行動である。丈吉の活動を支援し、時には料理人の腕を介して丈吉の協力を得る五代の行動がサブストーリーとして織り込まれて行く。
 もう一つサブストーリーが織り込まれる。江戸幕府が開国を迫られて諸外国と締結した不平等条約を如何に解消していくかである。ここでは陸奥陽之助(宗光)と丈吉・おゆきとの関わりは点描される形で、その当時の状況が明らかになっていく。
 このストーリー、当時の政治経済史、国際関係史とは切り離せない。明治時代という状況に思いを馳せるきっかけとなるところがおもしろい。

4.自由亭という西洋料理店・ホテル事業との関わりの中で、草野丈吉一家の一人一人が描写されていく。丈吉の両親和中とふじ。丈吉の妹よし。よしは兄の許で料理人となる。おゆきは、丈吉が病に臥した時期から自由亭の女将になっていくが、中之島自由亭ホテルの開業以降は、女将の位置を降りることに。おゆきは3人の子の母親となる。きん(錦)、ゆう(有)、孝次郎である。3人の子の人生の紆余曲折が織り込まれていく。
 さらに、自由亭の事業拡大の中で、幾人かの従業員が関わりを深めていく。名前だけを挙げておこう。貫太、萬助、米三郎である。

5.事業拡大に東奔西走し家をあけがちの丈吉は、一方、各地で女性関係を広げていた。長崎では玉菊。玉菊と丈吉の縁が切れた後で、おゆきはその事実を引田屋の女将から聞かされる。おゆきの心境如何? 関西では、松子、竹子、梅子という三人の芸妓を丈吉は落籍していた。その三人が自由亭の女将であるおゆきのところに、三人揃って挨拶に来るという場面で、おゆきはその事実を知る。ここから彼女たちとの人間関係が始まる。おゆきの対応がおもしろい。これもまた明治という時代の価値観を背景とするのか。一種、ユーモアすら感じられる関係となる。
 このストーリーの末尾は、齢74歳となり、秋の彼岸のある日に墓参りをするおゆきの姿と行動描写で終わるのだからおもしろい。

6.丈吉は、1886(明治19)年4月12日に肋膜炎が悪化して、入院の2日後に没した。女将修行をしていた長女のきん(錦)が、中之島自由亭ホテル他を引き継ぐ。しかし、自由亭には多額の負債があった。自由亭の再建を試みる。きんに助力したのは、曽て丈吉に手助けされたことがある星丘であり、自由亭の総理人を引き受けた。が、最後は事業から撤退する判断に至る。このストーリーの最終ステージは、この事業撤退までの経緯が描かれる。 
 史実をベースとして、そこにどこまでフィクションが混じえられているのかは知らない。だが、丈吉とおゆき、随所にそれぞれの気概があふれている。一方で、明治期の枢要な人物の一側面が鋭利に描き出されている。おもしろく読めるところが良い。明治時代のある断面を知り学べる小説でもある。

 印象深い文章を2つ引用して終わりたい。
*ゆきは胸中で訊く。お前しゃん、ただの銭儲けではあかんのだすか。
 己で稼いで己が費消するだけでは面白ないがな。商いは、かあっと胸の熱うなる大義こそが帆柱や。  p486
*[五代友厚が51歳で生涯を閉じた。葬送の折、丈吉が五代を偲び問いかける。それに対する五代の返答の思いとしての言]
 小成に安んずることは我が意にあらず、徒に富を成すも欲するところにあらずと、おれは答えたよ。草野君も同意してくれようが、男子ひとたび世に処して無為に終わるは深く恥じるところではないか。おれは生涯、己の安逸愉楽など希望せぬ。そもそも、天下の貨財は私すべきものにあらずと思っている。たとい失敗し、あるいは産を空しゅうすることがあったとしても、国家国民の幸福ならしむることを得れば。おれの望みはそこで成っている。
 本望だ。         p428

 ご一読ありがとうございます。

補遺
大阪の中枢「中之島」 :「三井住友トラスト不動産」
自由亭ホテル  :ウィキペディア
探そう!大阪市の歴史魅力 第3回「大阪のホテル事始め」:「大阪市立図書館」
明治時代に中之島にあった「自由亭」というホテル・・・・・:「レファレンス協同データベース」
5.「自由亭」の進出  :「京都ホテルグループ」
幕末の外交を支えた「西洋料理人」草野丈吉...五代友厚にも認められた手腕とは?
   朝井まかて      :「WEB 歴史街道」
日本初の西洋料理店シェフ 草野丈吉 :「九州偉人 マンガ」
五代友厚  :ウィキペディア
大阪の恩人 五代友厚  :「大阪商工会議所」
陸奥宗光  :ウィキペディア
政治家 陸奥 宗光(むつ むねみつ) :「和歌山県ふるさとアーカイブ」
陸奥宗光・小村寿太郎~条約改正への道のり~  :「NHK for School」

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