遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『黒い海 船は突然、深海へ消えた』  伊澤理江  講談社

2023-04-19 17:42:52 | 諸作家作品
 寿和丸船団の中核となる網船の第58寿和丸は、千葉県銚子市沖、房総半島の最東端の犬吠埼から東へ350キロの洋上でパラシュート・アンカーによる漂泊(パラ泊)を決めた。寿和丸船団の他の僚船はそれぞれ距離を置き、同様に漂泊する。
 
 調べてみると、日本の領海は、領海の基線(海岸線)から12海里(約22km)の線までの海域。排他的経済的水域は、「領海の基線からその外側200海里(約370km)の線までの海域(領海を除く)」とされている。また公海は「国連海洋法条約上、公海に関する規定は、いずれの国の排他的経済水域、領海若しくは内水又はいずれの群島国の群島水域にも含まれない海洋のすべての部分に適用されます。」(参照資料)という。

 2008年6月23日、午前8時ごろに第58寿和丸は、排他的経済水域内でパラ泊の準備を始め、午前9時頃、メインエンジンを止めた。生存者の証言によると、午後、船体に2度の強い衝撃があった。右舷前方からの「ドスン」という衝撃。7~8秒後に「ドスッ」と「バキッ」という異様な音が重なっての連続的な衝撃。
 「右傾斜した船を海水が一気にのみ込む。左舷側が天高く持ち上がり、・・・激しい2度の衝撃からわずか1~2分ほど。傾きが一気に増してからは、ほんの数秒で船は転覆した」(p20)
 「北緯35度25分、東経144度38分。その太平洋上で第58寿和丸は、船首から沈んだ。突然の衝撃からおよそ40分後、午後1時50分頃と推測される」(p44)
 第58寿和丸は「突然、深海へ消えた」。沈没現場は水深5000m程度もあるという。
 2008年6月24日の朝日新聞朝刊が「漁船転覆4人死亡 千葉沖13人不明3人救助」という見出しで報じた。その報道写真が関連写真、事故現場のイラスト地図とともに最初に載っている。
 この事故報道を全く知らなかった。

 U1さんの「透明タペストリー」のブログ記事で本書を知り、少し後にsoshidodomireshiさんの「読書の記録」ブログで本書を論じられている記事を読んだ。それらが本書を読む動機となり、一気に読んでしまった。

 本書はノンフィクションの作品。調査報道専門ウェブサイト「SlowNews」(2021年2月~4月)に連載されたあと、大幅に加筆・修正されて、2022年12月に単行本が出版された。

 第58寿和丸の異変が他の僚船に伝わると、次々に現場海域に急行した。第6寿和丸が3人の生存者を救出。その後集結した4隻の僚船が懸命に捜索活動を続ける。
 沈没現場付近に至ると、現場目撃者は油に驚いたという。「濃いところの範囲は(直径)100メートルくらいですか。真っ黒いのが印象でした」(p46)
 「第6寿和丸が収容した4人の遺体も油まみれ、ヌルヌルで簡単に引き上げることができず・・・」(p92)という状態だったと言う。
”「遺体はこんくらい真っ黒だった」そういって阿部が指したのは、テーブルに置かれた私の黒革の名刺入れだ。”(p92)
 「黒い海」というタイトルは第一羲的には生存者と目撃者が体験した油の黒さをさしているのだろう。だが、この油が、この事故に関わる重要な論点となっていく。運輸安全委員会が公式に発表した調査報告書の結論は、この油について現場の目撃証言とは大きく乖離した認識の下で処理している。
 インターネットで検索すると、「MA2011-4」の報告書番号で「船舶事故調査報告書」が平成23年(2011)年4月22日付で開示されている。「4.結論」にある「4.2 原因」の記述には、「本件大波を右舷前方の舷側に受けて・・・」(報告書 p54)と転覆原因は、魚具・魚網・ロープなどの積み方に言及しつつ、大波が原因とする。「燃料等の流出が約15~23リットルと推定されたこと」(報告書 p50)と独自の推定を記述している。本書では、p146~147にその要点が説明されている。
 「野崎や第58寿和丸の生存者らにショックを与えたのは、報告書の公表時期の問題だけではなかった。彼らを納得させる内容にはほど遠かった」(p145)
 この報告書、事故発生から3年後、2011年3月11日の東日本大震災の直後、東北全体が大混乱の中での公表というタイミングだった。
 「それでも地元メディアの『いわき民報』は当時、報告書の内容に触れ、『最初から結果ありきではないか』という趣旨の強い疑問を投げ掛けている」(p160)と記す。

 寿和丸船団を所有する「酢屋商店」社長の野崎哲は事故後に独自に情報を収集し、また専門家の意見を聞くとともに独自に実験も委託して、資料を累積していく。己の経験と収集した資料を総合して、報告書の結論に納得がいかないと言う。

 勿論、運輸安全委員会がどういう何時発足した組織で、どういう立場にあり、何を目的とした組織であるかという点も、法規並びに関係者への取材を踏まえて、客観的に記述されている。事故調査の進め方、報告書の作成までの手続きにも触れている。本書でご確認頂くとよい。

 本書の著者は第58寿和丸の沈没事故について、事実資料と当事者関係者・専門家への取材情報、独自に収集した情報等を総合して分析していく。野崎社長の集積した資料が本書の基盤になっているようだ。そして、大きく乖離する事実認識のコントラストを克明に明らかにしていく。
 
 右舷前方から聞こえたという2度の衝撃音。
 パラ泊中だったにもかかわらす、わずか1~2分程度で転覆した船体。
 1時間足らずでの沈没。
 漏れた大量の油。
 誰一人助かっていない前方の船員室にいた乗組員たち。  (p194)

このように要約されている。本書ではこれらの諸点について、諸専門家並びに関係者への取材、さらには情報記事の手続きによる情報入手などを積み上げて行く。情報を総合して、克明に分析しつつ、事故原因を突き止めようと苦戦する。
 深海に沈んだ第58寿和丸自体を観察・調査できれば、物的証拠が一目瞭然となることだろう。だが、それはなされていない。素人考えでは、深海艇で沈没船の外観を調査することができるのではないのか・・・・と思ってしまうのだが。その考えは俎上にものらなかったようだ。その経緯にも触れている。

 著者は、米国の国家運輸安全委員会(NTSB)の公開情報などを利用し、ハワイ近海の太平洋上で発生した愛媛県立宇和島水産高等学校の漁業実習船「えひめ丸」の事故を詳述している。この事故は私の記憶にもある。新聞で大きく継続的に報道された時期があったからだろう。米国の潜水艦との衝突により引き起こされた事故。2001年2月9日に発生した事故である。
 さらに、著者は海外での事例を挙げるとともに、1981年4月9日に発生した貨物船「日昇丸」の衝突事件、1990年10月17日に発生した鮮魚運搬船「第82広丸」の衝突事件という日本船に関わる潜水艦の衝突事例を挙げている。この2件は知らなかった。

 潜水艦の衝突事故に関わる米国と英国での悪しき事例も挙げられている。明確な事実証拠が明らかになるまで、当局は否定を続けたという実例である。
 そんなことを取り上げながらも、アメリカの情報開示の質が、日本における情報開示のレベルより遙かに優れているという側面にも言及している。
 考える材料がいくつも盛り込まれていると言える。
 
 克明な事実の追跡と分析から、著者は論理的な仮説を提起している。潜水艦の衝突という仮説である。現時点では、この説はあくまで仮説にしかすぎない。積み上げられてきた資料・情報と目撃証言等を総合すると、つまり、さまざまな状況証拠を論理的に考えていくと、実に納得できる。
 このノンフィクション作品をあなたが読めば、どのように解釈されるだろうか。

 著者は「それでも私は、17人もの船員が命を落とした大事故について当事者たちの証言に忠実に記録を残したいと考えてきた」(p294)と己のスタンスを明記している。

 「黒い海」というタイトルは、ダブルミーニングになっているのだろうか。簡単には切り開いて光を当てられない暗闇が奥に潜んでいるかもしれないというニュアンスである。その深さもまた底がしれない。初めに結論あり、それに併せて報告書が作成される。そんな動きが背景にあるかもしれない。そんな闇の部分の介在。そんなニュアンス・・・・・。
 このパターン、日本ではかなりくり返されてきているのではないか。福島第一原発事故の報告書にもそんな側面を感じてしまう。
 なし崩しに時が経過していく。事実が風化せしめられていく。

 「野崎の脳裏から、『不条理』という言葉が消えたことはない」(p288)という一行が出てくる。
 まさに、本書で第58寿和丸の沈没事故の経緯を読み進めていくと、読後印象は「不条理」という一語にまず集約される。不条理は「事柄の筋道が立たないこと(様子)。[哲学では、人生に意義を見いだす望みの全く絶えた限界状況をさす]」(『新明解国語辞典』第5版、三省堂)という意味である。
 印象として、もう一語加えるなら、とくに関係者の範疇に入る元高級官僚たちの対処の姿に「理不尽」さを感じてしまうことだ。「記憶にない」「守秘義務がある」を楯にとる姿。理不尽の語義は「万人が納得する論拠をもって説得するのではなく、強い実力をちらつかせながら半ば脅迫的に自分の方の一方的主張を通そうとする様子」(同上)と説明されている。
 
 本書はこれで終りではないようである。著者は「私の取材は今なお続いている」(p296)と記している。
 本書の続編がいつか世にでるかもしれない。「真相」が明らかになることを希求する。
 ご一読ありがとうございます。

参照資料
管轄海域情報~日本の領海~  :「海上保安庁」
房総半島東方向の太平洋の海底の深さ  グーグルマップ
*「MA2011-4 船舶事故調査報告書 運輸安全委員会」平成23年(2011)年4月22日

補遺
日本海溝  :ウィキペディア
JSTB 運輸安全委員会 ホームページ
運輸安全委員会設置法  :「e-GOV」
第17号 平成21年5月8日(金曜日)  :「衆議院」
第171回国会 衆議院 国土交通委員会 第17号 平成21年5月8日 会議録本文
17人が命を失った沈没事故。なぜ国は生存者証言を無視し、情報開示を拒むのか                
                   :「CALL4」
これが国の報告書とは…、突如沈没した「第58寿和丸」に何が起きたのか
                   :「JBpress」
海難事故の一覧  :ウィキペディア
MA2011-4 
えひめ丸事故  :ウィキペディア
Ehime Maru and USS Greeneville collision From Wikipedia, the free encyclopedia
えひめ丸沈没事故 :「NHKアーカイブス」
【現場から、】平成の記憶、えひめ丸事故 課題残されたまま 190207 YouTube
米原潜当て逃げ事件 (日昇丸事件) :ウィキペディア

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