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十字架の言葉は・・・(十字架上の七言)受苦日説教(1986.3.28)

2014-04-04 06:34:19 | 説教
受苦日説教 1986.3.28

十字架の言葉は・・・

主イエスは十字架の上で何を叫ばれたのか。周りに居た人々は、それぞれ、主イエスとの関わりの中で、その叫びを聞きました。
最初の福音書、マルコによりますと、最も近くに居たローマの兵士は「エリヤを呼んでいる」と叫んでいます。つまり彼は十字架上の主イエスの叫びを「エリヤを呼ぶ声」と聞いたのです。しかし、彼のそばに居たもう一人の兵士は、主イエスの叫びを聞くと、すぐに走りだして「酢い葡萄酒」取り、「海綿に含ませ、芦の棒につけ」て主イエスに飲ませようとしています。つまり、彼は主イエスの叫びを「われ渇く」と聞いたのでしょう。この兵士は他の兵士たちと同じように主イエスの処刑に立ち会いながら、主イエスの十字架上の苦しみを少しでも和らげたいという気持ちがあったに違いありません。天国と地獄の別かれ目は、主イエスの十字架の右と左だけではありません。十字架の足元にもあったのです。主イエスは「私の弟子であるという名のゆえに、この小さい者ひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」、と語られました。まして、十字架上での主イエスに、面倒な手続をおしまず、酢い葡萄酒を飲ませようとした、この兵士に、主はどのように感謝されたことでしょう。十字架上の主イエスの「われ渇く」という言葉を、観念化し、精神的にしか理解出来ず、一杯の水さえも差し出そうとしない、いわゆるクリスチャンよりは、十字架上の主イエスに「酸い葡萄酒」を差し出したローマの兵士の方が、はるかに神の国に近いと思います。しかし、ひどい奴もいるもので、主イエスにせっかく準備をして「酢い葡萄酒」を飲ませようとしているのに、それを押しとどめる男もおります。先程、「エリヤを呼んでいる」と言った男です。十字架上の主イエスの叫びを「エリヤを呼ぶ声」と聞いたのですから、考えようによっては宗教的であるとも言えますが、彼は人の苦しみが分からない宗教家のようです。彼には人の苦しみより、エリヤによってなされる奇跡の方に興味があるようです。「エリヤが彼を助けるか、どうか見よう」。救いも、宗教も、自分の人生までも、ショー化(見せ物)してしまう現代人の、残虐さと共通するものがそこには見られます。もう一歩進めますと、神を試みるために、奇跡が見たいばかりに、また主イエスが本当に救い主かどうか見たくて、キリストを殺害いたします。

さて、あなたは、十字架上の主イエスの叫びをどう聞きますか。言葉にならない、悲鳴に近い、十字架上の叫びに、最初に言葉を与えたのは、マルコです。勿論、何もマルコの独創であるとか、創作であると言うのではありません。恐らく、これが教会における最初の公式見解であったと思われます。始めは、それがどういう意味を持つか、弟子たちにもよく分からなかったにちがいありません。もっと素直に、弟子たちにはそう聞こえたのだと思います。
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と、主イエスの弟子たちは聞きました。それは「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て 給いし。」という意味である、とわざわざ説明されています。 (マルコ.15:34) この言葉はどう聞いたって、絶望の中の叫び以外のなにものでもありません。主イエスは絶望の中で死んでいかれたのです。この言葉は弟子たちにとって、決して気持ちのいい言葉ではありません。自分たちの耳を覆いたくなるような言葉です。

芥川龍之介はこの言葉について、次のように言っています。 「十字架上のキリストは、要するに『人の子』に外ならなかった。「わが神、わが神、どうしてわたしをお捨てなさる?」勿論、英雄崇拝者たちは彼の言葉を冷笑するであろう。いわんや、聖霊の子供たちでないものは、唯彼の言葉の中に「自業自得」を見出すだけである。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は事実上、キリストの悲鳴にすぎない。しかし、キリストはこの悲鳴のために一層我々に近づいたのである。のみならず、彼の一生の悲劇を一層現実的に教えてくれたのである。」(西方の人、32 ゴルゴタ) 芥川龍之介はこの言葉の中に、主イエスの人間味を感じ、人間的な言葉として聞いています。
ところで、あなたは十字架上の主イエスの言葉をどう聞きますか。あなたは、十字架上の主イエスを見上げ、そこに何を見、何を聞き、今どのようにそれに対して生きているかということが、この受苦日の問いなのです。私たちは、十字架上の七言を学ぼうといたします。しかし、自分の耳で聞こうといたしません。私たちは、十字架の言葉を研究しようといたしますが、十字架の言葉を生きようといたしません。十字架の出来事が、唯2000年前のエルサレム郊外のゴルゴタ山での一つの事件にのみ留まり、今この場所での出来事になっていない、ということに、今日の教会の問題があります。
使徒パウロは、「それ十字架の言葉は亡ぶる者には愚かなれど、救わるる我らには神の能力なり」とコリント教会の信徒たちに向かって語っています。使徒パウロがこの言葉をコリント教会に向かって投げつけた時、コリント教会ではパウロ派、アポロ派、ペテロ派、ついにはキリスト派まで登場して対立し、神学についての論議が盛んに行われておりました。そこで飛かう言葉は賢い人間の言葉です。恐らく、論議のテーマはバプテスマということであったようです。聖洗式がどのように行われるべきか、その意味は何か、バプテスマと割礼との関係は、議論を始めますと、とどまることのない程議論は次々と果てしなく展開し、人間の賢い言葉が、そして人間の美しい言葉が、教会の中心になってきます。そして、人々は決して美しくない、出来れば避けたい、「十字架の言葉」を無視し始めます。使徒パウロはあえてその議論に参加しようといたしません。人間の賢さが支配する所では、キリストの十字架が虚しくなってしまう、と彼は言います。使徒パウロが心配していることは、キリストの十字架が虚しくなり、無力になってしまうことです。「愚か」と言われようと、「馬鹿」と言われようと、「矛盾している」と批判されようと、そんなことはかまいません。キリストの十字架の言葉は、人を救う神の能力なのだ、ということが使徒パウロの確信であり、その言葉を語ることが彼の使命であり、彼の唯一の関心事なのです。だから、賢い人間の言葉が行きかうコリント教会では、あえて神学論に参加せず、「イエス・キリスト及びその十字架につけられ給ひし事のほかは、汝らのうちにありて何をも知るまじと、心に定めたればなり。」(Ⅰ.コリ.2:2)とまで宣言しているのです。

使徒パウロが「十字架の言」( Ⅰ.コリ.1:18) という表現をしているのは、ここだけですが、一体この言葉の意味は何でしょうか。
十字架上での「主イエスの言葉」なのか、あるいは「十字架についての、教会の言葉」なのか、使徒パウロの言い方は曖昧です。恐らく、使徒パウロにとって彼自身が十字架の主イエス・キリストから聞く言葉は、同時に彼が語る宣教の言葉であり、そこには厳密な区別の必要がなかったにちがいありません。
使徒パウロは、ガラテヤ教会の信徒たちに、「愚かなる哉、ガラテヤ人よ、十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト、汝らの眼の前に現されたるに、誰が汝らをたぶらかししぞ。」 (ガラ.3:3)とほとんど、怒鳴っています。使徒パウロにとつて、説教をするということは、十字架につけられしままの主イエス・キリストを人々の眼前に描き出すことでありました。それは決して美しいものではありません。一人の男がなぶり殺しにされるのです。あまりの苦しさに血が水のようになったとのことです。説教とは美しい言葉で語る「神についてのお話」ではありません。聞く人々の眼の前に、「十字架につけられしままなるイエス・キリスト」を描き出すことなのです。今日、信仰が弱くなってしまっている大きな理由の一つは、教会の説教が「十字架につけられしままなるイエス・キリスト」を語り得ていないからではないかと、反省いたします。
教会が福音による自由を失い形式主義や律法主義の牙城となるとき、教会が愛と赦しの恵を失い、偽善とへつらいが横行するようになるとき、教会が気配りと信頼を軽蔑し、独善と権力が支配するようになるとき、実は教会はその土台において、「十字架につけられしままなるイエス・キリストの姿」がぼけてしまっているのです。使徒パウロは、福音からはみ出してしまったガラテヤの信徒たちに向かって、「愚かなる哉、ガラテヤ人よ」と呼び掛け、私はもう一度あなた方のところに行って、説教のやり直しをしなければならないのか、と怒鳴っているのです。

それでは、使徒パウロは「十字架の言」をどう聞いているのでしょう。恐らく、使徒パウロ自身は生前の主イエスにお逢いしていない筈ですし、まして、その十字架処刑には立会っおりません。
使徒行伝によりますと、後に使徒パウロとなるキリスト教の迫害者サウロはダマスコ地方のクリスチャンを迫害するために、ダマスコの町の近くに来た時、突然、天から光がさして、地上に打ち倒されました。この時、彼は「サウロ、サウロ、なんぞ我を迫害するか」という主イエスの言葉を聞いています。彼は、この時、主イエスの十字架の言葉を聞いたに違いありません。注意すべき点は、彼が迫害しているまさにその相手がイエス・キリストであったという認識です。まさに、彼こそ「十字架にかけられしままのイエス・キリスト」です。使徒パウロのこのような強烈なキリスト体験、十字架体験はどのようにしてなされたのでしょうか。

一人の男がおりました。平凡な男です。司祭になりたいと思ったに違いないのに、司祭にも成れなかった男です。しかし、彼は一所懸命、主イエスの様に生きようと願い、人々に仕え、伝道の業に励んでいました。彼にとって、主イエスとは、「父よ、彼らをお赦しください。」「父よ、私の霊をあなたに委ねます。」という言葉を残して、迫害する者の為に祈りながら、十字架で死に、それゆえに神は彼を死の苦しみの中に置いて置くはずがなく、死から解放し、復活された御方でありました。(使.2:24,3:15)彼はあまりにも熱心に伝道したため、キリスト教を迫害する人々からマークされ、ついに石を投げ付けられて、殉教いたしました。彼こそ最初の殉教者ステパノです。彼は殉教の際、石で打たれながら、ひざまずいて「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください。」 「主よ、私の霊をお受け下さい。」と祈りながら死んでいきました。使徒パウロはその現場を見てしまったのです。偶然なのか、あるいはステパノ殺害の時の指導者の一人であったのか、よくわかりませんが、ともかくパウロはその現場におりました。しかも、迫害する者の一人としてそこにおりました。ルカの福音書の十字架の場面とこのステパノ殉教の場面とはそっくりです。まさに、ステパノは主イエスのように死んだのです。恐らく、使徒パウロにとって、この経験は忘れることの出来ないものであったでしょう。石に打たれながら死んでいくステパノの姿が使徒パウロにとっての主イエスの姿になった、と言っても間違いないでしょう。

迫害する者が迫害される者によつて、「赦され」ー父よ、彼らを赦し給え。そのなす所を知らざればなりー、「受け入れられ」ーわれ誠に汝に告ぐ、今日なんじ我と偕にパラダイスに在るべしー、迫害する者が迫害される者と一体化する、迫害していた者が迫害される者となる、これが使徒パウロの十字架体験にほかなりません。

本日、私に託されている十字架上の聖言は「父よ、私の霊をあなたに委ねます」という言葉です。聞き様によっては、この言葉はあまりにもありふれていますし、あまりにもよくできていすぎます。いかにも、主イエスらしいとも言えます。しかも、この言葉は詩篇の第31篇からの引用だと言われています。そういたしますと、この詩篇はユダヤ人の家庭なら、どこでも一応、毎晩寝る前に読むように義務付けられている詩篇ですから、死の間際に、この詩篇が口をついて出て来たということは、まさに文部省の推薦物語でしょう。しかし、あなたはあなたの死を、人を恨みながら、人々を呪いながら、死にたいですか。それとも、人々を赦し、人々の赦しを祈りながら、自らの人生を神に委ねながら、穏やかに死にたいですか。 ルカが私たちに語る主イエスの姿、またその死は、「神の子羔」という特殊な在り方でもなく、また「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という、神からも徹底的に捨てられるという壮絶な死ではありません。そんなことは真似をしようにも出来るものではありません。ルカが語る主イエスの十字架は、出来れば避けたいとは思いますが、やむお得ない時には、私でも担える十字架なのです。誰かから、殴られた時、痛め付けられた時、いじめられた時、てむかうのではなく、「父よ、彼らを赦し給え。そのなす所を知らざればなり。」と祈ること、赦し受け入れること、これならなんとか出来そうです。ステパノはそれを実行いたしました。主イエスの十字架の日の前日、主イエスを否定した使徒ペテロも、その様に生き死んでいきました。
ルカが語る十字架は、向かいあっていた迫害者が、迫害されている者の祈りと赦しと受け入れによって、変革され、迫害者から迫害される者へと変えられる改心ということです。その救いの能力、「十字架の言は救わるる我らには神の能力」ということです。
主イエスは、ある日、弟子たちに言いました。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を棄て、自分の十字架を負うて、私に従って来なさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」この言葉は、ヨハネを除く三つの福音書には共に記録されている重要な言葉ですが、ルカだけが付け加えている重要な副詞があります。それは「日々」という、小さな小さな言葉です。しかし、この言葉があるのと、ないのとでは、「自分の十字架」というものをどう理解するのかということで決定的な違いが出て来ます。必ずしも、殉教して死ぬことが、「自分の十字架」ではありません。「日々の十字架」、「日々の改心」なのです。死ぬことではなく、生きることです。
最後にもう一度、あなた自身は十字架上の主イエスの叫びをどう聞きますか。あなた自身の耳で、あなた自身の心の耳で、十字架上の主イエスの叫びをどう聞き、それをどう生きているか、もう 一度、十字架を見上げて、耳を傾けていただきたいと思います。
「父よ、彼らを赦し給え。その為す所を知らざればなり。」(ルカ.23:34)
「われ誠に汝に告ぐ、今日なんじは我と偕にパラダイスに在る べし。」(ルカ.23:43)
「おんなよ、視よ、なんじの子なり。視よ、なんじの母なり。」(ヨハネ.19:26,27)
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(マタイ.27:46)
「われ渇く。」(ヨハネ.19:28)
「事畢りぬ。」(ヨハネ.19:30)
「父よ、わが霊を御手にゆだぬ。」(ルカ.23:46)

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