ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ピノッキオ 1998.1.1

1998-01-01 14:06:09 | 嫩葉
ピノッキオ
「ぼく、勉強する!仕事もする!おかあさんのいうことなら、ぼく、なんでもするよ!だって、あやつり人形の生活なんて、ぼく、もううんざりしちゃったもの!ぼく、どんなことしても、ほんとうの人間になりたいんだ」とピノッキオは叫ぶ。 1880年に書かれたカルロ・コッローディの代表作「ピノッキオの冒険」(米川良夫訳)を改めて読み直していろいろ考えさせられました。今から120年ほど前に書かれたものですが、現在でも読みごたえのある作品で、わたしの目の前でピノッキオが生き生きと動き廻っているようでした。というより、読んだ後、今でもわたしの前に現れます。 途中まで読んで、あまりにも「勉強せよ、学校に行け、親の言うことをよく聞け」という教訓じみた言葉に多少うんざりいたしましたが、最後まで読んで、そこに重点が置かれているのではないということに気付き、ホッといたしました。 ピノッキオを「操っていたもの」は何なのだろう。誰なのだろう。決して、父親代わりのジュペットおじさんでもありませんし、また母親代わりの妖精でもありません。むしろ、彼らはピノッキオをありのままに受け入れ、ゆるし、助けます。この作品の中にはピノッキオを誘惑する者は登場しても、操っている登場人物は見あたりません。むしろ、彼を「操っているもの」はピノッキオ自身の中にある「自由でありたい」という願望であると思います。この「自由でありたい」という欲求と「人間になりたい」という願望とがぶっつかり、絡み合う。ここに、この作品の面白さがあるように思います。 人間であるということと、自由であるということとは、本質的には矛盾対立するものではありません。ところが、人間になるということが「自由である」ということを抜きに主張されると、「あやつり人形」から脱出することができないし、逆に自分の内部から出てくる「自由でありたい」という欲求をがむしゃらに求めるとき、それは単なる「わがまま」にすぎません。 人間の子どもになったピノッキオは、壁に掛けられたあやつり人形を見て、「あやつり人形であったときのぼくは、なんてこっけいだったのだろう!」と言います。これがこの作品の結びの言葉です。 ピノッキオが人間の子どもになるきっかけは、ジュペットおじさんを大きな魚のお腹の中から助け出し、1杯の牛乳をおじさんに飲ませるためにバケツに100杯の水を汲み、また生活費のために夜はかごを編むという仕事をいたします。つまり、他の人のためにすべての自由(=時間)を犠牲にします。他者のために生きるときに初めて、人間はほんとうの人間になります。 (園長・牧師 文屋善明)

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