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ぶんやさんの記録

原本ヨハネ福音書研究巻2(中)

2016-02-07 08:14:53 | 聖研
原本ヨハネ福音書研究巻2(中)
巻2 霊によって生まれ、霊において礼拝する

 (1) 初めての神殿詣(2:13~25)
 (2) ニコデモとの会話(3:1~12)
 (3) 著者の言葉 (3:15~21)
 (4) 洗礼者ヨハネの証言(3:22~36)
 (5) 洗礼についての一寸したコメント (4:1~2)
 (6) サマリアの婦人との会話 (4:3~26)
 (7) イエスと弟子たち (4:27~34)
 (8) 教会の宣教 (4:35~38)
 (9) サマリアの人々 (4:39~42)
 (10) 王の役人の息子を癒す (4:43~54)
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<承前>

第3章 イエスを信じるということ

13節では、イエスのことを「人の子」とか、「神の御子」など3人称単数形で語られ、「天から降ってきた人の子が、また天に上げられる」と述べられるが、おそらく13~14節は文体の特徴から見て教会的編集者の挿入であろう。ただし、ここに出てくる「降る」「上る」という概念はヨハネ福音書におけるキリスト論においてカギとなる言葉であるが、ここではそれを取り上げない。15節以下の言葉はイエスの言葉とも言えないし、語り手の言葉とも言えないし、教会的編集者の言葉でもない。つまり、話者不明である。それでここでは著者自身が顔を出していると、私は解釈する。これはヨハネ福音書の特徴の一つでもある。

<テキスト3:15~21>
著者:神の子を信じる者は誰でも永遠の命をもつのです。神はそれ程、この世を愛しておられるのですよ。だから、ご自分の御子をこの世にお与えになったのです。それはその神の御子を信じる者が滅びないで永遠の生命を持つためなんです。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではありません。かえってこの世が彼によって救われるためなんですよ。言い換えると、彼を信じる者は裁かれることがなく、信じない者はすでに裁かれてしまっているということです。神の前での審判とはこういうことなんです。光がこの世に来たのに、人間たちは光よりもむしろ闇が好きなんです。というのはその人間たちのやっていることが悪いので、暗い方が都合がいいんでしょうね。つまり、悪いことをやっている連中は、光が嫌いで、光のあるところには近寄ろうとしないものなんです。なぜなら明るいところに来たら自分たちのやっていることが全部暴露され糾弾されるからです。でも、真埋を実践している人たちは光のところに来ます。なぜなら自分のやっていることが神の意志に基づいているということに確信があるからです。

教会的編集者の挿入:Jh.3.13~14

<以上>

この部分はヨハネ福音書の「最も重要なメッセージ」、ヨハネ神学の「核心」が述べられている。それは一言で言うと、15節の「神の子を信じる者は誰でも永遠の命をもつのです」という宣言である。ヨハネ福音書の執筆目的を記した最後の言葉でも、「これらのことが書かれたのは、イエスがキリスト、神の子であることを信じるためである。そしてまた、信じて、彼の名において生命を持つためである」(Jh.20:31、田川訳)。もっとも、Jh.20:31は教会的編集者の言葉であると思われるが、その点では原著者の意図を継承していると見るべきであろう。
「神の子を信じる者は誰でも永遠の命をもつのです」(Jh.3:15)といわれたら、誰でも「何故、どのようにして、そんなことがあり得るのだろうか」と問うであろう。16節はその答えである。「神はそれ程、この世を愛しておられるのですよ。だから、ご自分の御子をこの世にお与えになったのです。それはその神の御子を信じる者が滅びないで永遠の生命を持つためなんです」。これがキリストによる「救済劇」のすべての出発点であり根拠である。言い換えると、キリスト教に対するすべての「何故」に対する答えがこれであると言ってもいいであろう。イエスの登場、十字架の死、復活、昇天、これらのすべての究極的な謎、何故、神はこんなことをなされるのか、その答えが「神の愛」である、とヨハネは言う。ここには「愛」「永遠の命」「裁き」「光と闇」「真理」というヨハネ神学の主要概念がほとんど全部出揃っている。これらを一つ一つ論じると、いくら時間が合っても足りないので、ここでは単語リストだけを上げておく。

第4章 洗礼者ヨハネの証言

<テキスト3:22~36>
語り手:その後、イエスは弟子たちを引き連れて、ユダヤ地方に移動し、そこを拠点として人々に洗礼を施しておられました。他方、洗礼者ヨハネもサリムの近くのアイノンで洗礼を授けていました。そこは水が豊か場所でした。ヨハネのもとには大勢の人々が洗礼を受けるためにやってきていました。その頃、ヨハネはまだ投獄されていませんでした。
イエスとヨハネとが、それぞれが別々に洗礼を施しているということで、一部のユダヤ人たちは、ヨハネの洗礼とイエスの洗礼とはどちらがホンモノなのかということで議論が始まりました。それで、何人かのユダヤ人がヨハネのもとに来て質問しました。

ユダヤ人たち: 先生、ヨルダン川の向こう側でかつてあなたの弟子だった人が先生と同じように洗礼を授けています。しかもその男はあなたが私たちに神の小羊だと紹介して下さった方というではありませんか。多くの人々があちらの方がホンモノだと言うので、あちらの方に行く者も少なくないようですよ。
ヨハネ:形だけの洗礼なら誰にでもできるでしょうが、本当の洗礼というものは神によるものなのです。私がいつも言っているように、私はキリストではなく、キリストのための準備をする者なのです。そのことについてはあなた方もご存じですね。私にとってはイエスというお方は花婿のような存在で、私自身は花婿の介添人のような者です。だから、あの方の名声が上がり、多くの人々から歓迎されているとしたら、それは私にとっても非常にうれしいことなんです。あの方がますます栄え、私が衰えるのは私の本望なのです。

<以上>

イエスと弟子たちの一行は、エルサレムから出発してガリラヤに向かう途中、サマリア地方の手前の「ユダヤ地方」と呼ばれている地域に移動し、ここにしばらく滞在し、洗礼を授けていた(Jh.3:22)。ここから遠くない場所には洗礼者ヨハネが洗礼を授けているアイノンがある。ヨルダン川もここまで来ると水量も増え、洗礼を授けるのに適していたのであろう。ここで一つの事件が起こる。この事件は起こるべくして起こったというよりも、ユダヤ人たちが仕掛けた中傷事件である。ここで洗礼者ヨハネはイエスについての証言を繰り返すが、この証言を最後に洗礼者ヨハネはヨハネ福音書から消える。

第5章 洗礼に関する短いコメント

<テキスト4:1~2>
語り手:さてイエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けているということがファリサイ派の人々の耳に入りました。イエスはそのことでヨハネに迷惑をかけていることを知り、ユダヤ地方を離れガリラヤ地方に戻られました。ここで取り上げられる出来事はその旅の途中での出来事です。 
一寸余談になりますが、先ほどイエスが洗礼を授けているというような誤解を招くことを申し上げましたが、実際にはイエスご自身が洗礼を授けておられたのではなく、弟子たちがしていたことでした。

<以上>

イエスは、イエスの弟子集団と洗礼者ヨハネの弟子集団との対立という誤解を避けるために、そこを離れてガリラヤに行ったという。前の記事を読むと洗礼者ヨハネ自身は決してイエスと対立してない。ところがそのような噂があった。噂というよりもそのような風聞をファリサイ派の連中がまき散らしているというべきであろう。しかしイエスの時代にイエスと洗礼者ヨハネが対立しているということは考えられないし、両方の弟子集団が対立していたということはほとんどあり得ない。むしろイエスの弟子集団と洗礼者ヨハネの弟子集団との対立は、原始教会時代のことであろう。従ってここには明らかに時代錯誤がある。
ここでの問題は、そういう種類のことよりも、イエスが洗礼を授けていたのかどうか、3:22では明らかにイエスが洗礼を授けていたと述べられているが、それは本当だろうか。同じ著者が4:2でわざわざ註として「一寸余談になりますが、先ほどイエスが洗礼を授けているというような誤解を招くことを申し上げましたが、実際にはイエスご自身が洗礼を授けておられたのではなく、弟子たちがしていたことでした」(Jh.4:2)と述べている。このことをどう辻褄を合わせるのか。このことは専門家の間でもいろいろ議論され、その議論自体もなかなか面白いが、ここではパスしておく。ただ一つ、イエスが洗礼を授けていたということは共観福音書にも出て来ないし、ヨハネでもここだけのことで、むしろ使徒言行録などを見ても、当時の教会において洗礼という儀式はあまり重んじられていたようには見えない。むしろパウロなどは一度だけ例外的に洗礼を施したことがあるようだが、それも間違いであったという(1Cor.1:13~17)。パウロは教会で洗礼を授けることが危険なこと、福音にとってはマイナスだと思っていたようである。パウロが洗礼ということをいう場合は「キリストと共に死ぬこと」という霊的な意味で用いている。

第6章 サマリアの婦人との会話

<テキスト4:3~26>
語り手:さて、ユダヤ地方からガリラヤ地方へ行くためにはサマリア地方を通るのが近道ですが、普通のユダヤ人はサマリア人への差別感情から回り道をするのですが、イエスはそんなことにはこだわりません。ということで、族長ヤコブがその子ヨセフに与えたといわれている土地の近くにあるシカルというサマリアの町に来られました。ここには有名な「ヤコブの泉」という名所がありました。
ちょうど昼頃、ヤコブの泉を通りかかり、イエス一行はそこで休憩することにいたしました。 (4:3~6)
その間に弟子たちは昼食を調達するために町へ出かけ、イエス一人が残されました。イエスは喉が渇き水を飲みたいと思いましたが、あいにく水を汲み上げる道具がありませんので、誰かが来るのをあてもなく待っていました。ちょうどそのとき一人の婦人が水を汲みにやって参りました。婦人は当然のことですがサマリア人です。イエスは何のわだかまりもなく、彼女に話しかけました。

イエス: すみませんが、喉が渇いているので水が飲みたいのですが、飲ませて頂ただけませんか。
婦人:<見知らないユダヤ人の男性から突然声をかけられ、驚き、多少皮肉を込めて、ぶっきらぼうに>あんたユダヤ人だろ。ユダヤ人の男が、なんで私などサマリアの女に水を飲ませて頂きたいなんて頼むんだい。ユダヤ人はサマリア人と付き合わないんじゃなかったんですかね。
イエス:<彼女のつっけんどんな態度に、多少気を悪くして>もし、あんたが神さまを信じる人で、水を飲ませて頂ただきたい、と頼んでいる私がどういう人間なのかわかったら、そんな口の利き方をしないだろうね。むしろあんたの方から私に「水を飲ませてください」と頼み、そうしたら、私はあんたに喜んで生きた水を飲ませてやっただろうに。
婦人:だんなさん、変な言いがかりはやめておくれよ。あんたは水を汲む道具がないんで私に頼んだんだろう。いったい、こんな深い泉からどうして水を汲むって言うんだい。あんたは私たちの先祖ヤコブより偉いとでも言うんですかい。先祖伝来のこの井戸でヤコブもその家族も家畜もみんな代々この水を飲んで生活してきたんですよ。それともその「生ける水」ってのはこの泉以外のところからでも汲み出すっていう訳じゃないでしょうね。
イエス: ほほーっ。あんたもなかなか言うね。でもね、いいかい。この水は確かに由緒ある水だろうし、身体の乾きを癒してくれるだろう。でもね、この水が癒しくれる乾きっていうのは、飲んでもまた直ぐに乾くんですよ。でもね、私が飲ませてあげようっていう水は、泉から汲み上げるような水じゃなくて、その水を飲んだ人間の中からこんこんと湧き出てくる水で、一度飲めば、もう二度と乾くということがないんだよ。
婦人:<イエスの話に興味を持ち始めた様子で>ほほーっ。それは確かに便利だね。 <多少態度を改めて>先生、もう二度と水汲みをしなくてもいいように、ぜひその「生きた水」とやらを私にも分けてくださいよ。
イエス: いいよ、そのために一つだけ条件があるんだがね、いいかい。
婦人:もちろん、いいですよ。それでその条件とやらは何んだい。
イエス: わかった。じゃ、今すぐ、ここにあんたの連れ合いを連れていらっしゃい。それがただ一つの条件だ。
語り手:気丈夫な婦人もこの条件には参ってしまいました。なぜ、このユダヤ人の男はこんな、へんてこな条件を付けるのだろう。水と夫と何の関係もないじゃないか。婦人は考え込んでしまいました。はじめの間は水と夫と自分とのことを考えていましたが、やがて、こんなことを言い出すユダヤ人のこの男とは何者なのか。しげしげと男を見直しはじめました。どうも普通のユダヤ人の男ではなさそうです。ユダヤ人だけではなく、今まで付き合ってきたどんな男たちと比べても、こんな男と会ったことがありません。考えたあげく、とうとう白状しました。

婦人: 先生には参りましたよ。正直に白状します。実は私には連れてこれるような連れ合いがいないのですよ。
イエス: そうだろう。「連れてこれるような連れ合いがいない」というのは本当だろう。実は、あんたには5人の夫がいたはずだ。そして、今一緒に生活している男も本当は夫ではないのだろう。

語り手:サマリア人の婦人はびっくりしてしまいました。まさに、その通りなのです。今、初めて会ったこの旅人からそんなことを言われるとは。

婦人: 先生、わたしはあなたを預言者とお見受けします。

婦人: 先生、ちょっと伺いたいことがあるんですが、いいでしょうか。私は前々からユダヤ人の偉い人に会ったら教えてもらいたいと思っていたんですが、なかなか偉い人に会えなかったんでね。
私どもサマリア人は遠い先祖の時代から代々、このゲリジム山で礼拝を守ってきましたが、あなたがたユダヤ人はエルサレムでの礼拝こそ本物で、それ以外の礼拝は偽物だと言っていますよね。それは一体どういうことなのでしょうね。

イエス:ご婦人、中々良い質問ですね。私はその議論そのものが無益なものだと思っているんです。そのうちに、あなたたちも、私たちも、ゲリジム山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時代が必ず来ますよ。私の言うことを信じなさい。実はもう既にその時が始まっているのですよ。大切なのことは、どこで礼拝するかということではなくて、礼拝する人間が霊と真をもって礼拝することなんですよ。父が求めておられるのは、こういう礼拝なのです。神は霊なのです。だから神を礼拝する者も、霊と真をもって礼拝しなければなりません。
婦人: 私はキリストが来られることは知っています。その方が来られたら、すべてのことが明らかになるでしょう。
イエス:それが私です。あなたが今話している私です。

教会的編集者の挿入: 4:11

<以上>

(a) 出会い
サマリアの婦人との会話が、泉の側で「水」に関することで始まったことは面白い。ニコデモとの会話では「風=霊」が取り上げられた。そしてサマリアの婦人との会話では「水=生命」が取り上げられる。いずれもヨハネ福音書では重要なテーマである。
場所はユダヤ地方からガリラヤ地方に向かう途中にあるサマリア地方の名所「ヤコブの泉」、時は昼間の正午ころ、ニコデモとの対話が夜であったのに対して、こちらは昼、この対照も興味深い。著者はそのことについて特別な関心を示さないが、読者としては「夜の神秘性」と「昼の明証性」との対比が面白いと思う。ニコデモとの会話ではいかにもインテリらしい重苦しさがあった。それに対して、サマリアの婦人との会話はとにかく明るい。ほとんど冗談に近い雰囲気で会話が弾む。

(b) 二つの差別
ここには二つの差別が出てくる。一つはユダヤ人のサマリア人への(民族?)差別、もう一つは男性の女性に対する性差別。イエスはその二つとも「何のこだわりもなく」彼女に話しかけている。彼女はそのことについて、驚き、皮肉る。この皮肉は、いわば弱者の強者に対する反撃である。9節の言葉は著者の解説であるが、私はあえて、彼女のセリフの中に組み込んだ。この方が会話に迫力が出てくると思ったからである。ここで本当ならサマリア人とは何か、何故ユダヤ人はサマリア人を差別しているのかという歴史的経過を述べるべきであろうが、ここでは省略する。差別の理由などというものは基本的にはつまらないことだからである。人間はどんなにつまらないことからでも、差別の材料にする。むしろ、そのことの方を批判的に述べるべきであろう。それは別の機会にする。

(c) サマリアの婦人 vs. イエス
ここからイエスと婦人との本格的な対話が始まる。ここでのイエスは実に人間的である。ニコデモに対するイエスには「構え」が感じられたが、ここでのイエスは完全に婦人と同じ位置に立っている。というよりも、おそらくイエスが座っており婦人が立っていたと思われるので、イエスは婦人を見上げる形になっていたのではないかと想像する。「下からの目線」であったからこそ、逆に「私がどういう人間なのかわかったら、そんな口の利き方をしないだろうね」(Jh.4:10)などという「偉そうな発言」が出来たのであろう。ここでの対話を読むときに、この「目線」の問題を無視してはならない。そうでないと、偉そうな宗教家のお説教になってしまう。教会ではそんな説教ばかりではないか。ここでのイエスは婦人に対して水を汲むものがないという弱い立場と、全く同じように、婦人は「私(イエス)の水」を飲めないという弱い立場とが対比され、その上で、あんたは私に「あんたの水」を飲ませてくれないような言い方をするが、私はあんたに喜んで飲ませるという。ここがこの対話の面白いところである。婦人だって黙ってはいない。何しろ対等な「言葉のレスリング」なのだから、婦人の方も知っているいろいろな情報を持ち出して「私(婦人)の水」の有り難さを強調する。イエスは婦人の話を聞いて「ほほーっ。あんたもなかなか言うね」と感心してみせる。もっとも、この言葉は私の加筆ではあるが。ここでのイエスのセリフがイエスの反論である。このセリフを聞いて、婦人の方も負けじと「ほほーっ。それは確かに便利だね」と答える。注意深く読むと、これはもう反論ではない。「その水を分けてください」(Jh.4:15)という願いになっている。次のイエスのセリフと婦人のセリフは私の加筆。「ここにあんたの連れ合いを連れていらっしゃい」(Jh.4:16)。
ここでイエス特有の「異能」が働く。(参照:巻1でイエスが初めてペトロと出会った時の場面、およびナタナエルとの出会いの場面)これは通常、イエスの異能とは言われてはいないが、私はこれは重要なイエスのカリスマ性だと思う。イエスは婦人の正体を見破っていた。これで婦人はイエスがただ者ではないと思う。著者が 「ニコデモとの対話」と「サマリアの婦人との対話」とをセットにして二つ並べたた理由はここにある。共通のテーマは「宗教」である。ここで婦人が唐突に提出した話題はサマリア人とユダヤ人とが対立している根本的問題は何か。過去の歴史問題ではなく現在の問題である。しかもそれは礼拝に関する疑問。まさか片田舎のサマリアの婦人からこのような種類の問題が提出されるとは驚きである。「私どもサマリア人は遠い先祖の時代から代々、このゲリジム山で礼拝を守ってきましたが、あなたがたユダヤ人はエルサレムでの礼拝こそ本物で、それ以外の礼拝は偽物だと言っていますよね。それは一体どういうことなのでしょうね」(Jh.4:20)。疑問は単純明快で説明は不要であろう。過去の歴史的事情はいろいろ解説されるが、現実はそうなっている。同じ神ヤハウェを礼拝しているはずなのに、別々のところで礼拝し、それぞれが自分のところが正統性があると主張している。何か、おかしくないか、とサマリアの婦人はユダヤ人の偉い先生と思われる人物に問いかけている。婦人はいつかはこの疑問に答えてくれる人の登場を待っていた。この単純で明解な疑問にイエスも単純明快に答える。答えざるを得ないであろう。その問いに「婦人よ、わたしを信じなさい」とイエスは答えた。ギリシャ語原文ではこれがイエスの答えの冒頭である。しかし、これでは答えにならない。何も説明なしに「私を信じなさい」といわれても、何を信じろというのか。おそらくイエスは彼女に向かってイエス自身の礼拝観を単純明快に語ったであろう。「ご婦人、中々良い質問ですね。私はその議論そのものが無益なものだと思っているんです。そのうちに、あなたたちも、私たちも、ゲリジム山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時代が必ず来ますよ」(Jh.4:21)。この答えは驚異的である。こんな答えを聞いたこともない。その上で、イエスは婦人にいう。「私を信じなさい。実はもう既にその時が始まっているのですよ。大切なのことは、どこで礼拝するかということではなくて、礼拝する人間が霊と真をもって礼拝することなんですよ。父が求めておられるのは、こういう礼拝なのです。神は霊なのです。だから神を礼拝する者も、霊と真をもって礼拝しなければなりません」(Jh.4:21,23~24)。22節はあまりにも露骨なユダヤ主義的な教会的編集者の挿入句であろう。
非常に分かりやすいではないか。これこそがイエスの答えであった。そして、この答えはイエスとニコデモとの中途半端に終わった対話の結論でもある。神殿の本質は建物としての神殿にあるのではなく、そこで「霊と真をもって礼拝すること」(Jn.4:24)にある。これは言葉としては簡単であるが、その内容とすることは非常に難しい。「神が霊である」とはどういうことか。あるいは「霊である神」とはどういう意味か。「霊と真を持って礼拝する」とは何か。ヨハネ福音書全体はこの言葉の解説であるさえと言える。
ここで注目すべきことは、「風」と「霊」とを区別しない著者が「神は霊である」と言った場合、「神は風である」と言いうるのだろうかという問題がある。

(d) 著者は「霊」をどのように理解しているのか
そこで、少なくともこの著者がこの箇所以前の部分で「霊」についてどういうことを言っているのか、検討しておきたい。
最初に「霊」が出てくるのは洗礼者ヨハネが、イエスのことを証言する場面である。
「私に水で洗礼を授けるようにとお命じになられた方が、私にこう言われたのです。その人の上に霊(プニューマ)が下って来て、そこに留まるのを見たら、その人が聖霊で(エン プニューマティ ハギオイ)洗礼を施す人だ、と。そして私ははっきりと見たのです。この人の上に、天から霊が鳩のように下って来るのを見たのです」(Jh.1:32~33)。
ヨハネ福音書の著者は、序詞「ロゴスの賛歌」において、洗礼者ヨハネは「光」の証言者として神の元から派遣されたという。そしてJn.1:32でヨハネの証言が語られる。そしてヨハネ福音書で「ヨハネの証言」が記されているのはこの箇所だけである。洗礼者ヨハネはこのためにのみ存在している。洗礼者ヨハネは神から予め聞かされていたことをイエスにおいて実際に見たと証言する。それがイエスの上に「霊」が下り、留まるという出来事を見た。この経験のゆえに、イエスが施す洗礼は「聖霊の洗礼」だという。ヨハネは自分の経験を「霊」の経験とは言わない。自分が行っている洗礼は水によるという。この「霊」を「風」に置き換えることは出来ない。ここでの「霊」とは神からの働きかけである。
次に「霊」が出てくる場面は、ニコデモへのイエスの発言である。
「じゃ、言い直しましょう。はっきり言って、誰でも霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉体から生まれたものはどこまでも肉体です。同じように、霊から生まれたものは霊なんです。人間は新たらしく生まれなければならないと言った私の言葉にそれほど驚くこともないでしょう。むしろ当たり前のことです。霊はごく自然にどこにでも吹いています。あなたも私も霊の吹く音を聞いています。しかし、それがどこから来て、どこへ行くかを知ることはできません。霊から生まれた者とはそういうものなんです」(Jh.3:5~8)。
「新しく生まれる」ということの言い換えとして「霊から生まれる」という言葉が用いられている。つまり、ここに「生まれたままの人間」と「霊によって生まれた新しい人間」とが対比されている。ここでの霊とは人間が経験する霊である。これがおそらくイエスが授ける洗礼は「聖霊による」というのと同じ事柄を指しているのであろう。ここでは「霊」と「風」とが同じ単語を共有していることによって説明されている。つまり吹いている風をすべての人が経験できるように、霊もすべての人間が経験できることである。
そして次に出てくる場面は「神は霊である」(Jh.4:24)に直結する「(真に)礼拝する人間が霊と真をもって(父を)礼拝する(時が来る)」(Jh.4:23)というイエスの言葉である。ここでの「霊と真をもって」という言葉は礼拝するにかかる副詞句で礼拝の仕方を意味している。もっとも、「仕方」といっても、その内容は「霊と真をもって」であるから、外面的形式的なものを意味しない。要するに礼拝する側の内面の事柄である。これを受けて「神は霊である」という言葉が導き出される。結論を述べると、この場合の「神は霊である」というのは、神の本性(本質)というよりは、礼拝する人間側からの神の姿を意味する。もう一歩進めるならば、神は「形なき形」であることを意味している。従って礼拝する者も「形なき形」で礼拝する。「ゲリジム山でもない、エルサレムでもない所」で礼拝するということは、神殿と神殿で行われる宗教儀式のすべての否定に通じる。
そこで、「霊」と並んで用いられている「真(アレーテース)」とは何かということにも触れておこう。この「真」の基本的概念は「真理」であるが、人間の行為としての「真理もって」というのも、言葉として落ち着きが悪い。その場合は「真実に」とか「誠意を持って」ということであろう。その意味では「霊と真を持って礼拝する」というのは、形にとらわれず、「誠をもって」礼拝するという意味である。このことは当時の社会においては画期的な教えであり、サマリアの婦人もこの点でイエスを信じたのであろう。

原本ヨハネ福音書研究巻2(下)に続く

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