ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:大斎節第2主日(2019.3.17)

2019-03-15 12:58:59 | 説教
断想:大斎節第2主日(2019.3.17)

自分の道  ルカ13:(22~30),31~35

<テキスト>
31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
32 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。
33 だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。
34 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
35 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

<以上>

1. 資料の分析
本日のテキストは13:22~35であるが、22節から30節は括弧の中にある。この部分が読まれる理由は22節の「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」という言葉に注目させたいからであろう。つまり31節から35節までを取り上げる際に、この記事は「エルサレムへの旅」の途上にあるということを確認する必要がある。この箇所はイエスと弟子たちとがヘロデ・アンティパスが支配していたガリラヤ地方を通過しているときの出来事であろう。
33~35節はマルコ福音書にはなく、ほとんどそのままマタイ福音書(23:37~39)に見られるのでおそらくQ資料によるものであろう。マタイではこのテキストは単独で用いられイエスのエルサレムに対する「嘆きの言葉」となっている。ところがルカ福音書ではこの「嘆きの言葉」の前に31節から33節を付加することによってエルサレムを預言者が殺されるべき都市であるという面が強調され、嘆きというより呪いが全面に押し出されている(コンツェルマン『時の中心』226頁)。
32~33節のイエスの言葉には明らかに矛盾がある。前半の「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」と後半の「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」との関係が曖昧である。両方に「今日も明日も」という言葉があるが、後半は明らかにエルサレムへの旅について語っているが、前半はイエスの日常生活が述べられている。この点について、田川建三氏は「この両者の矛盾はどう解釈しても除かれないのであって、後代のテクストの改変の結果と考えざるをえない。すなわち、元来のテクストは「見よ、われは今日も明日も悪魔を追い出し、治療をなし、三日目にこれを終える。しかしそれに次ぐ日には去っていかねばならない。預言者がエルサレム以外で死ぬことはないからである」とあった。それに対して、この場面をエルサレム旅行の途次と考えた読者が、「今日も明日も」の句をもう一度挿入して「・・・・三日目に終える。しかしむしろ、今日も明日もその次の日も進んで行かねばならない」と旅行記述の意味に書き直してしまった」という。

2. 「あの狐」
ここでイエスはヘロデ(アンティパス)のことを「あの狐」と言う。もちろん、これは悪口に近いあだ名である。一般的にそういわれていたのか、あるいはイエスの命名によるのか分からない。聖書では狐という言葉は旧新約聖書を通して6回しか使われていない。新約聖書ではここのほかに「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20、ルカ9:58)だけで、旧約聖書ではネヘミヤ記3:35で「そんな石垣など、狐が登るだけで崩れてしまうだろう」と弱く軽い動物の比喩として用いられ、雅歌2:15では畑を荒らす厄介者として描かれている。また、哀歌5:18では荒涼とした荒れ地の描写において登場する。要するにユダヤ人にとって狐とは荒れた土地に住み(孤立している)、時々畑を荒らす厄介な動物のイメージで、まさに王者の逆のキャラクターである。その意味で王に対して「狐」と呼ぶことは最大の侮辱である。
この言葉は「ヘロデがあなたを殺そうとしています」というパリサイ派の人々の忠告に対する言葉である。このヘロデ王はイエス誕生の時の残虐なヘロデ王の息子で、父親に負けないほど残虐で陰湿な王であった。サロメという少女の願いを聞き入れてバプテスマのヨハネの首をはねたのは彼である。ヨハネ殺害の後、彼はそのことで「(神の、しかし実は民衆の)たたり」を恐れてびくびくしていた。その頃イエスの活動が活発になり、評判が高くなると、イエスのことを「バプテスマのヨハネの生まれ変わり」だというような噂が流れヘロデ王は非常に恐れていたという。それでヘロデはイエスに会いたいと思っていたとルカは記している(9:7~9)。従って、ここでファリサイ派の人々の言葉には疑問がある。「ヘロデ王があなたを殺そうとしているから、遠くに逃げるように」という親切そうな態度には何か裏がありそうである。あるいは「イエスに会いたい」と言っていた頃と状況が変わり、本当にイエスの殺害を企んでいたのか。今から考えると事実イエスはエルサレムでヘロデ王の策略にかかって殺された。だとするとあのファリサイ派の人々は本当にイエスのことを心配して忠告したのだろうか。ここでイエスが彼らに「ヘロデに伝えよ」といっている言葉から考えると、イエスはここに来ているファリサイ派の人々とヘロデ王とは裏でつながっていると睨んだのか。それで、わざわざ「あの狐」という激しい言葉を使ったのか。もはや現在では真相は歴史の彼方に隠れてしまっている。それにしても、「あの狐に伝えよ」という表現はかなり辛辣である。ここではイエスが実際にそういう言葉を言ったかどうかということが問題なのではなく、ルカが描くイエスとはそういうことを口にする人物であったということである。
それよりももっと興味深い言葉は「今日も明日も」という表現が2回も使われていることである。ヘロデへの伝言の中では「今日も明日も」と「三日目にすべてが終わる」がセットになっており、自分自身への決意の言葉としては「今日も明日も、その次の日も」と並べられている。この表現は明らかに、「今日」と「明日」は文字通りの意味というよりは一種のレトリック(修辞法)である。従って「三日目」も「今日と明日」に続く最後の段階を意味するのであろう。ホセア書6:2参照。

3. イエスの決意の強さ
 ファリサイ派の人々との会話も興味深いが、ここでの最も重要な言葉はエルサレムへ向かう決意を表明しているイエスの言葉である。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」(13:33)。ここで用いられている「ねばならない」という言葉は注目すべきである。普通「ねばならない」という言葉は強い義務感を示す。しかしとくにルカの文書においてはこの「ねばならない」という言葉には特別な意味がある。ルカ福音書において、この言葉が用いられている主な箇所(2:49、4:43、12:12、13:33、17:25、18:1、19:5、22:37、24:7、24:26、24:44)を拾い上げてみるだけでも、そこに込められている意味が尋常ではないことは明白である。この他にも使徒言行録にも「ねばならない」が多用されている。とくにイエスの受難および復活という救済史における中心的な出来事を語る場合に、この「ねばならない」は重要な意味を示している。イエスは神における「ねばならない」という救済史的必然性の中で生きている。先のイエスの言葉の最後の「ありえない」という言葉も同様に理解すべきであろう。「ありえない」と訳されている単語は新約聖書ではここでだけ用いられており、ほかに用例がない。
預言者はエルサレムにおいて殺される(13:33)だけではなく、エルサレムによって殺されねばならない(13:34)。ルカはイエスの死の責任をすべてユダヤ人になすりつけようとする傾向がある。
ここでは明らかにイエスという堂々たる人格とヘロデ王のびくびくしたキャラクター(9:7~9)とが対比されている。描写のレトリックとしてはヘロデ王を持ち出すことによってイエスの意志の強さが際だってくる。

4. ルカにおけるエルサレム中心主義
ルカ福音書が他の福音書と異なる最も重要な主張はエルサレム中心主義である。最も顕著な点はイエスの復活という出来事をルカはエルサレムにおける出来事として描く。その点でマルコはガリラヤでの復活にこだわる。その点でマタイはマルコの主張に従う。その点でヨハネ福音書は曖昧である。ルカ福音書ではイエスはエルサレムで死に、エルサレムで復活し、エルサレムから昇天し、エルサレムにおいて聖霊は降臨し、教会はエルサレムで成立する。ルカ福音書はイエスの公生涯の後半をエルサレムへの旅として描く(9:51、53、13:22、17:11、18:31、19:11、28、19:41)。ルカのこのこだわりはどこに根拠があるのだろうか。その根拠を旧約聖書にもまた新約聖書にも見いだすことは困難である。むしろわたしたちが知っている原始教会の歴史はルカによることが決定的である。わたしはルカがエルサレムにこだわる根拠はルカ福音書13:34~35に見られるイエスの言葉によると考える。その意味ではこの言葉はルカが受け取ったイエスの言葉にほかならない。逆に言うと、イエス自身がエルサレムにおける死にこだわったとルカは信じている。その根拠となるのがこの言葉である。その意味ではルカはイエスの伝承された言葉に非常にこだわっている。

5. イエスの言葉に対するルカの姿勢
ルカがイエスの言葉にこだわっているのはエルサレム中心主義だけではない。E.シュヴァイツァーの『ルカによる資料使用の問題』によると、マルコやQを基にして、ルカとの相異を識別できる部分を比較すると、ルカがいかにマルコやQにおけるイエスの『言葉』を忠実に再現しているかということが明らかであるという(三好迪『旅空に歩むイエス』、33頁)。つまり非ユダヤ人であるルカにとって伝承されたイエスの言葉は旧約聖書以上に権威がある。その意味では、ルカの神学は伝承されたイエスの言葉に基づいて形成されたと言っても言いすぎではないであろう。

6. 「わたしの道」
イエスが私たちのイメージを破る出来事が2度ある。一つは、イエスが十字架上での死を予告したとき、ペトロは「そんなことはさせません」と元気のいい応答に対して、「サタン」と叱責されたとき(マタイ16:23)と、もう一つがここである。いずれも共通することは、イエスの道をさえぎる出来事に対してである。イエスの道ははっきりしている。エルサレムに行って、そこで十字架にはりつけにされて死ぬという道である。この道をさえぎるものは、敵であれ、弟子であれ容赦しない。この厳しい決意、それがここで明確に語られる。「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」(33節)。まさに「ゴーイング マイウェイ」である。殺されることを恐れて何ができる。ただ、わたしは自分に定められている道をひたすら進むのみである。
ここには、私たちの理解不能な色々なことが述べられている。詳細について一つ一つ取り上げて論じても理解できない。しかし、私たちがここから読み取らねばならない重要なポイントは、このイエスの決意である。この点をはずしたら、このテキストの主旨がわからなくなるだけではなく、イエスの生涯も、十字架も復活も、キリスト教会もすべて無意味になってしまう。

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