ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第6主日の旧約聖書

2017-02-10 11:09:15 | 説教
断想:顕現後第6主日の旧約聖書(2017.02.12)

やれば出来る(シラ15:11~20)

<テキスト>
11 「わたしが罪を犯したのは主のせいだ」と言うな。主が、ご自分の嫌うことをなさるはずがない。
12 「主がわたしを迷わせたのだ」と言うな。主は罪人には用がないのだから。
13 主は忌まわしいことをすべて憎まれる。それらは主を畏れる人にも好ましくない。
14 主が初めに人間を造られたとき、自分で判断する力をお与えになった。
15 その意志さえあれば、お前は掟を守り、しかも快く忠実にそれを行うことができる。
16 主はお前の前に火と水とを置かれた。手を差し伸べて、欲しい方を取ればよい。
17 人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が、彼に与えられる。
18 主の知恵は豊かであり、主の力は強く、すべてを見通される。
19 主は、御自分を畏れる人たちに目を注がれる。人間の行いはすべて主に知られている。
20 主は、不信仰であれとは、だれにも命じたことはなく、罪を犯すことを許されたこともなかった。

1.旧約聖書続編について
いろいろな歴史的事情により、ともかくカトリック教会における正典聖書とプロテスタントのそれとは違う。これを説明し始めると長い正典形成史を論じなければならなくなるので、説明を省略する。
新共同訳で発行されるまでは、そのことはほとんど無視されてきたことであるが、カトリック教会とプロテスタント諸教会とが共同して日本語の聖書を出版しようと企画して初めてこれが大きな問題となってきた。
プロテスタント諸教会が手にしていた正典聖書は旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合わせて66巻と決まっていた。カトリック教会では新約聖書は同じ27巻であるが、39巻の旧約聖書にトビト記、ユディト記、マカバイ記1、マカバイ記2、知恵の書、シラ書、バルク書の7書を加え、旧約聖書46巻、新約聖書27巻、合わせて73巻である。その他ダニエル書等には補遺もあるが、ともかくこのずれをどうするのかということで、解決されたのが「旧約聖書続編」という扱いである。これら続編は一口で言うと、ヘブライ語原典が欠けており、初めからギリシャ語で書かれた文書であるとされる。プロテスタント教会が採用したのはユダヤ教の聖典聖書である。(新共同訳聖書付録の「聖書について」の項で詳しく解説されている)
聖公会では古来、この7書を正典に準ずる「アポクリファ(旧約聖書外典)」として位置づけ、独自に翻訳出版され、礼拝等においても読まれている。この日の旧約聖書日課として取り上げられているシラ書は旧約聖書続編7書の一つである。
ちなみに、主日日課の旧約聖書で続編が読まれるのは、A年では顕現後第6主日(特定1)でシラ書15:11~20、特定11で知恵の書12:13,16~19、特定19でシラ書27:30~28:7、B年では特定20で知恵の書1:16~2:1だけ、C年では降臨節第2主日にバルク書5:1~9と特定17でシラ書10:12~16で3年間で6回だけである。7書のうちシラ書と知恵の書、バルク書の3文書だけで4文書は取り上げられていない。

2.シラ書について
シラ書は聖書では珍しく「翻訳者の序言」がある。そこに本書が書かれた事情が書かれている。著者、つまり翻訳者は50:27に自ら「シラ・エレアザルの子、エルサレムに住むイエスス」であると名乗っている。こう紹介されても名前以外のことは何も分からない。面白いのは名が「イエスス」ということで、プロテスタント的にいうと「イエス」である。なんとややこしいことか。まぁそれは仕方がない。なんと言っても「イエス」という名はありふれた名前だからである。シラ・エレアザルの子ということで昔から「ベン・シラ」と呼ばれてきた。日本聖公会から出された『アポクリファ』では、この書名を『ベン・シラの知恵』と呼んでいた。ちなみに続編の『知恵の書』は「ソロモンの知恵」であった。
このベン・シラはいわゆる聖書学者であったらしい。このベン・シラが研究の成果を書き残していた。そこに書き残されていた「教訓と知恵」は「律法に適った生活をする上で非常に有益だと考えた孫が祖父イエススが書いたヘブライ語の文書をギリシャ語に翻訳したのが、『シラ書』である。「そこで読者にお願いする。素直な心でこの書物を拝読してほしい。我々は、懸命に努力したのであるが、上手に翻訳されていない語句もあると思われるので、そのような箇所についてはどうかお許し願いたい。というのは、元来ヘブライ語で書かれているものを他の原語に翻訳すると、それは同じ意味合いをおもたなくなってしまうからである」(序15~22)。このことは何もヘブライ語に限らない翻訳というものの宿命みたいなものである。
ともかく、これがシラ書である。文学類型としてはいわゆる古代ユダヤの知恵文学であり、箴言やコヘレトの言葉と共通する部分が多い。
ベン・シラは紀元前240年頃、無償で聖書の私塾のようなものを開いて若者たちを教育していたと思われる(51:22~25)。シラ書はその私塾におけるテキストブックであったと思われる。それがヘブライ語で書かれたということは興味深い。いわゆる旧約聖書のギリシャ語訳(70人訳等)が出されたことを思うと、当時の言語事情がうかがえる。そのテキストをベン・シラの孫、つまり2世代後(BC180)にギリシャ語に訳しているということは、この間にヘブライ語を読める人がかなり減ったのであろう。ちなみに、この頃、いろいろなところでヘブライ語聖書のギリシャ語訳が出されている。そのうちのもっとも信頼できる一つが イエスやパウロ等キリスト教とが正典として読んだ、旧約聖書で、逆にユダヤ教ではそれ以外のギリシャ語訳聖書を正典としたのである。

3.今日の日課
シラ書は膨大である。序文を除いて本文50章付録としてベン・シラの祈り全部で51章ある。しかも内容の密度が濃い。かなり長期間にわたって書き上げたものであろう。全体は2部に分けられ、第1部は格言集(1:1~42:14)、第2部は神の偉大さ(42:15~50:29)である。第1部はさらに細かく、
1.知恵の本性(1:1~16:23)、
2.神とその被造物(16:24~23:27)、
3.知恵と律法(24:1~32:13)、
4.社会と道徳(32:14~42:14)
の4つの部分に分けられている。本日の日課はその最初の部分「知恵の本性」にふくまれ、フランシスコ会訳では「人間の自由」というサブタイトルが付いている。
この部分は非常に明白であり、解説の必要はないであろう。ただ一点だけ拾い上げて考えたい。
「主が初めに人間を造られたとき、自分で判断する力をお与えになった」(14節)。これは新共同訳。カトリックだけのフランシスコ会訳では「主ご自身が初めに人間を造り、彼の手に判断を任せられた」。教文館発行の聖書外典偽典の村岡崇光訳「彼ははじめに人間を造られたとき、判断は彼(人間)の手に任せられた」。聖公会の『アポクリファ』はユニークで「初めに人を造りたまいしは主にして、これを人の性(さが)の力にゆだねたまえり」。村岡さんの解説によると、直訳では「彼を彼の本性の手にまかせられた」とある。フランシスコ会訳には「人間は悪(悪魔)と善(神)のいずれかを得らばなくてはならない」と解説している。いろいろ解説はあるが、要するに人間は神によって創造されたときに、自分の行為については自分で判断することができるように造られているということ、つまり意志の自由がある。その点、人間以外の被造物は選択の余地がないいわば必然の世界に生きている。
しかし、そこで問題が発生する。人間の自由は本当に自由なのか。例えば、16節「主はお前の前に火と水とを置かれた。手を差し伸べて、欲しい方を取ればよい」。なるほど、これはその時の必要に応じて、火を取り上げたり、水を使うことができる。これが人間の自由なのか。こんなことは自由ではない。そのときの必要に応じているだけで、必要という必然に縛られている。さらにおかしいのは17節だ。「人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が、彼に与えられる」。確かに死にたい人は死を選べるし、死にたくない時には生を選ぶことができる。本当にそうだろうか、死にたくなくても死ぬし、生きたいと願っていても死ぬ。そこには選べといわれても選ぶことなど出来はしない。その意味では人間に委ねられている自由には条件と限界とがある。ここで問題になっているのは善と悪である。善と悪とが目の前に置かれたら、余程の変人でない限り、誰だって善を選ぶに決まっている。そこには少しも自由選択の余地はない。善と悪とが明瞭に認識されているとき、それを選んだ結果については個人がその責任を負わなければならないことは明確である。もちろん、ここで著者は創世記3章の物語を前提にして論じている。エヴァは罪を罪と知っていて禁を犯した。ただ、そのときその結果の重大性を知らなかった。いや、頭では知ってはたが、それがどういうことなのか知らなかった。その果物の美味しそうな色と香りとの誘惑に負けたのである。
では、ベン・シラの教えはバカらしいことなのだろうか。実際に人間の現実を見るときに、知らずに罪を犯す者もいれば、知っていて罪を犯すものもいるし、善よりも悪を好むものもいないわけではない。ベン・シラはその選択は個々人に委ねられているという。
私はこの句はそういうことを論じるために述べているのではなく次の句の前提として述べられていると読むべきであると思う。
「その意志さえあれば、お前は掟を守り、しかも快く忠実にそれを行うことができる」(15節)。
この「その意志さえあれば」という言葉のいわば、「つゆ払い」、人間を創造した神は「その意志」を人間に与えている。フランシスコ会訳は明瞭にこう訳している。「お前が欲するなら、掟を守ることが出来る。これを忠実に守ることは、お前の決定するところである」。村岡訳も少しぎこちないが、「欲するなら、きみは誡律(いましめ)を守り、(彼の)の嘉(よみ)されるところを行って(彼に対する)信実を果たせばいい」。
要するに、律法というものは、その人の意志で実行できるものだ、という主張である。パウロの様に律法を守ることはできないという主張に対する反対意見である。こういうことをわざわざ言葉にするということは、それに反対する意見もあったことを示している。しかも、その力は神から与えられている、とベン・シラは主張する。
その意味ではマタイ福音書やヤコブの手紙等のの先駆的な思想である。というより、それがユダヤ教の正統派の主張だと思う。

最新の画像もっと見る