2006年 降誕日説教 (2006.12.25)
<解題>神の道化師 ルカ2:10
1. 「神の道化師」(トミー・デ・パオラ作、ゆあさ ふみえ訳)のあらすじ
クリスマスイブ礼拝では、「神の道化師」(トミー・デ・パオラ作、ゆあさ ふみえ訳)を「語り」という形式で話した。あらすじを紹介する。
主人公のジョバンニは孤児で、一文無しである。しかし、ジョバンニは、なんでも空中に投げ上げてまわすことができるという得意技がある。その特技のおかげで、お腹も満たすことができ、旅芸人の一座に加えられ、やがてイタリア中に広く知れ渡るようになる。しかし、そんな少年だったジョバンニも、年をとり芸の腕もおとろえてついに芸の見せ場で、決定的な失敗をする。そんなジョバンニを、人々はののしり、野菜や石を投げつける。逃げるようにして町を出たジョバンニは道化の化粧を落とし、芸をきっぱりあきらめる。そして、再び、子どもの頃のように、パンをめぐんでもらい、よその家の軒先で寝るという生活に戻り、故郷のソレントへ帰ろうと決心するのです。
クリスマス・イヴの日、ある教会にもぐりこんで眠ってしまったジョバンニは、捧げものを捧げる人々の長い行列を目にし、夢かと驚く。やがて教会は静まり、マリアさまとイエスさまの像が明るくともされているだけになる。そのとき、ジョバンニも何か捧げものをしたいと願うが、捧げるものが何もない。しかし、見上げた幼子イエスの顔が悲しそうなのを見て、ジョバンニは、道化の化粧をし、自分にできるたった一つのささげものをはじめます。心からの演技・・・そして奇跡がおこる。最後の結末は省略する。
2. 聖フランチェスコ
さて、実は、昨晩の「語り」では一部省略した。それは、その部分が、重要ではなかったからではない。むしろ、再話者パオラ女史にとっては非常に重要で、むしろそこにこの民話を取り上げている理由があるのではなかろうかと思われる。しかし、これはわたしの独断であるが、この民話にはもともとこの部分は含まれていなかったのではなかろうかと思う。というのは、その部分なしでもこの物語は十分に魅力的である。
ある日、旅の途中で、ジョバンニは木陰に腰をおろして、パンとチーズのお昼ごはんを食べていました。そこへ 2人の修道士たちが通りかかって、頼みました。
「そこの道化のお方、神さまの愛と聖フランチェスコさまのお恵に免じて、わたしらに食べ物を分けてくださらんか」。「まあ 、おすわりよ。御前さん方。食べる物はタップリあるからさ」と、ジョバンニは言いました。一緒に食べながら、2人の修道士たちは、ジョバンニに、自分たちが町から町へと食べ物を恵んで貰いながら、神さまの教えをひろめて歩いてきた様子を話して聞かせました。「わたしたちの教会をつくりたもうた聖フランチェスコさまは、あらゆるものは神さまの栄光をほめたたえていると、仰います。あなたの芸だって、 そうなのですよ」と、ひとりの修道士が言いました。
「そりゃ、あんた方のようなお方にとっちゃ、その通りでしょうが、わたしは、ただ、お客さん方に笑って、拍手していただくために、やってるだけでさ」。ジョバンニは答えました。「同じことなのですよ、それは」と、修道士たちは言いました。「あなたが、人々に幸せを与えるなら、それは神さまをほめたたえているのと同じことです」。「あんたがたが、そういいなさるなら、そうでしょうよ」と、ジョバンニは笑いながら言いました。
「ところで、わたしは、もう次の町出かけなくちゃならんのでさ。それじゃ、ごめんなすって、お坊さん方。ご幸運をお祈りしますよ」。
3. 同じこと
神の道化師の物語の中でのこの部分のエピソードについては、多くのことを語らなければならないと思う。何故、聖フランチェスコなのか。修道院とは何か。
本日は時間との関係もあり、ただ一点だけに絞って考えたい。それは、ここで修道士たちが道化師であるジョバンニに向かって、「同じことなんですよ」と言う。それに対して、ジョバンニはけげんな顔をしたのだろう。修道士たちは説明を加える。「あなたが、人々に幸せを与えるなら、それは神さまをほめたたえているのと同じことです」。何が同じだというのだろう。もたもたした議論を簡潔にすると、ジョバンニがしていることと、修道士たちがしていることとが同じことだ、と言うのである。修道士たちが「町から町へと食べ物を恵んで貰いながら、神さまの教えをひろめて歩いてきた」ことと、ジョバンニが「ただ、お客さん方に笑って、拍手していただくために、やってきた」こととが同じことだという。
これは、すごい思想である。聖職者の生活と使命とが、道化師と同じだという。「道化師」などという普段使い慣れていない言葉でいうから、事柄の本質が見えてこない。普通の言葉でいうと、司祭とお笑いタレントとは同じ仕事である、という意味であろう。人々に、喜び、つまり笑わせる仕事である。聖フランチェスコの時代は、ローマ法王・イノセント3世の時代でもある。彼は長いカトリックの歴史の中でも最高の権力と権威を実現した有能な教皇として知られ、その絶大な栄耀栄華ぶりから、『教皇は太陽、皇帝は月』という言葉さえ生まれた。この教皇は自分は豪華な生活と贅沢な貴族趣味にも関わらず、聖フランチェスコを非常に尊敬し、フランチェスコ修道会をキリスト教会の新しき血、新しき潮流として歓迎し、『法王の祝福』という名誉さえ授けた。
この教皇の絶大な権力を象徴する出来事が、あの有名な神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世が雪の中ひたすら法王に破門取り下げを願って謝罪し続けた「カノッサの屈辱」という事件である。この時代に、聖職者の仕事と道化師の仕事が同じである、という聖フランチェスコの思想はワンダーである。
この物語のクライマックスにおいて、ジョバンニは母マリアに向かって、言う。「あなたのお子さんは、こんなに、どっさり、すばらしい贈り物をお受けになっても、まだ、ひどく悲しそうに見えますぜ。そうだ、ちよいと待ってくださいよ。わたしは人を喜ばせるのは、お手のものだったんでさ」。そのときの幼子イエスの顔について、こう語られている。「マリアさまの腕に抱かれた幼いイエスさまは、きまじめで、厳かな顔をしていました」。この言葉の中に、聖職者の仕事に対する痛烈なアイロニーが示されている。それに対して、ジョバンニの芸は、幼子イエスを「ニッコリ微笑ませた」のである。道化師ジョバンニの勝ちである。
この物語の中では、この教えは聖フランチェスコの教えとして、こう語られている。「あなたが人々に幸せを与えるなら、それは神さまをほめたたえているのと同じことです」。
4. ジョバンニという名前
この物語にはもう「同じこと」が隠されている。実は、聖フランチェスコの本名は、「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Bernardone」である。ジョバンニこそ聖フランチェスコの本名である。この暗号は、誰から出たものであるのか分からない。しかし、聖フランチェスコの生き方と姿勢とが「神の道化師」という物語に凝縮されている。
<解題>神の道化師 ルカ2:10
1. 「神の道化師」(トミー・デ・パオラ作、ゆあさ ふみえ訳)のあらすじ
クリスマスイブ礼拝では、「神の道化師」(トミー・デ・パオラ作、ゆあさ ふみえ訳)を「語り」という形式で話した。あらすじを紹介する。
主人公のジョバンニは孤児で、一文無しである。しかし、ジョバンニは、なんでも空中に投げ上げてまわすことができるという得意技がある。その特技のおかげで、お腹も満たすことができ、旅芸人の一座に加えられ、やがてイタリア中に広く知れ渡るようになる。しかし、そんな少年だったジョバンニも、年をとり芸の腕もおとろえてついに芸の見せ場で、決定的な失敗をする。そんなジョバンニを、人々はののしり、野菜や石を投げつける。逃げるようにして町を出たジョバンニは道化の化粧を落とし、芸をきっぱりあきらめる。そして、再び、子どもの頃のように、パンをめぐんでもらい、よその家の軒先で寝るという生活に戻り、故郷のソレントへ帰ろうと決心するのです。
クリスマス・イヴの日、ある教会にもぐりこんで眠ってしまったジョバンニは、捧げものを捧げる人々の長い行列を目にし、夢かと驚く。やがて教会は静まり、マリアさまとイエスさまの像が明るくともされているだけになる。そのとき、ジョバンニも何か捧げものをしたいと願うが、捧げるものが何もない。しかし、見上げた幼子イエスの顔が悲しそうなのを見て、ジョバンニは、道化の化粧をし、自分にできるたった一つのささげものをはじめます。心からの演技・・・そして奇跡がおこる。最後の結末は省略する。
2. 聖フランチェスコ
さて、実は、昨晩の「語り」では一部省略した。それは、その部分が、重要ではなかったからではない。むしろ、再話者パオラ女史にとっては非常に重要で、むしろそこにこの民話を取り上げている理由があるのではなかろうかと思われる。しかし、これはわたしの独断であるが、この民話にはもともとこの部分は含まれていなかったのではなかろうかと思う。というのは、その部分なしでもこの物語は十分に魅力的である。
ある日、旅の途中で、ジョバンニは木陰に腰をおろして、パンとチーズのお昼ごはんを食べていました。そこへ 2人の修道士たちが通りかかって、頼みました。
「そこの道化のお方、神さまの愛と聖フランチェスコさまのお恵に免じて、わたしらに食べ物を分けてくださらんか」。「まあ 、おすわりよ。御前さん方。食べる物はタップリあるからさ」と、ジョバンニは言いました。一緒に食べながら、2人の修道士たちは、ジョバンニに、自分たちが町から町へと食べ物を恵んで貰いながら、神さまの教えをひろめて歩いてきた様子を話して聞かせました。「わたしたちの教会をつくりたもうた聖フランチェスコさまは、あらゆるものは神さまの栄光をほめたたえていると、仰います。あなたの芸だって、 そうなのですよ」と、ひとりの修道士が言いました。
「そりゃ、あんた方のようなお方にとっちゃ、その通りでしょうが、わたしは、ただ、お客さん方に笑って、拍手していただくために、やってるだけでさ」。ジョバンニは答えました。「同じことなのですよ、それは」と、修道士たちは言いました。「あなたが、人々に幸せを与えるなら、それは神さまをほめたたえているのと同じことです」。「あんたがたが、そういいなさるなら、そうでしょうよ」と、ジョバンニは笑いながら言いました。
「ところで、わたしは、もう次の町出かけなくちゃならんのでさ。それじゃ、ごめんなすって、お坊さん方。ご幸運をお祈りしますよ」。
3. 同じこと
神の道化師の物語の中でのこの部分のエピソードについては、多くのことを語らなければならないと思う。何故、聖フランチェスコなのか。修道院とは何か。
本日は時間との関係もあり、ただ一点だけに絞って考えたい。それは、ここで修道士たちが道化師であるジョバンニに向かって、「同じことなんですよ」と言う。それに対して、ジョバンニはけげんな顔をしたのだろう。修道士たちは説明を加える。「あなたが、人々に幸せを与えるなら、それは神さまをほめたたえているのと同じことです」。何が同じだというのだろう。もたもたした議論を簡潔にすると、ジョバンニがしていることと、修道士たちがしていることとが同じことだ、と言うのである。修道士たちが「町から町へと食べ物を恵んで貰いながら、神さまの教えをひろめて歩いてきた」ことと、ジョバンニが「ただ、お客さん方に笑って、拍手していただくために、やってきた」こととが同じことだという。
これは、すごい思想である。聖職者の生活と使命とが、道化師と同じだという。「道化師」などという普段使い慣れていない言葉でいうから、事柄の本質が見えてこない。普通の言葉でいうと、司祭とお笑いタレントとは同じ仕事である、という意味であろう。人々に、喜び、つまり笑わせる仕事である。聖フランチェスコの時代は、ローマ法王・イノセント3世の時代でもある。彼は長いカトリックの歴史の中でも最高の権力と権威を実現した有能な教皇として知られ、その絶大な栄耀栄華ぶりから、『教皇は太陽、皇帝は月』という言葉さえ生まれた。この教皇は自分は豪華な生活と贅沢な貴族趣味にも関わらず、聖フランチェスコを非常に尊敬し、フランチェスコ修道会をキリスト教会の新しき血、新しき潮流として歓迎し、『法王の祝福』という名誉さえ授けた。
この教皇の絶大な権力を象徴する出来事が、あの有名な神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世が雪の中ひたすら法王に破門取り下げを願って謝罪し続けた「カノッサの屈辱」という事件である。この時代に、聖職者の仕事と道化師の仕事が同じである、という聖フランチェスコの思想はワンダーである。
この物語のクライマックスにおいて、ジョバンニは母マリアに向かって、言う。「あなたのお子さんは、こんなに、どっさり、すばらしい贈り物をお受けになっても、まだ、ひどく悲しそうに見えますぜ。そうだ、ちよいと待ってくださいよ。わたしは人を喜ばせるのは、お手のものだったんでさ」。そのときの幼子イエスの顔について、こう語られている。「マリアさまの腕に抱かれた幼いイエスさまは、きまじめで、厳かな顔をしていました」。この言葉の中に、聖職者の仕事に対する痛烈なアイロニーが示されている。それに対して、ジョバンニの芸は、幼子イエスを「ニッコリ微笑ませた」のである。道化師ジョバンニの勝ちである。
この物語の中では、この教えは聖フランチェスコの教えとして、こう語られている。「あなたが人々に幸せを与えるなら、それは神さまをほめたたえているのと同じことです」。
4. ジョバンニという名前
この物語にはもう「同じこと」が隠されている。実は、聖フランチェスコの本名は、「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Bernardone」である。ジョバンニこそ聖フランチェスコの本名である。この暗号は、誰から出たものであるのか分からない。しかし、聖フランチェスコの生き方と姿勢とが「神の道化師」という物語に凝縮されている。