ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ニコライ大主教が残したもの(京都教区教役者研修会)

2015-10-05 15:18:14 | 説教
私は1979年3月に日本クリスチャン・アカデミー主事を退職し、同年4月から日本聖公会の伝道師として四日市聖アンデレ教会に着任し、同年11月に執事に按手されました。そして1981年2月に司祭に按手されました。当時、京都教区では、その年に司祭になった者に教役者修養会の聖餐式で説教をさせるという習慣がありました。いわば新米司祭を先輩聖職たちが寄ってたかって「値踏み」をするという「悪い」趣向でした。それで、私は少々、先輩たちの思いをはぐらかすために、聖書テキストからではない、変化球を投げることにして、次のような「説教」を致しました。幸か、不幸か、ほとんどの教役者たちはニコライ大主教のことも、ハリストス教会も、まして山下りんのことなど知らないので、キョトンとしていました。私自身としては、ニコライ大主教の生き様こそ、すべての教役者が学ばなければならない重要なメッセージだと真面目に思っていました。そして、それは今でもそう思っています。この度、一寸したことで、これを取り出し、読み直しましたので、記録のために、ブログにアップいたしました。

1981年 京都教区教役者研修会(金沢 1981.6.24)

ニコライ大主教が残したもの

本日は、最近読みました本を紹介させていただき、説教に代えたいと思います。その本はまだ無名の作家、川又一英氏の「われら生涯の決意」(新潮社)です。この小説が取り扱っておりますことは、副題にもありますように、明治の日本にロシア正教を持ち込んだニコライ大主教と日本の最初のイコン画家、山下りんの生涯です。この二人の人物の若き日の出会いと決意、ロシア正教が日本に土着し、日本ハリストス正教会が成立するまでの出来事が筋になっております。小説としてはあまり成功しているとは思われない作品ではありますが、歴史的事実そのものがわたしたちに迫ってくるものがあります。

イコンというものと、その画家の生き方、特に山下りんの「けなげで壮絶」な生き方がもっと鮮明に画かれていたら、この小説は読み応えのあるものになったかもしれませんが、その点は残念です。

この小説では、山下りんより、ニコライ大主教と日本伝道のほうがより前面にでており、それだけに小説としての興味より、聖職者であるわたしたちにとって、その点が非常に興味があります。

ニコライ大主教は、ロシアの片田舎の下級聖職の息子であり、田舎の神学校を首席で卒業し、国費給費生として、名門ペテルブルグ神学大学に入学いたしました。そこでも頭角をあらわし、将来ペテルブルグ神学大学の教授として活躍するであろうと期待されておりました。

ある日、大学の図書館でふと手にした本により、日本のことを知り、日本に伝道したいと思い始めます。ロマ・カトリック教会やプロテスタント諸教会と異なり、当時、ロシア教会では海外伝道などということは誰も考えない状況であったとのことです。

そこに一つの偶然が重なります。ある朝、散歩をする友人を誘いに行ったところ、友人は出かけた後で、彼の机の上に無造作に一枚の文書が置かれております。何気なく目にとめて見ると、それは在日ロシア領事館付主任司祭を募る布告文書だったのです。さっそく、彼は学長に相談いたしますが、学長は「領事館付司祭では惜しい」と言って反対します。その時、ニコライ神学生は「尊師のお言葉、身に余る光栄に存じます。ですが、わたしは日本で単に領事館付司祭として終わろうと思っておりません。いまだ、ハリストスの教えを知らぬ民に福音を伝えたいのです。もし、派遣が許されますなら、わたしは修道士となって異邦の土に骨を埋める覚悟でおります」(20頁)と語ります。

ニコライが日本に来たのは、文久元年、西暦1861年6月14日で、当時日本ではキリスト教は禁じられておりました。ニコライは領事館付司祭としての職務に励みつつ、切支丹禁制の高札が降ろされる日を期して、日本人と日本文化の理解にも全精力を注ぎます。ニコライの日本研究は本格的で、日本史、儒教、仏教は勿論のこと、当時、函館に来ていた新島襄から古事記をも学んでおります。

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