どうぶつ語
全くうかつなことに、ギリシャの哲人ソクラテスがイソップ物語を知り、しかもその中の「羊と犬」の物語を友人に語っていることを、わたしは最近まで知らなかったのである。(クセノポン『ソクラテスの思い出』)要するにイソップ物語はそれ程古いということである。ところで、ソクラテスが語っている「羊と犬」の物語の冒頭に「動物がものの言えた頃」という言葉がある。イソップ物語にはこういう出だしの物語がいくつかある。このくらい昔の人たちは人間と動物とが同じ言葉で話ができたと信じることができたのだろうか。 園児たちが読んでいる絵本では動物は人間と同じ言葉を話すし、人間と動物の間でも会話が成り立つ。少しも違和感はないし、子どもたちも不思議に思わないらしい。そんな子どもたちを見ていると、わたし自身も昔は「どうぶつ語」を話せたような気がしてくる。しかし、よく考えてみると、人間は誰でも「にんげん語」を身につけるまでは「どうぶつ語」を話せたのではないだろうか。「にんげん語」が人間から「どうぶつ語」を駆逐してしまったように思う。確かに「にんげん語」は便利だし、すばらしい。しかし、それを身につける代わりに失ったものも捨てがたいものがある。「まだ」「にんげん語」が十分に発達していない幼児の言葉を理解する母親の態度からの類推であるが、「どうぶつ語」を理解するためには話し手の置かれている場所とか、表情とか身振りに対する鋭い観察力と話し手の気持ちに対する共感が求められているように思う。 「ドリトル先生シリーズ」(ヒュー・ロフティング著、井伏鱒二訳、岩波少年少女文庫全12巻)という子ども向けの本がある。原著は80年前に出版されたものである。一人の医者がひょんなことから「どうぶつ語」を身につけ、獣医になり、世界中のいろいろな動物たちからの要請に応えて世界中を旅行し、ついには月にまで旅行をするという実に奇想天外な物語で読む者を引きつける魅力がある。奇想天外ではあるが、博物学的知識にしっかりと支えられおり、小学生には「勉強にもなる」。「どうぶつ語」は人間を博物学者とする。
全くうかつなことに、ギリシャの哲人ソクラテスがイソップ物語を知り、しかもその中の「羊と犬」の物語を友人に語っていることを、わたしは最近まで知らなかったのである。(クセノポン『ソクラテスの思い出』)要するにイソップ物語はそれ程古いということである。ところで、ソクラテスが語っている「羊と犬」の物語の冒頭に「動物がものの言えた頃」という言葉がある。イソップ物語にはこういう出だしの物語がいくつかある。このくらい昔の人たちは人間と動物とが同じ言葉で話ができたと信じることができたのだろうか。 園児たちが読んでいる絵本では動物は人間と同じ言葉を話すし、人間と動物の間でも会話が成り立つ。少しも違和感はないし、子どもたちも不思議に思わないらしい。そんな子どもたちを見ていると、わたし自身も昔は「どうぶつ語」を話せたような気がしてくる。しかし、よく考えてみると、人間は誰でも「にんげん語」を身につけるまでは「どうぶつ語」を話せたのではないだろうか。「にんげん語」が人間から「どうぶつ語」を駆逐してしまったように思う。確かに「にんげん語」は便利だし、すばらしい。しかし、それを身につける代わりに失ったものも捨てがたいものがある。「まだ」「にんげん語」が十分に発達していない幼児の言葉を理解する母親の態度からの類推であるが、「どうぶつ語」を理解するためには話し手の置かれている場所とか、表情とか身振りに対する鋭い観察力と話し手の気持ちに対する共感が求められているように思う。 「ドリトル先生シリーズ」(ヒュー・ロフティング著、井伏鱒二訳、岩波少年少女文庫全12巻)という子ども向けの本がある。原著は80年前に出版されたものである。一人の医者がひょんなことから「どうぶつ語」を身につけ、獣医になり、世界中のいろいろな動物たちからの要請に応えて世界中を旅行し、ついには月にまで旅行をするという実に奇想天外な物語で読む者を引きつける魅力がある。奇想天外ではあるが、博物学的知識にしっかりと支えられおり、小学生には「勉強にもなる」。「どうぶつ語」は人間を博物学者とする。