神が宿るところ

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意富比神社(船橋大神宮)(下総国式内社・その10)

2012-12-01 23:29:50 | 神社
意富比神社(おおひじんじゃ)。通称:船橋大神宮(ふなばしだいじんぐう)。
場所:千葉県船橋市宮本5-2-1。京成電鉄本線「大神宮下」駅の東、約200m。駐車場あり。
社伝によれば、景行天皇41年(111年)、日本武尊が東征の途中で当地に到り、そのとき旱魃によって地元民が苦しんでいるのを見て天照皇大神を奉祀したところ、忽ち大雨が降った。これにより天照皇大神の霊代として神鏡を祀ったのを創建とする。その後、景行天皇が東国巡幸の折、日本武尊の事蹟を御覧になり、「意富比神社」の称号を賜ったという。「意富比」という名については諸説あって定まらないが、「大日」または「大炊」と解して、太陽あるいは稲作(農業)の神が有力とされる。
ところで、当神社が式内社「意富比神社」であることについては異論がなく、千葉県への宗教法人に係る届出でも「意富比神社」となっている。しかし、通称である「船橋大神宮」のほうが一般的で、最寄駅の京成本線「大神宮下」という名も、これに因む。「大神宮」というのは、祭神が天照皇大神であるからなのだが、ここには複雑な事情があるらしい。即ち、伝承によれば、当神社の創建は当地・湊郷であるが、後に北方約2kmの地にある船橋市夏見の台地上に移り、その後更に現在地に遷座したという。しかし、この伝承は、中世に現・船橋市南部に「夏見御厨」あるいは「船橋御厨」という「伊勢神宮」の荘園が設定され、その守護神として夏見の高台に「神明社」が勧請されたが、その後の荘園衰退によって「神明社」が式内社「意富比神社」に合祀され、両社が一体化したものと考えられている。したがって、「意富比」という神は本来、天照皇大神とは別神であったが、上記の通り「大日」にも通じることから、同一視されるようになったものといわれている。
なお、当神社の境内の小高い場所に「灯明台」がある(写真5)。江戸時代には常夜灯があり、夜間の漁船通行の目印になっていたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争の戦火により社殿とともに焼失してしまった。地元有志の寄付金により、明治13年に現在の「灯明台」が建設され、明治28年まで政府公認の私設灯台として機能した。この場所にはもともと浅間社があり、一説には「覆宮塚(おおいつか)」という円墳であるという(当神社付近に「覆宮塚」という古墳があったという記録があるが、その場所については諸説ある。)。


iタウンページ(船橋大神宮)

船橋市のHPから(灯明台)


写真1:「意富比神社(船橋大神宮)」正面鳥居(南西向き)


写真2:正面参道脇にある社号標は「延喜式内 意冨比神社」


写真3:更に進むと、「船橋大神宮」の社号標がある。


写真4:社殿前


写真5:境内にある木造3階建の灯明台(千葉県指定有形民俗文化財)


写真6:「大神宮下」交差点の西側参道の鳥居。樹木で見えないが、石段脇に「延喜式内 意冨比神宮」の社号標がある。
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