戒珠山 密厳寺 華蔵院 (かいじゅさん みつごんじ けぞういん)。
場所:茨城県ひたちなか市栄町1-1-33。茨城県道108号線(那珂湊大洗線)「湊本町」交差点から南西~西へ約850m(境内入口)。その約200m手前(東)に駐車場有り。
創立年代は、一説によれば応保3年(1163年)、寺伝では応永年間(1394~1428年)、宥尊上人の開基とされる。常陸大掾氏、江戸氏、佐竹氏と各時代の領主の庇護を受け、室町時代の文明年間(1469~1487年)には末寺・門徒寺院が合わせて40ヵ寺が創建された。江戸時代には徳川幕府より朱印地15石を受け、5千坪の境内に七堂伽藍・四塔堂・六供院があったが、元治元年(1864年)、「天狗党の乱」(「元治甲子の乱」)の兵火により、寺宝とともに全て焼失した(天狗党は、水戸城の近郊にあって、裕福な港町であった那珂湊に布陣した。幕府軍と大激戦となり、民家や社寺の大半が大きな被害を受けたという。)。明治14年、現在の堂宇が再建された。現在は真言宗智山派に属し、本尊は大日如来。
なお、当寺院は「華蔵院の猫」という民話でも有名。それは、こんな話である。昔、湊村の行商人が夜、原っぱに通りかかると、猫たちが踊っていた。猫たちが口々に「華蔵院が来ないと、拍子が揃わないな。」と言っているところへ、袈裟をつけた古猫が現れ、「院主が外出して袈裟がなく、遅くなってしまった。」と言って踊りに加わった。その後、行商人が「華蔵院」を訪れ、この話をしたので、住職が袈裟を調べてみると、その裏に猫の毛がたくさんついていた。その日以来、猫は「華蔵院」から姿を消した、という。
蛇足:猫が集まって踊っていたとか、宴会をしていたとかいう民話は全国各地にあるようだが、「華蔵院」の猫、と特定されているのは珍しいと思われる。民話(昔話)なので、色々なヴァリエーションがあるが、例えば、「原っぱ」は下総国小金原(現・千葉県松戸市小金原。直線距離で約80km離れている。)だとするものや、袈裟が湿っていたので猫の仕業とわかったとするもの、住職は笑って許したが、最後には住職の妻を噛み殺して逃げたとするものなどがあり、猫のいたずらのような話から化け猫騒動のような話まである。猫は、江戸時代中期頃までは高価な愛玩動物で、相当裕福でないと飼えなかったらしい。つまり、「華蔵院」には、それだけの財力があったということかもしれない(なお、寺院で猫を飼うのは、経典や供物を齧る鼠の駆除のためもある。)。また、全国に類話があるのは、歌舞伎や読本などの影響があって広まったようで、「原っぱ」といえば(具体的な距離を考慮せず)すぐに「小金原」(現・千葉県北西部に「小金牧」という有名な軍馬の放牧場があった。)を連想したのだろうと思われるところも、いかにも民話らしいお話ということになろう。
茨城県教育委員会のHPから(華蔵院の梵鐘)
写真1:「華蔵院」境内入口、寺号標(「戒珠山 華蔵院」)
写真2:山門
写真3:山門の上の猫
写真4:同上
写真5:本堂
写真6:仁王門。石柱は「華蔵院 破魔薬師尊」。東側(駐車場側)から入る。
写真7:金堂(薬師堂)。仁王門の正面、本堂の向かって左手前にある。この薬師如来は、「天狗党の乱」のとき庭園の池に沈められ、兵乱が治まった後に探したが泥中に紛れて見つからなかったのを、明治14年、老僧の夢に薬師如来が現れて、見つかったという。
写真8:鐘楼
写真9:梵鐘(茨城県指定文化財)。元は常陸国那珂郡上檜沢村(現・茨城県常陸大宮市)「浄因寺」(廃寺)にあったもので、南北朝時代の暦応2年(1339年)銘がある。天保年間(1830~1844年)、水戸藩の大砲鋳造のために徴収されて、那珂湊に運ばれた(那珂湊には第9代水戸藩藩主・徳川斉昭により築造された反射炉があった。当寺院の北西約400m(直線距離)のところに復元されている。)。結局、鋳潰されずに済み、明治時代に当寺院の所有となった。
写真10:八大龍王堂。港町らしく、船舶海上交通安全の鎮護神として勧請されたものという。
写真11:弁財天堂。なお、境内にはほかにも大師堂、六角堂(十一面観音堂)、庭園などがある。