シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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戦争よりもサッカーに強い国

2006年08月27日 | 歴史をひも解いて
枢軸国のヒトラー、ムッソリーニ、東条らは多くの逸話を残しています。 ムッソリーニは短躯ではげ上がり、お世辞にもカッコよくは見えません。 どんな業績を残したか、殆どの人は理解していないと思いますので、下記に簡単に引用します。
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1922年 数万人のファシスト武装隊のローマ進軍を背景に政権を握り、以後43年までの約20年間ファシスト政権が続く。  35年エチオピアを侵略、禁止されていた毒ガス兵器を使用した。 国際連盟で追及されると、「エチオピア人は文明人と認められない」というとんでもない理由で反論した。 

ヒトラーとの関係では、34年独のオーストリア併合危機の高まりに対して、ムッソリーニはブレンナー峠にイタリア軍を集結して反対意志を示したり、ヒトラーと会見した際に「あんな奴は嫌いだ」と、最初は友好的ではなかった。 しかし、エチオピア戦争を契機として、親英派の反対を退けて対独接近政策に転換。 36年スペイン内乱にも介入した。 39年独伊軍事同盟を締結し、独への従属関係を深めた。 この為ムッソリーニは、ミュンヘンっ子からイタリア大管区長 (ガウライター Gauleiter) と皮肉られた。

仏の敗北が決定的になった40年、イタリアは英仏と開戦、日独伊三国同盟を調印したが、ギリシャへの侵攻にも失敗するなど、ムッソリーニの軍事指導は振るわず、不利になった戦局を前に国民の離反は増大した。 43年連合国軍のシチリア上陸を契機として支配層内部のムッソリーニ批判が顕在化、軍部のみでなくファシスト指導者のなかでも孤立、ムッソリーニは失脚、逮捕された。

新政府は連合国に無条件降伏、幽閉中のムッソリーニは、ヒトラーの命を受けたナチス親衛隊に救出され、一時 北イタリアにナチスの支援を受けた「イタリア社会共和国」の樹立を宣言したが、45年連合国軍の進撃を避けスイスに脱出する途中、コモ湖畔の小村でレジスタンス運動のパルチザンに発見されて、銃殺された。 その死体は同行していた愛人クラレッタの死体とともに、ミラノの広場にさらされた。 その時 62歳だった (Wikipedia)。
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二千年前の地中海を制覇したローマ時代から比較すると、ファシスト時代のイタリアの軍隊は精彩を欠き、戦果は何一つありません。 暗号機エニグマを使っての試運転でもイギリスに傍受され、エニグマの暗号も解読される契機となりました。

これらの不甲斐なさが、「今度やるときはイタリア抜きでやろう」との日独の飲んべえたちの合い言葉に繋がっているようです。 けれど、サッカーは強いんですね。 イタリアへ行くと分かりますが、仕事そっちのけでおしゃべりに夢中ですし、TV 番組は開放的かつエロチックな場面が多く、ラテン的というか、人生に享楽的です。 ヴェネツィアのサン・マルコ広場などでは、夜中でも歌って踊って騒ぐ人々で溢れていました。

以上 5月20日「暗号と聖杯」22日「三兄弟の笑顔」も参照下さい/ TB をクリックすると飛びます。

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