杉並の純一郎(3)

2009年12月で68歳に!
先の戦争が一体なんだったのかを今一度勉強し、次の世代に伝えてゆきたい。

民主主義とは?小泉と小沢の違い!

2010-03-22 07:28:40 | Weblog


 私は3月16日に「参院選に臨む、保守の受け皿は?」と題して、保守の受け皿となる政党が名乗りを上げず、このままでは参院選で保守が過半数を越えると言うことが難しくなることを懸念し、参院選に勝つための保守にとっての最大公約数を書いたつもりである。
その同じ16日に産経正論では評論家西部邁氏が「国家を歯牙にかけぬ民意の堕落」の表題で、民衆政治が腐敗してゆく、堕落であると警告を発し、「これから誕生する保守の最初の仕事は、民主主義を国民政治への最大の敵と見定めること」であると結論づける。

 西部氏は最後に「腐敗していく民衆政治」として重要な説明を行っている。

<自民党を怯えさせ、また民主党を高ぶらせているものは「数の論理」である。「民主主義は多数決だ」(小沢一郎民主党幹事長)という猛々しい言葉の前で自民党は委縮している。しかし、この文句はデモクラシー(民衆政治)の腐敗の明らかな兆候なのだ。
なるほど、民衆政治は「多数参加の下での多数決制」という数の制度である。しかし、これから正がでるか邪が出るかは、「民意」なるものが優等か劣等かによる。たとえば、議会での論議が必要なのは、民意によって選ばれた多数派の政権も、フォリビリティ(可謬性つまり間違いを犯す可能性)を免れ得ないからだ。またたとえば、ほとんどすべての独裁が民意によって、換言すると民衆政治を民衆自身が否定することによって、生みだされもした。こういうものにすぎぬ民衆政治を民主主義の理念にまで昇格させたのは、自民主義にせよ社民主義にせよ、近代の理念における錯誤だらけの模型で有り流行である。
 デモクラティズム(民主主義)は民衆という多数者に「主権」ありとする。主権とは「崇高、絶対、無制限の権利」のことである。ただし、民衆が「国民」であるならば、国家の歴史も秘められている英知のことをさして、主権と言う修辞を与えることも許されよう。しかし、平成列島人のように国家のことも歯牙にもかけない単なる人民の民意に主権を見出すのは、民衆政治の堕落である。>として、上述の「民主主義を国民政治への最大の敵と見定めるべき」の結論に結び付けている。

 西部氏の主張を理解するのは何時も大変難しく、果たして正しく氏の意図を理解できているのかと疑問に思うこともある。要約すると難解になるし、説明を尽くせば冗漫になってしまう。私なりに民主主義を考えてみよう。

 我々が学んだ民主主義とは「少数者に配慮した多数者による議決」と言えよう。ならば、そこにある「少数者に配慮した」と言うことが何を意味し、どう実行するかと言うことについて、どれほど深く考えたであろうか?
 このことを考えるには理想的な民主主義とは何かを考えざるをえない。そして、理想的な民主主義とは、私には「全会一致(コンセンサス)の議決」だと信じる。現実の世界での民主主義政治と言う物は、単純多数決と全会一致の間に存在していると言えよう。そして、全会一致はあっても良いが、単純多数決は「数の論理」いや「数の横暴」であり、民意はこれを許してはならない。何故なら、単純多数決は氏の言う如く「国家の歴史に秘められた英知」を振り返ることなく「可謬性」を免れず、独裁にも至りかねない。

 最近良く話題になるのが小泉と小沢の政治手法が似ているとする見解であるが、この二つは丁寧に眺めれば全く異なる手法と言ってよかろう。
 簡単な小沢の方を取れば「国民に真実を打ち明けずに政権を奪取し、あとは民意を十分に斟酌することなく単純多数決を行使する」と言う民主独裁制とでも言うべき手法である。だが国民は白紙委任状を与えたわけではなくまるで悪魔との詐欺に出会ったようなもので、こんな横暴は許してはならない。氏が言うようにまさに民衆政治の堕落への兆候とよべるであろう。
 一方の小泉であるがその前に、たびたび持ちだしている話ではあるが、55年体制の中で自民党総務会はこの長い間「全会一致」を旨として議決を行って来ている。そして、郵政民営化問題では結論がでない、即ち全会一致を得られないので、始めて多数決採決を行った。この慣行を結果的に無視した採決に不服として一部の人々が離党すると言うことになった。
 小泉が「郵政民営化」一本で衆議院選挙を行ったことへの批判もあるが、気をつけなければならないのは、小泉が何処まで意識して行っていたのかどうかは別にしても、少数派を差し置いて採決した議案を選挙を通じて国民に信を問うという、民主政治を実行するために極めて丁寧な手法を講じたことと理解出来る。

 ならば、何故小泉はそこまでして「郵政民営化」を通そうとしたかであるが、そこには理想に近いと言った全会一致方式の持つ致命的な欠陥とも言うべき問題があるからであり、それは変化を遅らせる、既得権を結果として擁護してしまうと言うことにある。そして、日本という国家が、同じ民主主義的政治を行っていながら、むしろ全会一致に重きを置いた政治を行って来ていることから、国際社会とのすり合わせが極めて困難に成ってきていた、変化を求めざるを得なかったということにあるように思う。

 前述の通り、民主主義政治は多数決と全会一致の間に存在すると言ったが、決断が早く変化対応力が有るように見える多数決議決は間違いが多く、一方全会一致に近い議決はとてつもない時間を要し且つ変化が見えにくいが間違いが少ない、より多くの国民が同意できるということが言えよう。

 さて、日本はどちらを選ぶべきなのか?私はかつては単純多数決に近い政治が良いのではと考えていたが、最近では、もう少し全会一致に近づけるべきと思うようになった。「もう少し」などと、つかみどころがない話であるが、一定の時間を経れば国家の制度・組織といったものは周囲の変化には対応できなくなる。従って、改革せざるを得ない。そのときは国民には丁寧に説明しないといけないし、思い切って改革すると言うことでもあろう。

 この問題は国内問題であるだけではなく国際問題であることも認識しておく必要があるが、このことは又別の機会に譲ろう。