杉並の純一郎(3)

2009年12月で68歳に!
先の戦争が一体なんだったのかを今一度勉強し、次の世代に伝えてゆきたい。

2006年 日本の課題(その4)

2006-02-15 23:50:26 | Weblog
当初、「2006年日本の課題」というタイトルで話を続けるつもりはなかったが、どうもこのタイトルを続けることが必要な状況になってきた。‘その4’として書く。
‘その3’でブッシュが一般教書で不安定な中東の石油への依存を減らすと言っていることを書き、「アメリカが中東の石油をコントロールすることに赤信号を出したのでは」と懸念を述べた。2月11日の産経「資源開発 中国は米の脅威、エネルギー省報告 無法国家と連携」として報告している。パムボ委員長の発言を取り上げ、「中国が経済成長のため、資源獲得にあらゆる手段を講じている。今後10数年に確たるエネルギー対策を採らなければ、中国は利権獲得に躊躇することはないだろう。今後の経済成長のためにエネルギー資源獲得のために動かねばならない」
日高義樹氏のこの2月に発売の最新書「米中石油戦争が始まった」は、いみじくも世界的レベルの石油獲得競争が米中を中心に始まっていることを明確に述べており、それに対しての日本の政治家並びに官僚たちがこの世界の大変動に気がついていないと警告は発している。私もそのとおりだと思う。繰り返しになるが、日本はこの大変動に気づき対応を図らなければ将来大変な事態になることが容易に想像できる。石油の手当てをどうするのか、代替エネルギーをどうして行くか、そして場合によっては日本にとってもっとも苦痛を伴うであろうこと、将来の国の経済の規模を縮小せざるを得ないことも検討課題になるであろう。まさに日本国とっての危機が迫っている。国内の政治論議、大陸・半島相手の不毛な議論など直ちにやめて、この世界的大変動に取り組むべきと考える。
以下が「米中石油戦争が始まった」の最終章である。少し長いが前文を掲載させて貰う。

第6章 第5部 日本の政治家と官僚は何も知らない

21世紀、中国とアメリカが石油を巡って対立するのは、すでに述べたように2010年には世界の石油の産出高がピークを迎えて不足してくるからだが、日本の政治家も官僚もそうした深刻な事態がやってくることにまったく気が付いていない。
米中石油戦争がすでにはじまったことや、2010年以降石油が不足してくることに日本の政治家や官僚が注意を払っていないのは、第二次大戦に敗れて以来、安全保障のすべてをアメリカに頼り、石油の安定供給も安全保障の一つと安易に考えているからだ。
私の知る限り日本の政治家と官僚の仲で、長期的な石油戦略や、石油、ガスの問題について真剣に考え、発言している人は全くいない。アメリカのブッシュ大統領がエネルギーの将来を懸念し、全力を挙げてエネルギー政策に取り組んでいるのとは対照的である。
ブッシュ大統領は2005年7月28日、念願の新エネルギー法案を成立させたが、その発表のときに「さらに新しいエネルギー法案が必要になる」と述べている。中国の胡錦濤主席もカナダやメキシコ、ベネズエラを訪問してそれぞれの国や首相に対して石油の安定供給を強く求めている。
日本では石油の効率利用が進んでいるため、1979年の石油危機の際も、2005年に石油価格が高騰したときも、世界の他の先進国に比べて、むしろ有利に立ち回ることができた。このため石油の供給が将来先細りになるという懸念を抱く人があまりいない。
日本の政治家や官僚たちは気が付いていないが、石油の供給源は二つに大きく分かれようとしている。アメリカの石油メジャーは北極や海の底以外に新しい油田を手に入れることができなくなっている。
「石油メジャーは2005年の値上がりで、膨大な資金を手にした。当分は地の果てからでも石油を掘り出す金を持っているがそのあとが心配だ」
アメリカのエネルギー省のボドマン長官はこういっており、原子力発電に力を入れようとしている。
中国はすでにこのことに気がついており、世界中のありとあらゆる産油国に接近している。産油国のほとんどが専制国家か、民主主義が行き渡っていない国であるという条件に恵まれて、いまや着々と石油供給の体制をつくりつつある。
それに比べて日本には、どこを見渡してもエネルギー政策はおろか、石油戦略もない。
政治家たちは石油の供給よりもむしろ、国民に石油を節約することばかり考えている。従ってクールビズなるファションの普及に協力し悦に入っている。
日本の政治家や官僚たちは、冷戦後の世界がさらに大きく変わってきていることに気がついていないのである。アメリカの後ろについていさえすれば石油が手に入る時代がとっくに終わってしまっていることに気がつかない。
中国がアメリカの石油に挑戦し米中石油戦争が始まったことによって、世界に大変動が起ころうとしている。だが、日本の政治家や官僚たちは、今もなお冷戦時代が続いていると思い込んでおり、すでにアメリカが世界戦略を変えたことを理解しようとしていない。
アメリカはもはや冷戦時代のようには、日本を守る気がなくなっている。ところが日本の政治家や官僚たちは、日本の経済力や企業の技術をアメリカは必要としているので、冷戦時代のときと同じように日本を保護してくれると信じている。
日本の政治家たちは長い間「世界」のことはすべてアメリカに依存し、「選挙区」である地元のことだけに全力を挙げていれば日本の国が動いてきたから、外界の新しい事態に注意を払う習性を失ってしまった。
だがいまや選挙区のことだけを構っていれば良い状況ではなくなってきている。世界は目まぐるしく変化している。例えば日本が国際政策の基本としてあがめている国連だが、いまや汚職の巣窟になりはて、ブッシュ政権とはのっぴきならない対立に陥っている。
そうしたなかで国連安保理の常任理事国になろうとしている日本は、検討ハズレのロビー活動を行って国民の税金を無駄遣いしている。日本がいくら努力しようと、日本を一流国家にしたくない中国は反対の姿勢を変えないだろうし、日本だけを常任理事国にしたいアメリカは、その提案では通らないと弱気になっている。
日本が国連安保理の常任理事国になる可能性はきわめて小さいが、日本の政治家や指導者たちには、そうした世界の現実が目に入らない。それどころか日本の国家の命運に関る、もっと重要なことにすら気がついていない。
トランスフォーメーションで、在日米軍をはじめアジア極東のアメリカ軍の再配備がはじまっているが、日本の政治家たちは「アメリカ軍がどこへ行くか」にだけ感心を集中するあまり、その背後にアメリカの対中国戦略の変更があることに気がついていない。
すでに詳しく述べたように、アメリカ軍のトランスフォーメーションは、アジア大陸においては地上戦闘を避け、一歩はなれた太平洋の先から中国を狙う戦略である。
この新しいアメリカの戦略について国防政策の立案者たちも、現場のアメリカ海軍や空軍の司令官たちも、ハッキリした説明を避けている。そのため日本の政治家や官僚たちはよけい、アメリカが何を考えているのかつかむことができない。
だがこのトランスフォーメーションこそ21世紀のアメリカの新しい対中国戦略なのである。アメリカは太平洋を一歩引いて中国のとめどもない軍事的拡大に歯止めをかけようとしているが、この戦略の根底にはアメリカの新しい孤立主義がある。
この新しい孤立主義は「アメリカは外のことはいっさい関与しない」という、第一次大戦前の「アメリカ第一主義者」たちによる孤立主義とは違っている。世界的にアメリカのビジネスが展開しドルが基軸通貨になっている現在、そうした古典的な孤立主義はとりようがない。
新しい孤立主義ではアメリカは「外のこと」に介入する。だがそれはあくまでアメリカの利益を守るためである。例えば中国が日本の南西諸島や尖閣諸島を不法に占拠して海底油田を開発しはじめたとしてもアメリカは介入しない。これは明らかにこれまでのアメリカのアジア極東における基本姿勢とは異なっているだけでなく、日米安全保障条約の基本方針とも矛盾する。
アメリカは、中国や北朝鮮が韓国や日本を占領しようとした場合には、アジアにおける勢力地図の変更につながるものとして無論介入する。要するに尖閣諸島や南西諸島の所属は、国境線のいざこざにすぎないとしてアメリカは介入しない。
こうしたブッシュ政権の孤立主義的な考え方は、石油の供給にも関ってくるはずである。アメリカの基本は自由市場体制であり、アメリカの石油メジャーは思想や体制に変わりなく世界中に石油を売り渡していた。
だがメジャーはいまや石油供給源を限定されている上、2010年になると世界の石油の供給がピークを迎える。そうなった場合にアメリカのメジャーがこれまでと同じように世界に石油を売ってくれるかどうかわからない。
だがそうした将来の事態も、それに備えたエネルギー戦略も考えていないのが、日本の政治家であり、官僚たちである。日本の政治家は急速に変化しつつある世界情勢をまったく把握していない。いまだに冷戦の世界にいて、日米安保体制によって日本への石油供給が続くと安心している。
だが現実の世界では米中石油戦争がはじまり、アメリカと中国と言う二つの超大国が国家利害に基づいて対立している。アメリカと中国は国家戦略を立て、国の利益を守るためにに石油をめぐって戦い始めている。
米中石油戦争は、第二次大戦のような航空機や軍艦による砲火の浴びせあいではない。国家の持てるあらゆる力を使っての駆け引きであり、闘争である。しかし冷戦と違って、アメリカと中国の石油資源をめぐる戦いによって、すでに地球規模で不協和音が聞こえ始めている。
「中国は世界の批判に耳を貸さず人民元を切り上げようとしない。国連の権威が揺るぎ、世界の安定を任務とするはずの安全保障理事会がもめている。アメリカの影響力が急速に低下し中東の戦争が片づかない。中国が日本の境界線を脅かし、エネルギー資源を掠め取ろうとしている。北朝鮮は核兵器開発をやめない」
こうした状況はすべて、世界が変動に向かっていることを示している。第二次大戦後、冷戦と国連によって比較的安定していた世界の国々の関係が、国家利益を基本とする関係に変わったからである。
日本の政治家や官僚たちは、世界の国々が国家の利益をもとめて国家戦略を発動しはじめたことに気が付かない。そのうえ歴史の教訓も身に着けていないため激動する世界に目をつむったままである。
米中の石油戦争は新しい時代の幕開けに他ならない。冷戦後の世界は新たな今日局面を迎える。日本がこの大変動の時代を生き延びるためには新しい指導者と国家体制が必要である。憲法を変えたり防衛庁の名前を国防省にするだけでは、到底追いつけないような急激な変化が世界に起きている。

2006年 日本の課題 (その1-3)

2006-02-15 23:46:46 | Weblog
(2006.1.14)2006年日本の課題(その1)

昨年一年は大陸・半島を相手にしてのあるべき外交について十分に討議し、これまでの謝罪外交を改め、自由・人権・民主主義という普遍的理念を要求してゆくと言うところまでは煮詰まり、後は政府がこれらを実行に移せばよい段階にきていると思う。従って、もう、中国・朝鮮半島をあいての矮小な議論は終わりにして、日本がいままで本当になおざりにしている問題を語る年にするべきと考える。

そして、日本改革は小泉ならずとも「道半ば」であり、改革の対称を揚げればきりが無いと言ってもよかろうが、とりわけ重要なのは「資源」の確保であり、「シーレーン(輸送路)」の確保である。そしてその先に日米同盟がある。

急にテレビの話をするが日高義樹のワシントンレポートは私のお気に入りの番組であり、毎回欠かさずに見ることにしている。そして常々思うことだが日高氏のこれまでの努力によるアメリカでの人脈の広さ、情報の深さには敬服しているが、一方アメリカ側、アメリカ政府といっても良いと思うが、この番組への熱の入れ方にも驚かされる。アメリカの要人が日高氏に語ることは通常ではなかなか得にくい内容のものが多い。何処がと思う方、番組を見たことの無い方は、番組をご覧いただくと共に日高氏の著書を読むことをお薦めする。最新著書は昨年7月末に出版の「日米は中国の覇権主義とどう戦うか」(徳間書店)である。
1月8日のコメンテーターは常連のヘンリー・キッシンジャーであったが、私にとって気に成ったことは、キッシンジャーが「今後、石油資源をどう扱うかを協議しないといけない」と言っている。即ち、国家間での話し合いを示唆しているわけだが、私の記憶に間違いが無ければ、同氏により一年前にも指摘がなされている。が、日本政府からは目立った対応・反応は見えない。

私は社会人になってから30年間外航海運業(船会社)に従事してきたが、通商国家であり、無資源国家であり、小領土国家である日本にとり、「資源の確保」並びに「輸送路」の確保が如何に大切であり、その前提が「平和」であると言うことを身にしみて感じてきている。国内だけで仕事をしてきた人たちに比べたら少し神経質すぎるかもしれないが、戦前も戦後もこの資源の確保・輸送路が日本経済のみならず、国民経済の生命線である事は少しも変わらない。変わったのは戦前は自らこれを行おうとして失敗したのであり、戦後はアメリカに任せていると言えば聞こえが良いが、全く頼り切っているが殆どの国民が意識しないで来ている。何をもっとも頼りきっているか?資源は勿論であるが、これは極端を言えば金で解決できる。しかし、世界のシーレーンを確保するにはそれ相応の海軍力が必要であるが、現在世界の海はアメリカが全てコントロールしており、日本はその恩恵をフルに享受しているのであるが、その意識は極めて希薄である。これが平和ボケを起こしている原点であり、自立できない戦後日本の情けなさである。だから、少々の軍事費を負担するのに「思いやり予算」などと呼んでみたり、アメリカ軍の基地使用にいとも容易く大声をあげて反対することになるのだろう。確かに世界の海を支配するのはアメリカの利益のためであることは間違いない。でも、そのうちの一部は本来日本も負担すべきものであるはずだが、日本が享受している利益はとても「思いやり」程度では済まされない、返すことが出来ないことと思っている。

日本は戦後の復興にあたり何をしてきたのか?アメリカが守る平和の下で多くの日本人は海外に出て資源を確保しそれを日本に持ち帰り、商品にして又海外に売る。その過程では戦死者はいなかったかもしれないが、犠牲にあった民間人、怪我をしたり、不治の病になったり、暴漢に襲われたり、誘拐されたりして死亡した人は数知れない。彼らは武器は持たないが戦士であり日本のために戦った人たちである。そして、戦後60年経って始めて日本は自衛隊を海外に派遣した、平和憲法が有るから武器は使用できないと、そして一部の国会議員とメディアは叫ぶ、自衛隊に怪我人、死人が出たらどうすると?おいおい待てよ!一体戦後民間人が海外に出てどれだけ犠牲になったか考えたことがあるのか?彼らとて国のために海外に出て、命を賭けて戦った戦士には変わりは無い。もう、海外での戦死者は出ているんだぞ。「自衛隊だけが特別ではないんだ。自衛隊は一番最後に出て行ったんだ。」こうした犠牲の上に日本は戦後の経済復興を果たして来ている事をもっと理解しないといけないと思うし、自衛隊に犠牲者が出ても止むを得ないということを認識すべきである。

いままで、心ある人はこのために、資源を確保し安全に輸送するには日米同盟の強化が必要と唱えている。それでは日米同盟の強化とは何か?何が根底にあり、何をなすべきか?
きれいな言葉で言えば「集団的自衛権」であるが、この言葉を平たく言えば、共同の敵に対して「お互いが命をかけて守りあう」と言うことだ。残念では有るが世界はまだ「人の命を賭ける」ことを大切だと考えている。それが「誠」だと思っている人が沢山いる。日本、アメリカだけでなくまだ世界中にこういう人は沢山いる。私もそうである。でも、そのことが悪いのだろうか?世界はまだそれほどまでには平和ではない。命を賭けて守るべきものが存在している。日本がこの気持ちを持たなければアメリカとて日本を助ける気にはならない。今までアメリカがそんな日本に嫌気も差さずにきているのは冷戦構造もあったが、アイゼンハワーが岸信介にゴルフ場でシャワーを浴びながら「間違った相手をたたいてしまった」と言ったと伝えられているが、原爆投下も含めたアメリカの謝罪が入っていると考えるべきではなかろうか?しかし、アメリカ側に日米戦争に拘る世代が何時までも続くとは限らない。その辺りへの日本人の理解が遅まきながら必要なのではなかろうか。

(その2)
豪州は鉄の原料である石炭・並びに鉄鉱石の大産出国であるが、つい数年前にその積出港で積荷を待つ船による滞船が続いた。中国による大量且つ急激な原料の買い付けが原因で
出荷体制がそれに間に合わなかったことに起因したが、この影響で市場の需給で決まる海上運賃はそれまでに比べ大幅に上昇し、やがて原料価格もかってないほどの値上げを見ることになり、その勢いは今も続いている。
西欧並びに日本の近代化は鉄を作るための鉄鉱石と石炭という原料の調達、内燃機関を動かすための石油の調達が不可欠であり、西欧も日本も自国では原料を調達できずにそれを他国に求めたことは歴史の示すとおりである。いまでも日本は他国の資源を大量に利用して通商国家・経済大国の地位を得ているが、このような状態を何時までも継続できなくなることは中国一国が近代化を目指し資源の調達に乗り出しただけで世界が混乱したことを見ればインド他が近代化に加わればその後の事態は容易に想像できよう。
何時とは言えないが20年30年40年後には世界各地で近代化を目指す国が増えていけば鉱物資源の需要は間違いなく増大し、先を争って調達に走るような時期が来ること間違いがなかろう。そのときにキッシンジャーの言うように人類は知恵を生かして話し合うことでの解決を可能にするのだろうか?ぜひとも、そう有って欲しいものではあるが、その場合でも日本が話し合いの中に入り、応分の資源を確保出来るだけの準備を図り、且つ又そのためには今から誰と同盟関係にあることが望ましいかと言う冷徹な計算をした上で外交の戦略を持っておく必要があろう。そして、資源と言えば日本にとり一番にくるのはいうまでも無く石油である。日本は二度の石油ショックを乗り越えてその効率的使用にかけてはおそらく世界一と言っても良いだろうが、おそらく世界が石油調達を争うようになればこれまでの実績が勘案されることがあるにしても日本への割り当ては現状を大きく下回ることになろう。あるいは一時的に危機的な石油不足が起きることも考えておかなければいけない。そんな場合を想定すれば、日本がまずこれからしなければ成らないのは、原子力発電の促進、水素を初めとするエネルギー源の開発等の自助努力もいうまでも無いが、それにもまして必要なことは、国であれ国家群であれ頼れる相手を作っておくと言うことではなかろうか?
明治維新以降、近代化のための資源の確保こそが日本の課題であり戦前も今もそれには変わりがない。しかし、再び自らの力で確保しようと等と画策すれば、今度こそ日本の破滅であろう。それはなんとしてでも避けなければならないことであり、そのためには「ぽち」と揶揄されても覚悟と我慢を重ねて日本の未来を築いてゆかなければ成らない。これまでも述べてきたが、日本は国土狭く、資源もなく、人口も少ないなかで通商国家を作り上げてきているが、その前提は他国が維持している平和を利用して生き延びるしか方策はない。問題はその時のパートナーを誰に選ぶかである。
そのような眼で周りを見渡すとアメリカが第一の候補であることには疑問の余地がない。アメリカ自身、自国の需要を満たせるだけの石油を国内に確保できないかもしれないが、残念ながらアメリカ以外に頼れる国はなかろう。
この資源問題をアメリカと結びつけてどう外交に結び付け展開してゆくかが私が考える「2006年日本の課題」であり、テーマである。

(その3)
書くつもりのなかった(その3)であったが、ブッシュの一般教書演説をみて、一言加えておく。
ブッシュは石油漬けになっているアメリカにエネルギーの転換を図るべきだとしているが、その対象が不安定な中東からの石油輸入を減らすことで実現しようとしている。アメリカの中東からの石油輸入量は約20%弱ぐらいと思うが、この75%を2025年までにエネルギー転換を通じて削減しようとするものである。
一般的に言われていることはアメリカの石油輸入量は増加し続ける筈と言われているので、この目論見どおり行くものなのか疑問もあるが、問題はブッシュがはっきりと「不安定な中東」と言う言葉を使っていることであり、アメリカが中東の石油をコントロールすることに赤信号を出したと言うことではなかろうか。90%を超える原油を中東からの輸入に頼る日本がしなければ成らないことは何か?シーレーンの確保ぐらいは思いつくし、その為にもインドとの関係強化は必要であろうが、石油と言うことに限ればインドはヒンズーである。国と言う地域を越えたイスラムの結束が強まるなか、日本がこれにどう対応し、石油を確保してゆくのか先が見えない。
念のためとおもい、小泉首相の施政方針演説を覘いてみたがエネルギーにはやはり触れていない。


日本よ! お前は誰なのか?

2006-02-12 23:03:34 | Weblog
我が家は浄土真宗であるが、子供の頃に父に聞いた話では‘門徒は信仰に薄い’らしく、私もこれまでおよそ信仰とは縁遠いところにいたように思う。そうは言いつつも、人の言うことを聞くのが嫌いな性分が生んだのか、苦しいときの神頼み、ご都合主義の神様だけは存在しており、これを逃げ場にして今まで何とかしのいできている。

還暦を前にして名刺を交わした相手から同時に‘般若心経’のお守りを渡されたが、しかしそのときは「あー、これが良く聞く‘般若心経’!」と思っただけで、そのまま財布の中に忘れられていた。しかしながら、五ヶ月ほどして相手の方は癌で亡くなられ、小生に‘般若心経’を下さったときにはご自分の余命がいくばくも無い事をご存知だったと故人に近い方から聞いた。今となってはどのような気持ちで下さったのか知る由もないが、‘般若心経’が心に残った始めであった。

自分の気持ちの中に有る為でもあろうか最近‘般若心経’の四文字が目に付くし出版物も多いような気もする。これまでもこの四文字はこんなに巷に溢れていたのか!確かに調べて見ると近所の書店でも4-5冊、大きな書店なら15-20冊、ネットで杉並図書館を検索したら85件をヒットした。「なーんだ、知らないのは俺だけか!」でも一体これだけの人を引き付ける‘般若心経’とは何なんだろうという興味が湧いてきた。
‘仏教のことが面白いほど良く判る本(田中治郎)’よれば‘般若心経’は玄奘(げんじょう、三蔵法師のこと)が600巻に納めた‘大般若経(だいはんにゃきょう)’を276文字に纏めたもので、大乗仏教の中心概念となる‘空’の思想を述べたものだそうである。日本は大乗仏教の世界であり、日本には仏教が13宗あるようだが一堂に会して一つのお経を読むとしたら‘般若心経’以外に無いといわれているようだ。しかし、後で「ひろさちやの般若心経88講」を読んで浄土真宗・日蓮宗この2宗派は`般若心経’は読まないことが解かった。

これで少し‘般若心経’が巷に氾濫している理由が分かったが、同時に日本人への影響の大きさ、またそれが如何なるものなのかは興味のあるところであり探索を続けてみたいと考えている。しかし、これから書こうとしていることには‘般若心経’との直接の関係はない。結び付けているのは日本の仏教が大乗であり、しかも昔誰かに聞いた「日本・ベトナムだけに大乗仏教が残されている」と言う話を思い出したからである。

歴史学者、アーノルド・トインビーは著書‘歴史の研究’(全三巻 長谷川松治訳)のなかで‘世界教会’というタイトルで宗教を語っているが、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、大乗仏教を‘世界の四大宗教’としてあげており、且つ四大宗教が文明を超えて生き残り進化する宗教であるとし‘高等宗教’とも呼んでいる。
ここにその一部を紹介してみよう。“文明の歴史が複数であり、繰り返されるのに対し、宗教の歴史は単一であり、前進的であるように思われる。そして、この時間的次元において認められる両者の差異は、空間的次元においても見られるのであって、20世紀の今日生き残っているキリスト教並びに他の三つの高等宗教相互の間には、同時代文明相互にはめったに見られない密接な類似が認められる。この類似は、神を自己を犠牲に供する救世主と見る見方を共有するキリスト教と大乗仏教の間において特に顕著である。”

大乗仏教の誕生の時期はキリスト教と略同じ時期といわれる紀元前後であるが大乗仏教は従来の仏教を進化させた形で誕生している。その中心と成るのは‘空’の思想であり、菩薩行による‘利他‘の概念である。そして、この利他の概念こそがトインビーの言うキリスト教の’神を自己を犠牲に供する救世主‘と結びつくのである。大乗仏教は釈迦が仏教を興したのとは異なり特定の個人ではなく在家集団がその中心であったと言われている。そして大乗仏教が現在存在しているのは繰り返しになるが日本とベトナムだけであろうと言われているが、社会主義国になってからのベトナムにどこまで影響力が残されているのか私には分からない。しかし、もう10年以上前の話になるがベトナムを一週間ほど旅したことがあるが、教育、勤勉、食文化と日本にすごく近い感じを受けたのを覚えている。同じ中国文化の周辺にあること、大乗仏教を通じて培われた共通の何かを他のアジア諸国より強く感じたのかもしれない。一方、仏教誕生の地インドに仏教が’何故残らなかったのか‘は、平等を説く仏教がカースト制度のインド社会に受け入れられなかったと’梅原猛の授業 仏教‘には書いてある。

私はキリスト教のことも良く判らないが、キリスト教と大乗仏教に特に密接な類似があるということがトインビーの言うように事実ならそれは驚きである。密接な類似が両社会にもたらした共通の影響力とでもいうものが存在するのであろうか?私にはプロテスタントと鎌倉仏教にその答えが隠されているように思える。

私は日本とヨーロッパの歴史を過去800年ぐらいについてみると常々似ている面が多いようにも思っている。一つには、これは学生時代に学んだ事であるが、両者に共通する社会制度としての‘封建社会’の存在でありこれが現代社会誕生の母体となっており、他の地域には存在していないということである。中国の古代封建制と異なる事を明確にするには‘近代封建制’とでも言うべきかもしれない。二つには、最近気が付いたことではあるが、プロテスタントの登場と鎌倉仏教の勃興と言う共通項としてくくることができるのである。この二つは共に神・仏の代理人である出家を排除し在家のままでも信仰が成り立つことを可能とした。ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの言う‘プロテスタントの世俗内的禁欲’であり、鎌倉仏教による大乗仏教本来の‘在家信仰’への回帰がそれである。この‘世俗内的禁欲’と‘在家信仰’は同じ事を意味している。

宗教の世俗内的禁欲・在家信仰が何をもたらすか、それは戒律の緩みを意味している。行過ぎれば道徳の荒廃であり堕落にもつながる。しかし一方で、窮屈な宗教の規範から離れ自由な発想を得た人々は社会に様々の進歩をもたらし、これが肝要なことなのだが、その蓄積を得た社会が‘現代社会’に一番乗りした。それが西欧・アメリカのプロテスタント社会であり、鎌倉仏教を母体とし遅れて旅立った日本である。宗教が政治に優先するイスラム社会ではいまだ何処も‘現代社会’に到達していない。イスラム社会であるトルコのEU加入を難しくしている所以でもある。

大乗仏教が日本に伝来したのは6世紀である。その前に儒教が入ってきているが、日本は仏教を優先した。一方で中国・朝鮮は儒教を優先したことで、二つの地域は異なる結果を得ることになった。日本では大乗仏教の伝来後も世俗化の影響、戒律の緩みによる影響はなかなか社会には現れてこなかった。この影響がでた時期を特定するのは難しいが比較的近年まで、極端に言えば1945年以降までその影響が大きく出なかったとも言える。

この遅れをもたらした要因は何かと言えば、二つ挙げられる。一つは大乗仏教導入後すぐに密教が入ってきたことによる。そもそも密教は祈祷・呪術を主とするが日本では時の権力と結びついてしまった。又、本来は在家信仰であった大乗仏教を出家信仰に戻したことで戒律が厳しくなり、当時の庶民に広がり始めた仏教を国が抑制するような動きも見られた。二つ目は江戸時代の儒教・朱子学の影響ではなかろうか?朱子学は儒教と言われているが中国・韓国の「孝」の儒教の影響を受けながらも、これと異なる「忠」を主体としているので別な存在と考えても良いのではと思う。「忠」は「武士道」を示すものであり、これも支配階級を対象としている。
この二つの事象を判りやすく言うと、在家信仰の大乗仏教は密教化と出家信仰に戻ることで、又本来の在家信仰に戻った鎌倉仏教は江戸時代の儒教・朱子学によりそれぞれ世俗化のスピードが落ち、道徳的退廃が抑制されたと言えるのではないか。

こうして見ると、鎌倉仏教に遅れて始まったプロテスタント諸国の宗教改革と期を一にするごとく日本は世俗化・戒律の緩みへのアクセル・ブレーキを交互に踏みながら現代という歴史の中へなだれ込んできているのが判る。
すなわち、日本は中国文明を親としながらも、出来上がった子供は西欧文明に近いものに成っているのではないだろうか?又は、そういう素質を社会に含んでいたと言うことかもしれない。東アジア共同体などという構想はそう簡単には成立し得ず、日本と大陸の間にはバックグラウンドの違いとも言うべき大きな溝が横たわっているように思える。

「文明の生態史観」を書いた梅棹忠夫(うめさお ただお、1920年―。民俗学者)も、これに続いて「文明の海洋史観」を書いた川勝平太(かわかつ へいた、1946年―。国際日本文化研究センター教授)も日欧の近さを訴えている。
日本がアジアの中では独自の文明圏に有ると言うハンチントンの‘日本単独文明論’も理解できるし、アジアの中で、いや世界の中で何故日本だけがかくも簡単に機械文明のみならず社会制度を含めてヨーロッパをコピー出来たのかも理解し易くなる。元外交官で評論家の岡崎久彦氏はしばしば「日本はアングロサクソンと付き合えば間違いが無い」と発言しているが、確かに共通項は多い。同氏は外交的な、私は文化的な意味合いでいっているのでニュアンスは違ってくるが、私には「プロテスタントと付き合えば」と置き換えるほうが妥当ではないかと思われる。プロテスタントを国で言えば、イギリス、アメリカそしてドイツと言うことにもなろうが、いずれもこれまでの日本のパートナーであり、共通の基盤があったから善し悪しの判断は別にして同盟関係が可能であったとも言える。

世間では戦後のアメリカ的教育が日本人の道徳の低下をもたらしたと言う事が多い。確かに道徳低下のスピードを上げたということはあろう。しかしながら敗戦と言う垣根を取り払って歴史を通しで見れば、日本が明治維新から西欧文明を容易にとも言えるほどに導入できたように、精神的にも世俗化・道徳の低下をもたらす下地がもとから存在していたからということになるのではないか?日本の「武士道」に当たるのがヨーロッパの「騎士道」、この二つに共通するのは「ノブレス・オブリージェ」、直訳すれば貴族の責任、上に立つものの義務、であろう。会社であれば社長、大工であれば棟梁は「嘘はつかない、約束は守る、盗まない、弱いものは庇う」と言ったことを身を持って示すことを要求されている。最近「武士道」が多く語られるがこの「ノブレス・オブリージェ」の精神の欠落、これこそが戦後道徳の退廃に大きく影響しているように思える。我々はいつの間にかこのことを疎かにしてきているが、人間が宗教の戒律から自らを解いた昔に、この「ノブレス・オブリージェ」の一言が神・仏が人間に送った「警告」ではなかったのか?今でも宗教規範が強い社会では、外枠を換えても下地が無ければ中身まで変わることは無いのだ。イラクにせよアフガニスタンにせよイスラム社会にはすぐには民主主義が定着しないことを見れば理解できるはずだ。アメリカを非難する前にまずは自らを省みることが必要になってくる。

こうしてみてみれば、日本と言う存在は地理的にはアジアに位置するが、社会を構成する要素は西欧諸国に近いということが多くの人により言われて来ていることが判る。「アジアに在って、アジアでない」私が言う「プロテスタントと鎌倉仏教」もその一つの要因に上げることが出来るかもしれない。私に残された時間と能力が研究に十分かどうかは分からぬが、思わずお守りにと思って財布にしまった‘般若心経’がもたらした大乗仏教との縁(えにし)、引き続き検証・検討を加えて充実した説へと高めて行きたいと思う。