杉並の純一郎(3)

2009年12月で68歳に!
先の戦争が一体なんだったのかを今一度勉強し、次の世代に伝えてゆきたい。

資本主義の危機!?(国際金融の問題点)

2008-03-04 01:39:15 | Weblog
友人のホームページ「方円の器」に昨年11月に寄稿したものを此処に再掲載する。


最近よく「ヘッジ・ファンド」のことが話題になり、批判もされる。しかし、一方では現代においては資本主義以外の経済制度という選択肢はなく、従って、グローバルな資本主義社会ではヘッジ・ファンドも無視できない役割を負った存在である。
では、一体何が問題なのか? 額に汗しないで金を動かすだけで稼ぐ金融資本はそんなに悪なのか? この問題はそう簡単ではない。なぜなら日本も所謂グローバル資本主義の中にいるからであり、批判するだけの立場ではなく当事者でもあるからである。

平和が長く続くことは良いことであり、こと日本を中心に考えれば、平和は60年続いたわけだ。そして平和が長続きすれば、“経済勝ち組み国家”には資本が蓄積される。このことは言葉を変えれば“金余り”になり、この金が「規制緩和」を通じて世界を自由に動き回りしばしば悪さをするのだ。皮肉に言えば“平和の代償”でもある。

その昔は金持ちの数(金余りの人)が限られており、又ほとんどの国が自由な金の動きに規制をかけていたので、この余った金を使える対象は限られていた。かつて、その場所はスイスが中心であった。そのような金(資金)を動かして稼ぐ行為を「投機」と言い、そのようなことをする限られた輩(やから)を「チュリッヒの小鬼(こおに)」と呼んでいたことをご記憶の方もおられることだろう。当時、対象になったのは貴金属、為替、先物相場であった。
今では、世界中に個人の金持ちが増えたばかりでなく、銀行も、証券会社も、保険会社もそして一般の企業までもが“金余り”になり、それぞれの置かれている財務状況により、余資(余った金)を短期・長期に運用しようとする。(例外的なのは日本政府らしい、たまったドルを米国財務証券という利率が低いが安全だろうといわれているものにしか運用しない。それも必ずしも一概に意気地がないとも言えないが)そして為替も含めカネの流れが自由になったことで、その膨大な金がたとえば日本で言えば村上ファンドのような出資者の金を“管理費をとって運用する”業者のところに最終的には集まる。そして今やかつての「小鬼」は「大鬼」に取って代わり、少しでも利益の増えるものへ、利鞘の取れるものを求めて動き回るということだ。
カネの流れが国際的に自由になった結果、その量が巨大であることも手伝って、これらのカネが動くときにはヘッジ(本来は二股を掛けるという意味だが「危険を避ける、危険を分散する」の意)を越えて投機的様相を招きやすい。「ヘッジ・ファンド」とも言われる所以でもある。これを上品に呼ぶ人たちは「投資ファンド」ともいうが余剰資金の危険を避けるのも、その量が巨大であるために結果として投機と同じ結果につながることが多い。これが金融弱者である経済小国の経済を、結果としてではあるにせよ脅かし危機に陥れることにもなる。

そのような中でおきたのが1997年のタイに始まる「アジア金融危機」である。
ヘッジ・ファンドの良し悪しを巡ってマレーシアのマハティールとジョージ・ソロスが論争した。マハティールは“アジアの小国を揺るがすような金融資本の好き勝手は、小国の経済運営に死活的であり、そのような横暴は赦すべきでない、国によっては規制されるべき”と出張した。ソロスは国際金融資本を代弁し“グローバル社会での金融資本の役割”を述べその自由な動きを主張した。マハティールは自国の金の出入りを規制することでその危機を乗り切り、そうでないインドネシア、タイ等は金融危機におちいる。
そしてソロスがその後国際金融システムに欠陥があったということを認識して書いた本が『グローバル資本主義の危機』である。その内容を一言で言えば“ある国で大きな債務不履行が起きると世界中の金融機関がその影響から逃れるために、資金を一気にしかも大量に引き上げてしまうことによる混乱であり、弱い国々を破滅的な金融事情に追い込んでしまう。それに対して国際金融システムはそれに対応できるだけの制度もなければ連携も出来ていない”ということであろう。

このような世界的規模で動き回る「投資」・「投機」両者織り交ぜた大量な資金を運用するヘッジ・ファンド・マネージャーをどう管理・監督してゆくのか、ソロスは前述の本に倫理的、理念的な提案を書いてはいるが具体的ではなく、世界はまだその答えを見つけていないし、その中心と成るアメリカはこのことをあまり気にかけていないようだ。自らが国際金融で強い立場にあるからだろうか?
アジア危機を契機に日本はアジアのため「アジア世界銀行的」なものを設立し日本の余剰なドルを活用してアジアの金融危機に備えようとしたが、残念ながらアメリカ政府を通じての国際金融資本の圧力でその計画はもろくも潰されてしまった。そして、最近になって、日本は再度国際的な場―IMF、G7/G8蔵相会議等―でその必要性を言い出しているようであるが、今回はうまく行くことを期待したい。完全な治療法ではないかもしれないが、一つの安全弁であることは確かであるからだ。

少し大雑把に書きすぎているが、細かく言い出すとあれもこれも書くことになり、大枠で理解するのが難しくなるのでこの辺りでお仕舞いにしよう。

 このことを書いたのは今年2007年5月であったが、このとき既にこのテーマ、世界の金融システムに影響を与えるような問題が起こりかけていた。「サブプライムローン」問題であり、8月には世界の金融市場に混乱をもたらし始めていた。
その「サブプライムローン」を簡単に説明しておこう。
これは米国の低所得者向けの高金利型住宅ローンとして始まっている。低所得者、高金利とくれば金融機関にとりハイリスク・ハイリターンということになる。そして従来の住宅ローンのモデルは契約者が債務不履行の陥った場合、貸し手すなわち金融機関だけが被害を蒙り、ローンの起承転結が明快であり、対象も限定されていた。
 しかし、このローンを組んだ金融機関がこれら債権を証券化して市場で売却することでリスクを分散(ヘッジ)してしまうことが可能となった。かわりに、証券が市場に出たことにより、それを誰が保有しているか、また何処に行ってしまったのか解からなくなってしまっている。
 住宅の価格が上がり続けることなどないのだから、住宅の価格が下がり支払いが滞り差し押さえが始まると不良債権が広がり、証券の値段が下落してゆき、アメリカで始まった新型住宅ローンの被害は世界中でこの証券の所有者に損害をもたらす。簡単に言うとこういうことだが、その損害が何処に、何時、幾ら出るのか解からない“時限爆弾的”存在でもある。

 めったに買わない朝日新聞ではあるが、たまたま購入した2007年9月3日のオピニオンの月曜コラムに「ビル・エモットの世界を読む」があり、氏がこの問題を取り上げている。
 ビル・エモットとは1956年イギリス生まれ、1983年英「エコノミスト」東京支局長として来日。1990年日本のバブルを予測した「日はまた沈む」はベストセラーになった。
同氏は「サブプライム問題」を自ら楽観的予測であり、成り行きを見守る必要があると言いながらも前述ソロスの「資本主義の危機」にあるような国際金融の破綻は起きていないと言い切る。ところが、そう判断するにはあまりに早すぎるのではと思う。私にとって氏は極めつけの楽観主義と評したいところだが、まずは彼の言い分を書きとめてみよう。

 「8月に世界を襲った金融市場の混乱からの直接の悪夢は、すでに市場におけるコメントなどで焦点があたっている。それは、世界中のほとんどの国で採用されている解放された資本市場においては、一箇所の金融不安がすべての国の金融不安を引き起こす恐れである。ソロスは1998年のアジア金融危機のあと、グローバル市場が余りに自由に開放されたので、今やみんなが一緒に破滅する運命をたどることになったとその著書で警鐘をならした。
 しかしこれは実際に起きていない。危機の最初の数ヶ月に見られた各市場の反応を考えれば、悪夢には十分な信憑性があったのだ。だが、全世界に影響はあったが、全世界的な破綻はなかった。
 あの危機において、ソロス氏の恐れとは逆に、グローバル化は不安定効果ではなく安定効果を示したことがわかった。とりわけ、技術投資や生産性向上に牽引された米国経済の好況が続いたことは、アジア経済を支えることに役立った。確かにアジアは苦しんだが、世界貿易のおかげで世界的な不況にはならなかった。
 貸し倒れが一部の銀行に大きな打撃を与えたとしても、世界中の資本が枯渇することは無いだろう。本当に危険なのは貸手側の信用損失であるが、これほど多くのさまざまの借り手がいるので、信用喪失は世界規模では起こりそうではない。資本は再分配され、景気後退の中和に役立つだろう。」

 しかし、エモット氏の予測にも関わらず現実には事態は好転しておらず、むしろ確実に悪化に向かっており、損害も当初の予測よりも拡大している。
 スティグリッツ米コロンビア大学教授は、10月22日来日に際して行われた講演で、「サブプライム影響長期化」とその懸念を表明している。同氏は1963年のアメリカ生まれ、米エール大学、英オクスフォード大学などで教鞭をとり、2001年に’情報の経済学’を築いた業績でノーベル経済学賞を受賞しているが、同時にグローバリズムの引き起こす問題点に深い洞察を披瀝して来ている。
 この講演の中で同氏は、「世界を地球規模で一体化させるグローバリゼーションは、もっと正しく機能させるべきではないか」と前置きしながら、「国際金融の欠陥」という指摘を行っている。すこし長くなるが引用してみる。

「 現在の国際舞台の意思決定は、途上国の声がほとんど反映されず、特定の国、利益集団ばかり利するという欠陥がある。これは貿易交渉に限った話ではない。
 G8(主要8ケ国)の国際的な経済問題に関する協議でも、途上国はランチに招かれるだけだ。しかもそこでは協議内容が伝えられるにすぎず、意思決定に影響を与えることは出来ない。
 国際金融でも、国際通貨基金(IMF)は投票権の割り当てについて改革案を出しているが、新しい割り当てがあったにしても本質的な変化はないという状況だ。
 米国は拒否権を持ち続ける唯一の国で、米国と欧州が一緒になれば、多数票を構成するため、(その他の国の)意見を聞く必要がない。
 グローバリゼーションが進む中で、国際金融システムの不安定化も浮き彫りになっている。現在、金は貧困国から富裕国に流れている。世界一の富裕国である米国は毎日、貧困諸国から多額の借金を重ねているさまだ。
 本来、金は富裕国から貧困国に流れ、リスクは貧困国から富裕国に移転されるべきだが、実現できていない。貧困諸国がリスクの矢面に立たされている。こうした国際金融システムの欠陥の裏には、ドル本位の国際準備制度がある。
 米国は’貿易赤字の原因は中国の不公正な為替政策にある’と非難してきたが、中国や日本の保有する大量のドルは世界経済の安定化に寄与している。しかし、準備通貨発行国の米国の負債が際限なく膨らんだ場合、最後にはドルから準備通貨の資格が失われてしまう。そうなれば、ドル大暴落を招き、世界経済が深刻な危機に直面するのは確実だ。」

 どうも、ここ、即ちドルが準備通貨の資格を失うと言うところに本当の問題があるようで、国際間で金融危機・破綻に関する取り決めをすることも必要かもしれないが、それだけでは解決できそうにもなさそうだと言うことが私にも理解できたが、これはドルの暴落にとどまらぬ大変なことだ。

今日は2007年11月13日であるが、スティグリッツ氏の言うとおり、問題は長期化し当初予想された損害よりも拡大している。日経は11月11日付きで、欧米金融13社の損失を5兆5千億円と報告しているが、世界全体では一時の12兆円が17兆円に膨らんだといわれており、どこまで増えるのか解からないようだ。それよりもびっくりしたのは、11月12日の時事通信はサブプライムに端を発した株の下落によりこの一週間で東証一部の時価総額が56兆5千億円減少したとある。間接被害が如何に大きいか!
 一つだけ、今までにない動きが出てきた。それは大手米国3銀行がサブプライム問題をきっかけに不安定な状態が続く金融市場の梃入れ策として、サブプライム基金(8兆円から11兆円のレベル)を年内に発足させることになったことである。ソロス氏が国際社会に期待していたことはこういう対策をさしていたのであろうか?

 一部の日本人解説者などは米国だけに留まらずG8レベルで基金を出し合うべきだとの主張する向きもあるが、米国が原因でおきた問題に世界が金を出すことへの違和感を免れない。一方ではそのような主張が成されるということは、この問題がそこまで大きいということを証左しているとも言えよう。
 エモット氏がいうように「サブプライム」も含めて米国経済が世界の景気を支えていたと言うこともあろうが、一方スティグリッツ氏が言うとおり、米国が今のままであり続けるならば世界がドル大暴落に向かい、世界は、とりわけ米国を中心とする先進諸国は、環境問題同様にその知恵を試されていると言うことになるのであろう。まるでひとごとのようには書いているが、世界にとって大きな心配の一つである。

 最後に、ジョージ・ソロス、ビル・エモット、ジョセフ・スティグリッツの3氏が取り上げておらず、私もここまで十分に説明しきれていない問題点を指摘しておきたい。
 それは、「膨大な資金量の運用がその意図していることとは別に投機同様の結果を生む」ことを指摘してきたが、これこそが資本主義の根本に関わる問題ではなかろうか?
 資本主義とは本来、節約・倹約して生み出した余剰利益を再投資してマルクスの言うとおり拡大再生産を続けるわけであり、このことが産業資本の形成に結びついてゆく。然るに、
投機という行為はきわめて短期間に利益を求めることだけであり、必ずしも拡大再生産には結びつかず、このような資本は商業資本と呼ばれており、本来の資本主義とは別物と考えられてきている。資本主義の原点である「節約・倹約」するという倫理にもとるという点では「額に汗をかかない」という言葉が相応しいとも言えるし、倫理なき経済活動とも言えよう。
 この国際金融における「投機」という行為を資本主義のなかにどうのように調和させていくべきなのかという大きな問題が潜んでいるようにも思われるが、私の解説の範疇を超えていることだけは確かである。 

(2007年11月13日)