杉並の純一郎(3)

2009年12月で68歳に!
先の戦争が一体なんだったのかを今一度勉強し、次の世代に伝えてゆきたい。

資本主義の危機?? 投資と投機の混在。

2007-05-31 07:46:04 | Weblog
  資本主義の危機?? 投資と投機の混在

 最近よくヘッジ・ファンドのことが話題に成り、批判もされる。しかし、一方では現代において資本主義以外の経済制度という選択肢はなく、従って、グローバルな資本主義社会ではヘッジ・ファンドも無視できない役割を負った存在である。では、一体何が問題なのか?額に汗しないで金を動かすだけで稼ぐ金融資本はそんなに悪なのか?この問題はそう簡単ではない。なぜなら日本も所謂グローバル資本主義の中にいるからであり、批判するだけの立場ではなく当事者でもあるからである。平和が長く続くことは良いことであり、こと日本を中心に考えれば平和は60年続いたわけだ。そして平和が長続きすれば、経済勝ち組み国家には資本が蓄積される。このことは言葉を変えれば金余りになり、この金が規制緩和を通じて世界を自由に動き回りしばしば悪さをするのだ。皮肉に言えば平和の代償でもある。

 その昔は金持ちの数(金余りの人)が限られており、又殆どの国が自由な金の動きに規制をかけていたので、この余った金を使える対象は限られていた。かって、それはスイスが中心であった。そのような金(資金)を動かして稼ぐ行為を投機と言い、そのようなことをする限られた輩(やから)を「チュリッヒの小鬼(こおに)」と読んでいたことをご記憶の方もいるでしょう。当時は対象になったのは貴金属や先物相場であった。いまでは、為替も含めカネの流れが自由になったことで、この小鬼は何処にでも存在し、そのカネを動かして世界中を自由に歩きまわっている。
 カネの流れが国際的に自由になった結果、その量が巨大であることも手伝って、これらのカネが動くときにはヘッジ(本来は二股を掛けるという意味だが、危険を避ける、危険を分散するの意)を越えて投機的様相を招きやすい。ヘッジ・ファンドと言われる所以であるが、これを上品に呼ぶ人たちは投資ファンドともいうが余剰資金の危険を避けるのも、投機につながる資産の運用も実態は同じになることが多い。

 そのような中でおきたのが1997年のタイに始まるアジア金融危機であり、ヘッジ・ファンドの良し悪しを巡ってマレーシアのマハティールとジョージソロスが論争した。マハティールはアジアの小国を揺るがすような金融資本の好き勝手は、小国の経済運営に死活的であり、そのような横暴は赦すべきでない、国によっては規制されるべきと出張した。ソロスは国際金融資本を代弁しグローバル社会での金融資本の役割を述べその自由な動きを主張した。マハティールは自国の金の出入りを規制することでその危機を乗り切り、そうでないインドネシア、タイ等は金融危機におちいる。そしてソロスはその後国際金融システムに欠陥があったということを認識して書いた本が「グローバル資本主義の危機」である。
 その内容を一言で言えば「ある国で大きな債務不履行が起きると世界中の金融機関がその影響から逃れるために、資金を一気にしかも大量に引き上げてしまうことによる混乱であり、弱い国々を破滅的な金融事情に追い込んでしまう。それに対して国際金融システムはそれに対応できるだけの制度もなければ連携も出来ていない」ということであろう。

 私が思うに資本主義とは投資であり投機ではない。産業資本は資本蓄積だが、商業資本は時として投機にも変わる。長期投資と短期投資にわけ短期投資を投機的と表現する向きもあるが、これはまやかしに他ならない。言い換えると本来資本主義とは投機的経済行為を避けることであったが、今や世界的な金余りの中で投資と投機が混在してきていて判別しがたい。
 そして、このような世界的規模で動き回る投資・投機両者織り交ぜた大量な資金をどう管理・監督してゆくのか、ソロスは前述の本に提案を書いてはいるが、世界はまだ答えを見つけていないし、その中心と成るアメリカはこのことをあまり気にかけていないようだ。自らが国際金融で強い立場にあるからだろうか?

 アジア危機を契機に日本はアジアのためアジア世界銀行を設立し日本の余剰なドルを活用してアジアの金融危機に備えようとしたが、残念ながらアメリカ政府を通じ国際金融資本の圧力でその計画はもろくも潰されてしまった。そして、最近になって、日本は再度国際的な場―IMF、G7/8蔵相会議等―でその必要性を言い出している状況であるが、今回はうまく行くことを期待したい。完全な治療法ではないかもしれないが、一つの安全弁であることは確かであるからだ。

 グローバルな資本主義社会の中での金融問題(金余り)はとても重要なことであるので、その良し悪しに拘わらず世界はこの問題とどうしても立ち向かわなければならない。そう簡単に額に汗を掻かないといって非難するだけではすまない大きな問題であることを認識しておく必要があると思う。繰り返しになるが日本も金余り状態にあり我々も日本の金融機関を通じてこのヘッジ・ファンドの利用者でもあることをも理解する必要もある。そしてこの問題を放置すれば世界的レベルで金融恐慌もおこりうるし、その結果保護主義がはびこることにもなる。ソロスの言うとおり「資本主義の危機」につながる問題であるのだ。

 少し大雑把に書きすぎているが、細かく言い出すとあれもこれも書くことになり、大枠で理解するのが難しくなる。これは、「資本主義が世界レベルで発展し、カネが大量に余り、それが自由に世界を動くことで、投機的な資金と変わりうる。そこでは経済的に弱い国が、金融自由化と言う言葉に踊らされ、カネの出入りを自由にしておくと、金融危機が起きた場合その国が大きな被害を受ける話であるが、小国にだけ起こる話ではなく、大国の間でも大量な資金をもつ経済的に強い国とそうでない弱い国の間では起こりうる話である。」程度の理解でよかろう。

 これは結果として国と国の問題として見えることになるが、このカネを動かしている連中にとってはそんなことはなんら意識の中にはない話であり、国を超えた世界的な枠組みの中で自分たちのカネを必至に守ろう、増やそうとしているだけである。
 だからこそ話がややこしくなるのであろうが、世界が国際金融システムに安全弁を必要としていることだけは確かである。

「南京虐殺」と言う虚構は証明された

2007-05-24 10:47:31 | Weblog
「南京虐殺」という虚構は証明された

私はこの4月から拓大のオープンカレッジに通いだした。週一度午後6時半からの2時間、公開講座「新日本学」への聴講である。
そして先週は第5講東中野修道、今週は第6講藤岡信勝両氏で南京問題を聞く機会をえて改めて思うことは「南京虐殺」という虚構は証明されたといってよいのだという確信を持つに至ったことである。

正直言って私は2年程前までは、「南京虐殺」ということが規模の違いがあるにせよ、存在しているだろう事には疑いを持っていなかったし、これを否定する日本の一部学者並びにその主張に対して、胡散臭さを感じて関連の書籍・資料等は読んでいなかったのである。

しかしながら、ユン・チアンの「マオ」を読んで、これはと思うことが二つ書かれており、日本での研究についても考えなければと思うようになった。

・1936年 西安事件 ご存知とも思うが、張学良が蒋介石を監禁しスターリンに支援を求め、中国全土の支配を試みた事件である。結果失敗に終わるのだが、このとき蒋介石はスターリン並びに中国共産党の間で国共合作を強いられ、自らの国民党の陣営に共産党のスパイを宣伝部長に受け入れることになる。これで国民党が南京事件に絡む結果を生み、その宣伝謀略の初仕事が南京事件となった。西安事件1936年12月、国民党中央宣伝部国際宣伝処1937年11月中旬、南京事件1937年12月

・この西安事件には毛沢東もからんでおり、毛はスターリンの国共合作の指令を何とか回避して張学良に蒋介石を殺害させようとするが失敗する。同時にスターリンの不興を買い、毛は一時期中国共産党NO.1の地位を‘王’に譲ることになるのでが、ユン・チアンは「マオはこの時期のスターリンの扱いに終生、繰言を言うのだが、自らの民族への虐殺であった南京事件には一言も述べていない。」と書き、暗に「南京事件」の存在を否定しているかのような表現と受け止められた。

そして、「南京事件」について何冊かの本を読むことになったが、極め付きは東中野修道の「南京事件 国民党極秘文書から読み解く(草思社)」であり、ここで「マオ」と繫がったのである。日本での「マオ」の初版は2005年11月、そして「南京事件 国民党、、、」は2006年5月、そして同書にも「マオ」の西安事件は触れられていた。

詳しくは両書をお読みいただければ分かるのだが、
「虚構が証明されている」と言って良い。虐殺などは一切存在していなかった。全ては謀略であったのだ。

東中野氏の話では「南京事件がなかったということを証明するものはいまだ存在しないが、有ったといわれている証拠も調べていくとその証拠能力はひとつも無い」と言っている。

藤岡氏は講義のなかで、南京事件はこの10年で色々な情報が出てきたことで解明が進み、なかでも東中野修道の役割は大きかったという。又、民間人ではあるが富澤繁信という元銀行役員が関連情報をコンピューターに入力したことでこれまで断片的であった戦闘事実を総合的に分析することができるようになり、虐殺などなかったことが分かるようになった、この功績も大きいと話している。私はこの富澤さんのことは存じ上げてはいない。
藤岡氏はさらに日中歴史研究に絡み今年になって中国から来た二人の学者が「虐殺30万人は政治的な数字である」と発言していると言う。おそらく、中または小虐殺を日本に認めさせて手をうとうとしているのだろうが、絶対その手に乗るべきでないと発言され、会場は拍手で包まれた。

ここまで来たのなら政府の出番であろうが動きは鈍い。東中野氏は「日本南京学会会長」として今年に入ってから国会議員会館で連続講座を始められているから、少しは期待が持てそうだ。
しかし、ご存知のように今年アメリカでは南京虐殺70周年ということで中国系の団体が映画作りと謀略宣伝に力をいれている。

日本でも有志により「南京の真実」という映画が製作中であり、中国系の動きに対抗しようとしているが充分ではない。政府が早くその思い腰を揚げてくれることが一番ではあるのだが、我々市井の人間に出来ることはないのだろうか?

例えば、中国大使館にデモをかける!プラカードは、

    南京事件は虚構! 嘘つき中国人!

 ついでにアメリカ大使館にも、

    LIAR,Chinese! Nang King,Fiction!

どうかな??

モンゴルと日本

2007-05-17 03:33:22 | Weblog
 モンゴルと日本

 先日、産経のコラム「話の肖像画」に出ていたモンゴル大統領顧問になり最近日本に帰化したチベット人ペマ・ギャルポ氏の話を出しましたが、そのなかで特に興味を引いたことが一つあったので書き留めておきます。

 今年の2月にモンゴル大統領の訪日のときのことを、ペマ氏は話しています。

「分刻みの日程のなかで印象的だったのは、大統領が神奈川県藤沢市の常立寺を訪問したことです。約730年も前の元寇時の元の使者、杜世忠ら5人を供養した元寇塚があり、大統領はモンゴルの高僧を伴い焼香しました。大統領夫人が‘長年供養してくださり有難う御座います’と住職に声をかけていました。
また、博多湾で起きた元寇の戦死者を供養する日蒙合同慰霊祭が3月1日、福岡市で行われ、モンゴルのチベット仏教の高僧が大導師を務めました。元寇から700年以上の時を経て、日蒙友好協力関係の象徴的な行事となりました。」

産経注 元使塚は1275年、幕府の執権北条時宗によって、近くの瀧の口刑場で処刑された杜世忠ら五人の供養塔。元寇によって、日蒙両軍で14万人もの犠牲者が出たといわれる。

 私はこの話を読んで大変感激しました。

 日蒙とも700年間、このことを気にかけていた。蒙古は日本とのつながりを忘れておらず、そして日本が寺を立て供養し続けていたことを調べてきている。このお互いの思いは何か?改めて日蒙それぞれの思い、700年のときの流れに思いをはせることのできるその心意気、すごさ、見事さを感じざるを得なかった。双方ともに大乗仏教の国ではあるということだけでは片付けられない何かを感じる次第。
なお、大乗仏教がモンゴルを経て日本に伝わったことは理解していたが、モンゴルがチベットの大乗密教を今もって信仰していることは知らなかった。

 日本がモンゴルと手を組んでチベットへの関心を示し、中国を牽制するというようなことにはならないのか?そうあって欲しいものだが。
 日蒙関係は大相撲だけに有らずですね!

日本人はチベットに何を思うべきか?

2007-05-10 12:16:16 | Weblog
     日本人はチベットになにを思うべきか?

 産経のコラム「話の肖像画」に今週登場したのはペマ・ギャルポ氏、モンゴル大統領顧問とあるが、氏がチベット人であり、チベット仏教の指導者として日本からダライ・ラマ14世を支えてきたことは皆さんもご存知であろう。

 今回、この記事が出たからこのことを書いたのではない。台湾の次に日本が考えなければならないのはチベットの問題だと考えて来ているからだ。 
 チベットの歴史を簡単に言えばチベットはかって独自の国家であったが、1949年中国に侵略され今では中国の一部とされてしまっている。その間そして現在に至るも中国はチベットの中国化のためありとあらゆることを行ってきている。仏教寺院の破壊、チベット人への暴力・拷問・虐殺、漢民族の移住、チベット文化を消滅させるためにありとあらゆることをやってきているといってよい。多くのチベット人はチベットを逃れインドでの亡命生活を送ってきているが中印関係の改善により、その立場は悪くなりつつあるようだ。そしてそのチベットで中国としての施策を成功させて来た人物は、胡錦濤である。

 そして国際社会はそれなりに中国を非難してきているが日本ではこの問題は大きく取り上げられることなく、いやむしろ中国に気兼ねして記事を出してきていないといっても良いであろう。私はチベット問題に光を当てる必要があると思っている。

 昨年秋にはチベット国境の雪山を徒歩で越えネパールへ脱出しようとする尼僧を中国の国境警備隊が狙撃し、たまたまその山の反対側にいたヨーロッパの登山隊が、狙撃され倒れこむ姿を映像に捉え、その映像が世界中を駆け巡ったのであるが、日本では産経を除き、これが大きく取り上げられることなかった。そしてこれを大きく取り上げたのはブログであり、その映像も you tube を通じ見ることが出来た。しかし、これを見れたことを素直に喜ぶわけには行かない。いうまでもない、罪もない人を射殺した殺人の現場映像であり、中国政府は今回に限らずこの殺人を意図して行って来ているからだ。

 チベットは仏教を信仰しているなどというよりは仏教そのものの国家といっても良かろう。細かく言えばチベットの仏教は小乗仏教も入っており、密教ということで在家制度を主としているので日本の大乗仏教とは異なるが、大まかに言えば日本と同じ数少ない大乗仏教の国である。
 だからといってすぐにチベットの肩を持つということに違和感を抱く人も多いかもしれないが、一方では同じ宗教を信じる人を支援するということも大切なことである。しかも、それらの人々が中国の圧制・暴力の下で苦しんでいると成ればなおさらのことではないのだろうか?
 日本人の一人として中国の暴力的支配に犯され、独立を断念しつつある状態の人々を、同じ大乗仏教を信じる日本人が支援しないで、一体誰にできるというのだろうか?

 日本は現在ダライ・ラマ14世の日本での活動を中国の圧力を受け、厳しく制約し一切の政治的活動を行わないことで入国を許可している。そのためにチベットでの中国の暴虐はいっそう日本に伝わりにくくなっている。民主主義国家として許されないことではないだろうか。

 台湾の民主主義擁護とチベット自治区でのチベット人の自由の確保、今一歩、日本政府は対中政策の中に含めてもらえないであろうか。それが新しい日本の主張にもなるし、武力の行使を避けてきている日本の外交力の一つであり日本をまもるソフトの一つでもあるのだから。

 偶然では有るが、一昨日あるところで黄文雄の話を聞く機会があった。そのなかで、彼は一つだけ日本の悪口を言っている。「日本の国会議員のなかで誰一人として台湾の民主主義を擁護するものがない。日本はほんとに民主主義国家なのか」と。この言葉の意味は重い。
 彼が言ったからということでなく日本人が心しなければならないことだからだ。

 日本はこの台湾とチベットという二つの問題を避けて通っては成らない。台湾・チベットのためだけでなく、日本が中国に立ち向かい、アジアに民主主義を普及し、そして何よりも日本を守る為の大きな力になるからである。