資本主義の危機?? 投資と投機の混在
最近よくヘッジ・ファンドのことが話題に成り、批判もされる。しかし、一方では現代において資本主義以外の経済制度という選択肢はなく、従って、グローバルな資本主義社会ではヘッジ・ファンドも無視できない役割を負った存在である。では、一体何が問題なのか?額に汗しないで金を動かすだけで稼ぐ金融資本はそんなに悪なのか?この問題はそう簡単ではない。なぜなら日本も所謂グローバル資本主義の中にいるからであり、批判するだけの立場ではなく当事者でもあるからである。平和が長く続くことは良いことであり、こと日本を中心に考えれば平和は60年続いたわけだ。そして平和が長続きすれば、経済勝ち組み国家には資本が蓄積される。このことは言葉を変えれば金余りになり、この金が規制緩和を通じて世界を自由に動き回りしばしば悪さをするのだ。皮肉に言えば平和の代償でもある。
その昔は金持ちの数(金余りの人)が限られており、又殆どの国が自由な金の動きに規制をかけていたので、この余った金を使える対象は限られていた。かって、それはスイスが中心であった。そのような金(資金)を動かして稼ぐ行為を投機と言い、そのようなことをする限られた輩(やから)を「チュリッヒの小鬼(こおに)」と読んでいたことをご記憶の方もいるでしょう。当時は対象になったのは貴金属や先物相場であった。いまでは、為替も含めカネの流れが自由になったことで、この小鬼は何処にでも存在し、そのカネを動かして世界中を自由に歩きまわっている。
カネの流れが国際的に自由になった結果、その量が巨大であることも手伝って、これらのカネが動くときにはヘッジ(本来は二股を掛けるという意味だが、危険を避ける、危険を分散するの意)を越えて投機的様相を招きやすい。ヘッジ・ファンドと言われる所以であるが、これを上品に呼ぶ人たちは投資ファンドともいうが余剰資金の危険を避けるのも、投機につながる資産の運用も実態は同じになることが多い。
そのような中でおきたのが1997年のタイに始まるアジア金融危機であり、ヘッジ・ファンドの良し悪しを巡ってマレーシアのマハティールとジョージソロスが論争した。マハティールはアジアの小国を揺るがすような金融資本の好き勝手は、小国の経済運営に死活的であり、そのような横暴は赦すべきでない、国によっては規制されるべきと出張した。ソロスは国際金融資本を代弁しグローバル社会での金融資本の役割を述べその自由な動きを主張した。マハティールは自国の金の出入りを規制することでその危機を乗り切り、そうでないインドネシア、タイ等は金融危機におちいる。そしてソロスはその後国際金融システムに欠陥があったということを認識して書いた本が「グローバル資本主義の危機」である。
その内容を一言で言えば「ある国で大きな債務不履行が起きると世界中の金融機関がその影響から逃れるために、資金を一気にしかも大量に引き上げてしまうことによる混乱であり、弱い国々を破滅的な金融事情に追い込んでしまう。それに対して国際金融システムはそれに対応できるだけの制度もなければ連携も出来ていない」ということであろう。
私が思うに資本主義とは投資であり投機ではない。産業資本は資本蓄積だが、商業資本は時として投機にも変わる。長期投資と短期投資にわけ短期投資を投機的と表現する向きもあるが、これはまやかしに他ならない。言い換えると本来資本主義とは投機的経済行為を避けることであったが、今や世界的な金余りの中で投資と投機が混在してきていて判別しがたい。
そして、このような世界的規模で動き回る投資・投機両者織り交ぜた大量な資金をどう管理・監督してゆくのか、ソロスは前述の本に提案を書いてはいるが、世界はまだ答えを見つけていないし、その中心と成るアメリカはこのことをあまり気にかけていないようだ。自らが国際金融で強い立場にあるからだろうか?
アジア危機を契機に日本はアジアのためアジア世界銀行を設立し日本の余剰なドルを活用してアジアの金融危機に備えようとしたが、残念ながらアメリカ政府を通じ国際金融資本の圧力でその計画はもろくも潰されてしまった。そして、最近になって、日本は再度国際的な場―IMF、G7/8蔵相会議等―でその必要性を言い出している状況であるが、今回はうまく行くことを期待したい。完全な治療法ではないかもしれないが、一つの安全弁であることは確かであるからだ。
グローバルな資本主義社会の中での金融問題(金余り)はとても重要なことであるので、その良し悪しに拘わらず世界はこの問題とどうしても立ち向かわなければならない。そう簡単に額に汗を掻かないといって非難するだけではすまない大きな問題であることを認識しておく必要があると思う。繰り返しになるが日本も金余り状態にあり我々も日本の金融機関を通じてこのヘッジ・ファンドの利用者でもあることをも理解する必要もある。そしてこの問題を放置すれば世界的レベルで金融恐慌もおこりうるし、その結果保護主義がはびこることにもなる。ソロスの言うとおり「資本主義の危機」につながる問題であるのだ。
少し大雑把に書きすぎているが、細かく言い出すとあれもこれも書くことになり、大枠で理解するのが難しくなる。これは、「資本主義が世界レベルで発展し、カネが大量に余り、それが自由に世界を動くことで、投機的な資金と変わりうる。そこでは経済的に弱い国が、金融自由化と言う言葉に踊らされ、カネの出入りを自由にしておくと、金融危機が起きた場合その国が大きな被害を受ける話であるが、小国にだけ起こる話ではなく、大国の間でも大量な資金をもつ経済的に強い国とそうでない弱い国の間では起こりうる話である。」程度の理解でよかろう。
これは結果として国と国の問題として見えることになるが、このカネを動かしている連中にとってはそんなことはなんら意識の中にはない話であり、国を超えた世界的な枠組みの中で自分たちのカネを必至に守ろう、増やそうとしているだけである。
だからこそ話がややこしくなるのであろうが、世界が国際金融システムに安全弁を必要としていることだけは確かである。
最近よくヘッジ・ファンドのことが話題に成り、批判もされる。しかし、一方では現代において資本主義以外の経済制度という選択肢はなく、従って、グローバルな資本主義社会ではヘッジ・ファンドも無視できない役割を負った存在である。では、一体何が問題なのか?額に汗しないで金を動かすだけで稼ぐ金融資本はそんなに悪なのか?この問題はそう簡単ではない。なぜなら日本も所謂グローバル資本主義の中にいるからであり、批判するだけの立場ではなく当事者でもあるからである。平和が長く続くことは良いことであり、こと日本を中心に考えれば平和は60年続いたわけだ。そして平和が長続きすれば、経済勝ち組み国家には資本が蓄積される。このことは言葉を変えれば金余りになり、この金が規制緩和を通じて世界を自由に動き回りしばしば悪さをするのだ。皮肉に言えば平和の代償でもある。
その昔は金持ちの数(金余りの人)が限られており、又殆どの国が自由な金の動きに規制をかけていたので、この余った金を使える対象は限られていた。かって、それはスイスが中心であった。そのような金(資金)を動かして稼ぐ行為を投機と言い、そのようなことをする限られた輩(やから)を「チュリッヒの小鬼(こおに)」と読んでいたことをご記憶の方もいるでしょう。当時は対象になったのは貴金属や先物相場であった。いまでは、為替も含めカネの流れが自由になったことで、この小鬼は何処にでも存在し、そのカネを動かして世界中を自由に歩きまわっている。
カネの流れが国際的に自由になった結果、その量が巨大であることも手伝って、これらのカネが動くときにはヘッジ(本来は二股を掛けるという意味だが、危険を避ける、危険を分散するの意)を越えて投機的様相を招きやすい。ヘッジ・ファンドと言われる所以であるが、これを上品に呼ぶ人たちは投資ファンドともいうが余剰資金の危険を避けるのも、投機につながる資産の運用も実態は同じになることが多い。
そのような中でおきたのが1997年のタイに始まるアジア金融危機であり、ヘッジ・ファンドの良し悪しを巡ってマレーシアのマハティールとジョージソロスが論争した。マハティールはアジアの小国を揺るがすような金融資本の好き勝手は、小国の経済運営に死活的であり、そのような横暴は赦すべきでない、国によっては規制されるべきと出張した。ソロスは国際金融資本を代弁しグローバル社会での金融資本の役割を述べその自由な動きを主張した。マハティールは自国の金の出入りを規制することでその危機を乗り切り、そうでないインドネシア、タイ等は金融危機におちいる。そしてソロスはその後国際金融システムに欠陥があったということを認識して書いた本が「グローバル資本主義の危機」である。
その内容を一言で言えば「ある国で大きな債務不履行が起きると世界中の金融機関がその影響から逃れるために、資金を一気にしかも大量に引き上げてしまうことによる混乱であり、弱い国々を破滅的な金融事情に追い込んでしまう。それに対して国際金融システムはそれに対応できるだけの制度もなければ連携も出来ていない」ということであろう。
私が思うに資本主義とは投資であり投機ではない。産業資本は資本蓄積だが、商業資本は時として投機にも変わる。長期投資と短期投資にわけ短期投資を投機的と表現する向きもあるが、これはまやかしに他ならない。言い換えると本来資本主義とは投機的経済行為を避けることであったが、今や世界的な金余りの中で投資と投機が混在してきていて判別しがたい。
そして、このような世界的規模で動き回る投資・投機両者織り交ぜた大量な資金をどう管理・監督してゆくのか、ソロスは前述の本に提案を書いてはいるが、世界はまだ答えを見つけていないし、その中心と成るアメリカはこのことをあまり気にかけていないようだ。自らが国際金融で強い立場にあるからだろうか?
アジア危機を契機に日本はアジアのためアジア世界銀行を設立し日本の余剰なドルを活用してアジアの金融危機に備えようとしたが、残念ながらアメリカ政府を通じ国際金融資本の圧力でその計画はもろくも潰されてしまった。そして、最近になって、日本は再度国際的な場―IMF、G7/8蔵相会議等―でその必要性を言い出している状況であるが、今回はうまく行くことを期待したい。完全な治療法ではないかもしれないが、一つの安全弁であることは確かであるからだ。
グローバルな資本主義社会の中での金融問題(金余り)はとても重要なことであるので、その良し悪しに拘わらず世界はこの問題とどうしても立ち向かわなければならない。そう簡単に額に汗を掻かないといって非難するだけではすまない大きな問題であることを認識しておく必要があると思う。繰り返しになるが日本も金余り状態にあり我々も日本の金融機関を通じてこのヘッジ・ファンドの利用者でもあることをも理解する必要もある。そしてこの問題を放置すれば世界的レベルで金融恐慌もおこりうるし、その結果保護主義がはびこることにもなる。ソロスの言うとおり「資本主義の危機」につながる問題であるのだ。
少し大雑把に書きすぎているが、細かく言い出すとあれもこれも書くことになり、大枠で理解するのが難しくなる。これは、「資本主義が世界レベルで発展し、カネが大量に余り、それが自由に世界を動くことで、投機的な資金と変わりうる。そこでは経済的に弱い国が、金融自由化と言う言葉に踊らされ、カネの出入りを自由にしておくと、金融危機が起きた場合その国が大きな被害を受ける話であるが、小国にだけ起こる話ではなく、大国の間でも大量な資金をもつ経済的に強い国とそうでない弱い国の間では起こりうる話である。」程度の理解でよかろう。
これは結果として国と国の問題として見えることになるが、このカネを動かしている連中にとってはそんなことはなんら意識の中にはない話であり、国を超えた世界的な枠組みの中で自分たちのカネを必至に守ろう、増やそうとしているだけである。
だからこそ話がややこしくなるのであろうが、世界が国際金融システムに安全弁を必要としていることだけは確かである。