杉並の純一郎(3)

2009年12月で68歳に!
先の戦争が一体なんだったのかを今一度勉強し、次の世代に伝えてゆきたい。

米大統領とノーベル賞

2009-11-13 14:00:13 | Weblog

 10月10日の産経はワシントン山本記者によるノーベル賞受賞のオバマ大統領に関連して、ノーベル賞を受賞した歴代の米大統領の在職中の受賞は難局続きと知らせてくれている。
 その中で私が注目したのは日ロ戦争の講和仲介による受賞したセオドア・ルーズベルトの話である。山本氏はルーズベルトが講和を急いだ理由はドイツ皇帝が講和に乗り出し「漁夫の利」を得ることを避けるためであるとしている。

<【ワシントン=山本秀也】オバマ米大統領の受賞が決まったノーベル平和賞は、これまで2人の米大統領が在職中に受賞している。日露戦争の講和を仲介したセオドア・ルーズベルト(1906年)、国際連盟創設を主導したウッドロー・ウィルソン(19年)だが、いずれも受賞理由とは裏腹の政治状況に直面するなど、現職の米大統領が「平和の使徒」となる難しさを示している。

ポーツマス条約(1905年)で日露講和を実現したルーズベルトは、受賞と前後してカリフォルニアで高まり始めた日系移民排斥問題の処理に追われた。日米関係が冷え込む中、07年には米戦艦16隻の大艦隊を日本などに差し向ける軍事プレゼンスの誇示に傾いた。
 講和仲介の横顔とは印象は異なるが、ジョン・クーパー教授(米ウィスコンシン大学―米国史)は、「日英、露仏が同盟を結ぶ当時、ルーズベルトが日露講和を急いだ理由は、ドイツが漁夫の利を得ることを避けるためだった」と指摘。受賞理由が、実は「パワーゲームの一環に過ぎなかった」と語った。>

 確かにそのような側面もあったのだろう。だが、歴史はいま一つ別の側面を知らせている。
 ウッドハウ暎子氏は「日露戦争を演出した男モリソン」(新潮文庫)を書いているが、その下巻にこうある。

P152 ルーズベルトの思惑。
(日本政府は開戦と同時に3人の人物を欧米に送り出す。高橋是清―戦費調達、末松謙澄―欧州での対日感情対策、金子堅太郎―米世論操作並びに講和の斡旋依頼。金子はルーズベルトとはハーバード大の同窓。日露開戦は1904年2月。純一郎注)
<御前会議で開戦が決定された2月4日の晩、伊藤博文は金子に、
「アメリカへ行って、アメリカ国民を日本側につけるための工作をし、又、ルーズベルトに、時期が来たら講和の斡旋調停をやってもらうよう説得してもらいたい」と依頼した。>
<P182 カイザー、再び乗り出す
1905年5月31日、小村は日本海海戦の快勝という好機をとらえて、ルーズベルトに、「日本はロシアと直接交渉に入る用意があるので、斡旋の任を大統領にお願いした」と、正式に依頼した。ルーズベルトはこれを快諾、翌日から精力的に動き出した。>
(この時点で日本はこれ以上戦争を続けるにしても財政的な裏づけがない状態にあり講和を必要としていたが、一方のロシア・ロマノフ王朝には戦争を続ける余力はまだあった。純一郎注)
 精力的に動き出したルーズベルトは駐米ロシア大使カッシーニを使いツアーに和平を勧めるがこの工作は上手く行かない。ツアーが動かないのだ。
<ところが、ここに助けが現れた。カイザーである。
海戦での大敗北をみたカイザーは、ここらでツアーに戦争を止めさせようと決心した。、、、、、
カイザーがこのように熱心に講和斡旋に乗り出したのには、ロシア国内の革命への動きも理由の一つになっていた。革命でロシアの専制制度が崩壊すれば、革命はドイツへも飛び火し、自分の専制君主たる位置が脅かされるかもしれないと危険を感じたからである。
 6月3日、カイザーはツアーに長文の書簡を送り、ルーズベルトの斡旋を受け入れて講和を結ぶべきであると説いた。>
 ウッドハウス暎子氏はこの辺りのいきさつを詳しく書いており興味深いが、講和を急いだのはルーズベルトではなく、むしろカイザーであったという彼女の話に軍配をあげたい。

 それよりも、私にとって意外であったのは日本が講和の斡旋をルーズベルトに依頼していたことである。しかし、それは同時に私が抱いていた、何故アメリカがあの時点で外交の表舞台に突然躍り出てきたのかという疑問をも解いてくれた。この辺りの事情は又改めて書く機会もあろうが、ここで指摘しておきたいのは日ロ戦争を前後して世界の歴史が変わってゆくことになるのだが、そのことに日本は全く気がつかないでその後の世界に対応していたことであり、最終的にはこのことへの無知が大東亜戦争の原因にも成って行ったと言えるということである。
しからば、一体世界の歴史のどこが変わったのか?それは、幾つかある。

1.一番大きな変化、それは世界の覇権がイギリスからアメリカに平和裏に移り始めたということである。19世紀後半に英国は植民地の大半が独立してゆくにつれ、世界の七つの海を英国一国で賄うことが出来なくなってきた。1898年イギリスはアフリカでボーア戦争を始めるが、その時には既に財政不足が起きており、アメリカ資金に依存している。そして、何時の時点かははっきり解らないのだが世紀の変わり目前後にイギリスはアメリカと戦争をしない(アメリカの国力には適わない)ということを国是にしたようである。(幣原喜重郎 「外交50年」)そして、この覇権の平和裏の移譲は1942年のブレトンウッヅ会議で完了する。
2.1870年ごろからドイツとアメリカの国力の増大が顕著になってくる。特に、アメリカは国力の増大に留まらず、1865年の南北戦争後には国家としてのまとまりを一層求め始め、現在の米国領土を確定してゆく。
我々は学生時代にアメリカでは1890年代に西部フロンティアーは消滅したと教わったが、それは陸の上の話である。アメリカの西進は太平洋を止まることはなかった。ハワイとは1849年和親条約を、1884年に真珠湾を租借、1897年に併合条約を締結。
仕上げは、スペインとの戦争であるがアメリカはこれに勝利しカリブ海でキューバ、プエルトリコを支配下に置き、本土の安全保障を確実なものにした。このとき同時にアメリカはフィリピン・グアムをも領有することになる。時は1898年であり、フィリピンの北の台湾には1895年に日清戦争に勝利し台湾を手にした日本がいる。バシイ海峡を挟んで初めて日米は対峙するのであるが、翌1899年アメリカは対中国門戸開放宣言を行う、中国への利権参入表明である。(拓殖大学の日本研究所長井尻千男氏はこのあたりの状況を指摘し日米は必戦であったという。)
 前述の「日露戦争を演出した男モリソン」にはルーズベルトは講和の斡旋を行うときにすでに日米あいまみえることも考えていた(これがオレンジ計画に繋がってゆく)とあるが、一方の日本はどうであったか?迂闊にも1941年7月対米資産が凍結されるまで対米戦争の準備はなかったのである。(瀬島龍三 「幾山河」)所詮勝てる相手ではないという認識であったならそれは正しかったと言える。
3.部分的とは言え日露戦争で日本が勝ったということがどういう影響を世界に与えたのか?よく言われるのはインドのネールが「白人に勝つことができるのだ」と勇気を得たという非白人の話が出るが、白人の方はどうだったのだろうか?小国黄色人種に負けた大国ロシアは日本に恨みを持ちそれはスターリンに引き継がれ北方4島が盗られた。アメリカは自らの中国進出を目の前で妨げる日本が邪魔である。黒人を奴隷に、アメリカインディアンを殺戮してきたアメリカには黄色い猿の討伐もフロンティアーの仕上げには止むを得ない。と、どこまで思ったかは別として、日露戦争は人種対立を顕在化させたことには間違いない。第一大戦以降にはアメリカ、イギリス、オランダに限らずドイツ(三国同盟で緩和されるが)、ソ連も加えた白人包囲網(キリスト教同盟でもある)が日本を取り囲むことになる。クリストファー・ソーンは「米英にとっての太平洋戦争」でアメリカが中国を取り込んだ理由の一つに「人種戦争にさせない」という配慮があったと指摘しているが、それこそが人種戦争であったことの証左であろう。
4.日本に対米戦争の備えが1941年まで無かったことは前述のとおりであり、おそらくそのことは世界史における「不思議」として記憶されるのではないかと思うが、果たして日露戦争当時の日本はどうだったのだろうか?
 日本は日清・日露戦争に勝利したのであろうか?確かに日清戦争には勝利した。しかし、いずれの戦争も新興国民国家日本の正規軍と清王朝、ロマノフ王朝の傭兵との戦いである。武士道を引き継いだといわれる日本軍の精神力・勢いたるや傭兵との比較にはなるまい、勝って当たり前とも言える。日露戦争での勝利は陸海ともロシア帝国の東の端、極東での話であった。確かにロシア艦隊の撃滅はロシアにとって大きな打撃であり、屈辱であったにちがいない。しかし、皇帝ニコライ2世はルーズベルトの仲介なくばまだ戦争を続けるつもりにしていた。一方の日本はこれ以上戦争を継続する金が無かったのである。これでは本当の勝利とは言えまい。そしてこのことを国民に納得のゆく形で伝えなかったことが、「日本の大勝利」と勘違いしたままの国民感情を放置し、世界との間に認識の違いを生み、それがそのまま国策へと投影され、国際社会のなかで孤立して行くことになる。内村鑑三はそのような日本を見て、人がある時期に生意気になる様に、その当時の日本という国家は生意気になったのだと評しているが、明治維新から半世紀たち維新の第2世代(帝国大学エリート)の登場がそのような勘違い、思い上がりを生んだと言えるのではないのだろうか?鶴見俊輔はその共書「交換船」に記す。「日本は1905年(日露戦争終結)で変わったんだ。おやじと私のじいさん(後藤新平)を比較してみると、どう考えてもここで人間が変わったと思うね。学校の成績から言えば、おやじのほうがいいかもしれないけど、人間の見識はそういうところにない。その社会的性格がちがう。」

 我々はこれまで日本の近・現代史を明治維新とか敗戦とか言う括りだけで歴史を整理してきているが、どうもそこには限界がある様に思う。その前にもっと大きな括り、大項目があって、それは1900年前後、即ち覇権がアメリカへ移り始めアメリカが世界史のなかに大きく登場する時期を意味する。そしてそれを置いてみると、今もって世界がアメリカ覇権の中、もしくは終了時期に来ているのかも知れないが、にいるという現在の歴史的認識をすることが出来るのではないか?朝鮮戦争もベトナム戦争も、そしてイラク戦争までもがその中にある。そう考えればイラク戦争開始時点でブッシュが「イラクにも民主主義は育つ、日本を見てみろ」といったことも理解できる話になるのだ。
 何時この覇権がアメリカからどの様に、そして誰に、移るかは日本の安全保障にとって極めて重要な問題である。これを間違えると国の生存がかかるのだ。こんどこそ間違えないようにしたいものである。かといって必ずしも新しい覇権国家とすぐ同盟を結べば良いということにもならないのではあるが、そこが難しい。