杉並の純一郎(3)

2009年12月で68歳に!
先の戦争が一体なんだったのかを今一度勉強し、次の世代に伝えてゆきたい。

昭和34年外務省、残留徴用朝鮮人245人と発表

2010-03-12 01:02:50 | Weblog
昭和34年外務省発表 「戦時徴用で来日し、日本に残っているのは245人だけ」

 昨日10日の衆院外務委員会での高市早苗氏の質問に外務省が、「昭和34年の時点で戦時中の徴用令で来日し、日本に残っていた朝鮮人は245人」と明らかに。外務省は以下を昭和34年7月に報道発表している。(在日朝鮮人の内訳数はブログ著者が削除した)

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《一、第二次大戦中内地に渡来した朝鮮人、したがってまた、現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する。実情は次のとおりである。
  一九三九年末現在日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約一○○万人であったが、一九四五年終戦直前にはその数は約二○○万人に達していた。そして、この間に増加した約一○○万人のうち、約七○万人は自から内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加によるのであり、残りの三○万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したものであり、国民徴用令により導入されたいわゆる徴用労働者の数はごく少部分である。しかしてかれらに対しては、当時、所定の賃金等が支払われている。
 元来国民徴用令は朝鮮人(当時はもちろん日本国民であった)のみに限らず、日本国民全般を対象としたものであり、日本内地ではすでに一九三九年七月に施行されたが、朝鮮への適用は、できる限り差し控え、ようやく一九四四年九月に至って、はじめて、朝鮮から内地に送り出される労務者について実施された。かくていわゆる朝鮮人徴用労務者が導入されたのは一九四四年九月から一九四五年三月(一九四五年三月以後は関釜間の通常運航が途絶したためその導入は事実上困難になった)までの短期間であった。
 二、終戦後、在日朝鮮人の約七五%が朝鮮に引き揚げたが、その帰還状況を段階的にみると次のとおりである。
 ①まず一九四五年八月から一九四六年三月までの間に、帰国を希望する朝鮮人は、日本政府の配船によって、約九○万人、個別引き揚げで約五○万人合計約一四○万人が朝鮮へ引揚げた。右引揚げにあたっては、復員軍人、軍属および動員労務者等は特に優先的便宜が与えられた。
 ②ついで日本政府は連合国軍最高司令官の指令に基づき一九四六年三月には残留朝鮮人全員約六五万人について帰還希望者の有無を調査し、その結果、帰還希望者は約五○万人ということであったが、実際に朝鮮へ引揚げたものはその約一六%、約八万人にすぎず、残余のものは自から日本に残る途を選んだ。
 ③なお、一九四六年三月の米ソ協定に基づき、一九四七年三月連合国最高司令官の指令により、北鮮引揚計画がたてられ、約一万人が申し込んだが、実際に北鮮に帰還したものは三五○人にすぎなかった。
 ④朝鮮戦争中は朝鮮の南北いずれの地域への帰還も行わなかったが、休戦成立後南鮮には常時船便があるようになったので、一九五八年末までに数千人が南鮮に引揚げた。北鮮へは直接の船便は依然としてないが、香港経由等で数十人が、自からの費用で、船便を見つけて、北鮮に引揚げたのではないかと思われる。
 こうして朝鮮へ引揚げずに、自からの意思で日本に残ったものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であった。戦時中に渡来した労務者や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残ったものは極めて少数である。
 三、すなわち現在登録されている在日朝鮮人の総数は約六一万人であるが、最近、関係省の当局において、外国人登録票について、いちいち渡来の事情を調査した結果、右のうち、戦時中に徴用労務者としてきたものは二四五人にすぎないことが明らかになった。そして、前述のとおり、終戦後、日本政府としては帰国を希望する朝鮮人には常時帰国の途を開き、現に帰国した者が多数ある次第であって、現在日本に居住している者は、前記二四五人を含みみな自分の自由意思によって日本に留まった者また日本生まれのものである。したがって現在日本政府が本人の意思に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き一名もいない。
(情報源 阿比留瑠比氏ブログ)