新JOOKOのふぉとエッセイ

     東海道53次探検ウォークや、四季折々の出来事
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二伝寺に戻られた幡随意さん

2008-07-17 | 勢山社特派員だより
紫陽花が咲き誇る7月の初旬、藤沢市の二伝寺に幡随意(ばんずいい)さんが戻られました。梅雨本番なのに青空が広がり、生まれ変わったお像をお納めするのにふさわしい天候です。
          

幡随意さんの正式名称は「幡随意白道上人」といい、藤沢市善行で誕生しました。幼いころから僧侶にあこがれ、家族の反対を押し切って、11才の時に同じく藤沢市渡内の二伝寺にて出家したそうです。その後浄土宗の学僧として多くの寺で修行を重ね、京都百万遍知恩寺の住職等を経て、慶長9年(1604)には徳川家康から神田に寺領を賜り新知恩寺(のちの幡随院)を開創。学寮を設け多くの人材を育て上げました。又、家康の命で九州にてキリシタンの改宗につとめるなど、各地にその足跡を残しています。

平成18年、引き取りのため初めてお目にかかった時には、長い年月の疲れが重なっているかのような痛々しいお姿でしたので、勢山社への入院でどのように回復されたのかワクワクしながらの再会になりました。

目鼻立ちがはっきりしない状態だった幡随意さんのお顔がきりりと引き締まり、あまりの若返りぶりにその場に居合わせた人々には驚きの表情が。
修理前、薄暗いお厨子の中に鎮座されていた幡随意さんは、二伝寺の方々にとっても、何となく“こわい”存在だったようで、今回の変身振りに特に大喜びだったのは、長年お給仕をされてきたご住職のお母様。その素直な喜びようはとてもほほえましいものでした。ご自分たちの代で治療してあげられたことが、何より嬉しかったのかもしれません。
    

今回の修理は、これまでの汚れを落として破損箇所を修復し、全身に麻布をかぶせ漆を塗った後に彩色を施すという贅沢な行程を経て完成しています。今まで以上に、これからの永い時を無事に過ごせるようにという願いが込められているのでしょう。

二伝寺は永正2年(1505)に初代玉縄城主・北条氏時の発願で建立され、境内には、戦国末期から江戸時代までの史跡が数多く残されています。
まるで仁王門のようにそびえ立つ2本の大銀杏などの木々に覆われ、春の桜、初夏の紫陽花、秋の彼岸花など四季折々の花々が彩を添えていました。

修理入院中に完成した本堂に落ち着いた幡随意さんは、とても居心地が良さそうに微笑んでいます。同じく仏師の渡邊勢山さんが修理し、一足早く安置されていたご本尊の阿弥陀三尊像と、20年前に修理が行われた聖観音像も、幡随意さんのお帰りに嬉しそうでした。

今回は身近な場所で歴史上の人物の生涯に触れることができ、藤沢に住んでいる私には、とても良い勉強になりました。お像の引き取りから漆塗りなどの途中経過も含めて、何度も同行させていただけたことにも感謝です。


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