ギラギラと照りつける太陽と白い雲。9月になったというのに真夏の景色が目の前に広がっている。
ここが東日本大震災の被災地だと意識せず、そのまま通り過ぎてしまえば普通の景色だが、よく見ると大船渡線の鉄橋が途中で欠落していた。
海岸から6㎞ほど離れた、どちらかといえば山あいの矢作町あたりにまで津浪が押し寄せて来たとは・・・。
陸前高田駅近くで地震にあったというAさんの話。
大急ぎで帰宅途中バックミラーの中の車が波にのみこまれ、追いかけられるようにして家に到着。家族に「水が、水が!」と言っても、間近に津波が押し寄せていることをすぐにわかってもらえず、危機一髪で逃げ延びたそうだ。
浸水はしたけれど流されなかったのが、話を聞く側としてはせめてもの救いだった。
市街地に近づくにつれて廃墟と化した空間が目に飛び込んできた。ところどころに瓦礫が積み上げられ、作業中の重機が動いている以外人はいない。
多くの人たちの生活の場であったのにその痕跡はまるでない。唯一残っている鉄筋コンクリートの建物は中がえぐられ、骨組みだけ残されたものが多く津波の猛威を物語っていた。
何とも悲しい光景だ。
そんな建物の前に立ち、自分だったらどうしていただろう・・・と思う。
波の高さや幅を想像するだけで恐ろしいが、やはり身近にある頑強な建物に逃げ込むことしかできなかったかもしれない。
陸前高田の象徴ともいえる7万本の松はあとかたもなく、防波堤も水門も無残な姿。
残された一本松は色々な意味で今注目の的のようだ。
明治29年と昭和8年に起きた、三陸沖地震大津波の教訓として建てられたのだろう。
大地震の後には津波が来るよ
地震があったら高地へ集まれ
津波と聞いたら慾捨て逃げろ
低いところに住家を建てるな
道端の石碑には先人の教えが刻まれていたが、今となっては物悲しい。
どんなに衝撃を受けても、気分が落ち込んでもお腹はすく。民宿で頂いた夕食の、食べきれないほどの新鮮な海の幸に、漁が順調なのだなと唯一嬉しくなった。
民宿の奥さんが、配膳をしながら話してくれたあの日のこと。
震災後すぐに船を沖に出し、流れてくるガレキをよけながら操り、丸2日間体力の限界ギリギリまで海上にいて船を守り抜いたというご主人。奥さんとお嫁さんは、それぞれが街中へ出かけていたが、その日に限って昼食をとらず早めに帰宅し難を免れたそうだ。
遠く離れた神奈川でも不気味な揺れを感じた。直後のリアルタイムな映像はあまりに壮絶で、何が起こったのかがすぐには理解できなかったしその後も不安は募るばかり。
たんたんと話をしてくれていたが、比べものにならない過酷な状況を強いられたその胸中を思うと胸がいたい。
被災地で現地の人と会った時、どういうふうに挨拶や言葉がけをしたらよいのか・・・そんなことを考えてしまうからか適切な言葉が出ない。
そういう自分が恥ずかしい。
実は、たまたま細い脇道のようなところに入り込んでしまい、そこが少し高台になっていたので錆びついた線路を見下ろしていたら、近くの建物からお年寄りが現れ「ちゃんと挨拶をして」と注意された。
人がいることに気が付かなかったのだが、よく聞けば、昼間下見に来て夜盗まれることが何度かあったとのこと。
配慮の足りなさを反省するとともに、そういう現実があるということを知り愕然とした。
大震災から一年半が過ぎた。
前回訪れた宮古では、躊躇してしまい現地の人の話は聞けなかったけれど、今回は見て聞いて、話すことができた。
だから何ができる・・・ということは別として、せめてあの日のことを忘れないように、そして教訓にできればと思っている。
ここが東日本大震災の被災地だと意識せず、そのまま通り過ぎてしまえば普通の景色だが、よく見ると大船渡線の鉄橋が途中で欠落していた。
海岸から6㎞ほど離れた、どちらかといえば山あいの矢作町あたりにまで津浪が押し寄せて来たとは・・・。
陸前高田駅近くで地震にあったというAさんの話。
大急ぎで帰宅途中バックミラーの中の車が波にのみこまれ、追いかけられるようにして家に到着。家族に「水が、水が!」と言っても、間近に津波が押し寄せていることをすぐにわかってもらえず、危機一髪で逃げ延びたそうだ。
浸水はしたけれど流されなかったのが、話を聞く側としてはせめてもの救いだった。
市街地に近づくにつれて廃墟と化した空間が目に飛び込んできた。ところどころに瓦礫が積み上げられ、作業中の重機が動いている以外人はいない。
多くの人たちの生活の場であったのにその痕跡はまるでない。唯一残っている鉄筋コンクリートの建物は中がえぐられ、骨組みだけ残されたものが多く津波の猛威を物語っていた。
何とも悲しい光景だ。
そんな建物の前に立ち、自分だったらどうしていただろう・・・と思う。
波の高さや幅を想像するだけで恐ろしいが、やはり身近にある頑強な建物に逃げ込むことしかできなかったかもしれない。
陸前高田の象徴ともいえる7万本の松はあとかたもなく、防波堤も水門も無残な姿。
残された一本松は色々な意味で今注目の的のようだ。
明治29年と昭和8年に起きた、三陸沖地震大津波の教訓として建てられたのだろう。
大地震の後には津波が来るよ
地震があったら高地へ集まれ
津波と聞いたら慾捨て逃げろ
低いところに住家を建てるな
道端の石碑には先人の教えが刻まれていたが、今となっては物悲しい。
どんなに衝撃を受けても、気分が落ち込んでもお腹はすく。民宿で頂いた夕食の、食べきれないほどの新鮮な海の幸に、漁が順調なのだなと唯一嬉しくなった。
民宿の奥さんが、配膳をしながら話してくれたあの日のこと。
震災後すぐに船を沖に出し、流れてくるガレキをよけながら操り、丸2日間体力の限界ギリギリまで海上にいて船を守り抜いたというご主人。奥さんとお嫁さんは、それぞれが街中へ出かけていたが、その日に限って昼食をとらず早めに帰宅し難を免れたそうだ。
遠く離れた神奈川でも不気味な揺れを感じた。直後のリアルタイムな映像はあまりに壮絶で、何が起こったのかがすぐには理解できなかったしその後も不安は募るばかり。
たんたんと話をしてくれていたが、比べものにならない過酷な状況を強いられたその胸中を思うと胸がいたい。
被災地で現地の人と会った時、どういうふうに挨拶や言葉がけをしたらよいのか・・・そんなことを考えてしまうからか適切な言葉が出ない。
そういう自分が恥ずかしい。
実は、たまたま細い脇道のようなところに入り込んでしまい、そこが少し高台になっていたので錆びついた線路を見下ろしていたら、近くの建物からお年寄りが現れ「ちゃんと挨拶をして」と注意された。
人がいることに気が付かなかったのだが、よく聞けば、昼間下見に来て夜盗まれることが何度かあったとのこと。
配慮の足りなさを反省するとともに、そういう現実があるということを知り愕然とした。
大震災から一年半が過ぎた。
前回訪れた宮古では、躊躇してしまい現地の人の話は聞けなかったけれど、今回は見て聞いて、話すことができた。
だから何ができる・・・ということは別として、せめてあの日のことを忘れないように、そして教訓にできればと思っている。