* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第十九句 「成親死去」

2006-04-28 17:28:38 | Weblog
        侍どもが 成親 を外へ連れ出して、槍のように先の尖った物をたくさん植えて
        ある崖の上に誘い、三人の侍が一緒に突き落して殺してしまった。
 
  <本文の一部>
 新大納言成親の卿は、「すこしくつろぐ心もや」と思はれけるところに、「子息丹波の少将以下、鬼界が島に流されぬる」と聞きて、小松殿に申して、つひに出家し給ひけり。
 北の方は雲林院にましましけるが、さらぬだに住みなれぬ山里はもの憂きに、いとどしのばれければ、過ぎゆく月日もあかしかね、暮らしわずらふ様なりけり。
 女房、侍おほかりけれども、世におそれ、人目をつつむほどに、問ひとぶらふ人もなし。

 その中に、大納言の幼少より不便にして召しつかはれける源左衛門尉信俊といふ侍あり。なさけある男にて、つねはとぶらひたてまつる。あるとき、信俊参りたりければ、北の方、涙を押さへて、「いかにや、これには備前の児島にましますとこそ聞こえしが、当時は有木の別所とかやにおはすなり。いかにしても、いま一度、文をも奉り、返事をも見んと思ふはいかに」とのたまへば、信俊涙をおしのごひて申しけるは、「さん候。幼少より御情をかうぶりて、一日も離れまゐらすること候はず。御下りしときも、さしもに御供つかまつるべきよし、申し候ひしかども、入道殿御ゆるされも候はざりしかば、参ることも候はず。召され候ひし御声も、耳にとどまり、諌められまゐらせ候ひし御ことばも、肝に銘じていつ忘れまゐらせんともおぼえず候。たとひいかなる目にもあひ候へ、御文賜はり候はん」と申せば、北の方、やがて御文書きてぞ賜はりける。

 信俊、これを賜はって、備前の国、有木の別所にたずね下る・・・・・・

  さてもあるべきならねば、信俊、いとま申して上りけり。
都へ上りて、北の方へ参り、御返事を参らせたりければ、「あなめずらし。命の今までながらへておはしけるよ」とて、この文を見給へば、文に中に御髪の一ふさくろぐろとして見えければ、二目とも見給はず、「はや。この人様をかへ給ひけり。形見こそ、なかなか今はあたなれ」とて、これを顔におしあてて、ふしまろびてぞ泣き給ふ。
 おさなき人々も泣きかなしみ給ひけり。

  さるほどに大納言入道をば、同じき八月十七日、備前、備中の境、吉備の中山といふ所にて、つひに失ひたてまつる。酒に毒を入れてすすめたてまつりけれども、なほもかなはざりければ、岸の二丈ばかりある下に、菱を植ゑ、それにつき落し、貫かれてぞ失せ給ひける・・・・・・・・・

               (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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   <あらすじ>
  大納言・成親 は、少しは心が落ちつくかと思はれた矢先に、子の少将・成経 などの人たちが鬼界が島 に流されたと知り、重盛 に申し出てついに出家してしまう。

  成親 が、小さいときから面倒を見てきた 信俊 という侍が、北の方の文を持って 成親 の有木の別所に届け、返事の文を預かって、これを都の北の方 に渡すというくだりがある。

  北の方 は、返事の文を見て、成親 が生きていることと、中に納められていた一ふさの髪を見て、出家したことを知り、小さな若君や姫君ともども泣き伏すのであった。

 八月十七日、ついに成親殺害 の命が下り、初めは酒に毒を入れて飲ませようとしたが果たせず、吉備の中山(岡山市)という所で、崖から追い落とし、下に設けた先の尖った木に身体を刺し貫かれて殺されてしまう、まさに惨殺 である。

  北の方は、この噂を聞きつたえて、「出家姿でも良いから今一度お会いしたかった」と思っていたが、今はそれもかなわぬことゝなり、仏門に入って成親 の後生を弔うのであった。

          (注)死去の日は、諸本によりいろいろあるが、七月中のことであったらしい。

               後白河院の異常なほどの寵愛をうけた大納言も、
               清盛からは余程に嫌われたのである。
 


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