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比叡山・延暦寺へ宛てた文書をしたゝめる能書の僧
(三井寺の以下、幹部の僧たちが居並ぶ)
<本文の一部>
三井寺には、貝鉦(かひかね)をならし、大衆おこって僉議しけるは、「そもそも、近日世上の体を案ずるに、仏法の衰微、王法の牢籠、今度にあたれり、いま清盛入道が暴虐をいましめずんば、いずれの日をか期すべき・・・・・」と、一味同心に僉議して、山(比叡山)へも奈良(興福寺)へも牒状をつかはす・・・・・
山門には、これを披見して、「こはいかに。当山の末寺として、『鳥の左右の羽交のごとく、車の両輪に似たり』と押して書く条、狼藉なり」とて、返牒を送らずと聞こえし。そのうへ、平家、近江米一万石、北国の織延絹三千匹、山の往来に寄せらる・・・・・
・・・・座主登山して、「園城寺一味はしかるべからざる」よし、こしらへ給へば、宮(高倉の宮・以仁王)の御方へは参らざりけり。
南都には東大、興福両寺の大衆僉議して、やがて返牒をぞ送られける・・
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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<あらすじ>
(1) 三井寺(園城寺)では、僧たちが集まり”清盛”の横暴を止めるため、
比叡山・延暦寺や奈良・興福寺へ文書での申し入れをしようと相談し、
先ず山門(延暦寺)にあてゝ、平家の横暴を挙げて”院宣”と称し
て軍を派遣するとの噂に、仏法の破滅を避けるべく互いに協力して当り
たい・・・・と、申し入れた。
(2) 延暦寺では、この頃に清盛の思惑による”贈り物”を受け取ったことや、
座主・明雲の指示もあって、この申し入れ文書を一蹴し、返書も出さな
かったほどである。
(3) 一方、興福寺では、長文の返書をしたゝめて、もろ手を挙げて賛意を表
した。
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