* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第七十三句『緒 環』をだまき

2009-11-14 15:52:26 | 日本の歴史

  豪雨の中を、徒歩はだしで“大宰府”から落ちのびる女院公卿たち

<本文の一部>

 さるほどに、九月十日あまりにぞなりにける。萩の葉わ
けの夕あらし、片敷く袖もしをれつつ、ふけゆく秋のあは
れさは、「いずくも」とはいひながら、旅の空こそしのび
がたけれ。九月十三夜は名をえたる月なれども、その夜は
都を思ひいづる涙に、われから曇りてさやかならず。

 九重の雲のうへ、ひさかたの月に思ひをのべしたぐひも
今の様におぼえて、薩摩守忠度、

    月を見し こぞの今宵の友のみや
            都にわれを思ひ出づらん

 中略>

 平家は、「緒方の三郎維義が、三万余騎にて、すでに
寄する」と聞こえしかば、取るものも取りあへず、大宰
府をこそ落ち給へ。駕輿丁もなければ玉の御輿をうち捨
てて、主上手輿に召されけり。国母をはじめまゐらせて
やんごとなき女房たち、袴のそばを取り、大臣殿以下の
公卿殿上人、指貫のそばをはさみ、水城の戸をたち出で
て、住吉の社を伏し拝み、徒歩はだしにて、「われ先に
」「われ先に」と筥崎の津へこそ落ちゆきけれ。

 をりふし、降る雨車軸のごとく、吹く風砂をあぐると
かや。落つる涙、降る雨、わきていずれと見えざりけり
 筥崎、香椎、宗像伏し拝み、主上、垂水山、鶉浜なん
どといふ嶮難をしのがせ給ひて、眇々たる平地へぞおも
むかれける。

 いつならはしの(まったく慣れない)御ことなれば、御
足より出づる血は、砂を染め、紅の袴は色を増し、白き
袴は裾紅にぞなりにける。

 かの玄奘三蔵の流沙葱嶺をしのがれけんも、いかでか
これにはまさるべき。されどもそれは求法のためなれば
来世のたのみもありけん。これは怨敵のゆえなれば、後
世のくるしみ、かつ思ふこそかなしけれ・・・・

 芦屋の津といふ所をすぎ給ふにも、「いにしへ、われ
われが都より福原へかよふとき見なれし里の名なれば」
とて、いずれの里よりもなつかしう、あはれをぞもよほ
されける。「新羅、百済、高麗、契丹までも落ちゆかば
や」とは思へども、波風むかうてかなはねば、兵頭次秀
遠に具せられて、山鹿の城にぞ籠られける。

 山鹿へも敵寄すると聞こえかば、海士の小舟にとり乗
りて、夜もすがら豊前の国柳が浦へぞわたり給ふ。

      (注) かっこ内は、本文には無く“注釈”です。
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<あらすじ>

(1) 寿永二年(1183)九月十日も過ぎ、九州・大宰府の
  平家一行は旅の空の夕べの風にしみじみと身にしむ
  秋を感じ、折からの“十三夜の名月”に都を偲ぶ歌
  を詠むのであった。

  月を見し こぞの今宵の友のみや 都にわれを思い出づらん (忠度)
   恋しとよ こぞの今宵の夜もすがら ちぎりし人の思いでられて(経盛)
   わけて来し 野辺の露ともきえもせで 思はぬ方の月を見るかな(経正)

(2) 子の頼経を代官として差し向けている豊後守・頼輔
 
 は、「豊後の国から平家を追い出せ」と、頼経に命
  じる
頼経は、配下の緒方三郎維義に下知するが、
  維義はこの命令を院宣と称して九州全域と壱岐、対
  馬に対して召集をかけ、これによって殆どの勢力が
  維義に従ったのである。

(3) 平家は、この緒方三郎維義たちの動きを知り動揺す
  るが、平大納言・時忠卿の「緒方維義は平重盛の御
  家人なれば、小松殿(重盛)の若君が説得してみては
  いかが・・・」との意見により、新三位の中将・平
  資盛(重盛の子)を向かわせ説得を試みた。
  (絵巻では、新中納言・知盛の発言になっている)

   しかし維義は、これに全く従わず、「若殿を召し
  捕るのが当然だが、大事の中の小事、ただ戻られて
  最後の覚悟をなされよ」と、追い返してしまう。

(4) 緒方維義は、「平家は、重恩ある年来の主家である
  が、後白河院のご命令でもあり、どうにもなりませ
  ん、すぐに九州を出立されたい」と、改めて申し入
  れる。

(5) 平時忠卿は、使者に向かい“安徳帝の正統性”を説
  き、九州の者が“頼朝や義仲”にかつがれ、うまく
  やり遂げたら褒美を授ける等の命に従うのは不届き
  である!と、述べるのであった。

(6) 緒方維義は、「昔は昔、そういうつもりなら力で平
  家を追い出す」と云い、やがて大軍勢で豊後を出発
  する・・・との風聞が流れた。

(7) 平家は、源季貞と平盛澄の三千余騎で筑後に向かい
  緒方勢と戦ったが、散々に打ち破られてしまった。
   そして更に緒方勢が、三万余騎で押し寄せてくる
  との噂が聞こえ、慌てて大宰府を落ちて行くことに
  なった。   

(8) 大宰府を落ちて行く“安徳帝”一行は、「緒方の軍
  勢が攻め寄せてきます、いっときも早く落ち延びさ
  せ給え」と侍が火急を告げ、着飾った都人の人波が
  “徒歩はだし”で逃げ行く姿は、里人の目には異様
  な光景に映った。

   駕輿を担う者も居なければ、帝の乗る輿も無く、
  “安徳帝”は手輿に乗られ、建礼門院をはじめ女房
  たちも、袴の裾をたくし上げ、折からの豪雨の中を
  “はだし”で、われ先にと筥崎の港(博多湾)へ急ぐ
  が、山坂や峠を越える難路の悲惨な強行軍を経験す
  ることになるのであった。

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