祇園の女御のもとへ通う白河(72代)法皇、日の暮れたお堂の陰に
現れた異形のものに、妖怪!かと、平忠盛に退治を下知する。
<本文の一部>
ふるき人の申されけるは、「清盛は、忠盛が子にはあらず。まことは白河
の院の御子なり」。そのゆゑは、去んぬる永久(鳥羽帝の御世(1113~1117))
のころ、「祇園の女御」と聞こえて、さいはひ(ご寵愛)の人おはしき。くだんの
女房の住み給ひける所は、東山のふもと、祇園の辺にてぞありける。
白河の院、つねは御幸ありけり。あるとき殿上人一両人、北面少々召し具
して、しのびの御幸のありしに、ころは五月二十日あまりの夕空のことなりけ
れば、目ざせども知らぬ闇にてあり、五月雨さへかきくもり、まことに申すばか
りなく暗かりけるに、この女房の宿所ちかく御堂あり。
この御堂のそばに、大きなる光りもの出で来たる。頭には銀の針をみがき
たてたるやうにきらめき、左右の手とおぼしきをさし上げたるが、片手には槌
の様なるもの持ち、片手には光るものをぞ持ちたりける。
君も、臣も、「あな、おそろしや。まことの鬼とおぼゆるなり・・・・・・・
さわがせましますところに、忠盛そのころ北面の下臈(下北面:昇殿できない)
にて供奉したりけるを、召して、「このうちになんぢぞあらん。あの光りもの、行
きむかひて、射も殺し、切りも殺しなんや」と仰せければ、かしこまって承り、
行きむかふ。
内々思ひけるは、「このもの、さしもたけきものとは見えず。狐、狸なんどに
てぞあらん。これを射もとどめ、切りもとどめたらんは、世に念なかるべし。
生捕にせん」と思ひて、歩み寄る。とばかりあってはざっとは光り、とばかりあ
ってはざっと光り、二三度したるを、忠盛走り寄りて、むずと組む。
組まれてこのもの、「いかに」とさわぐ。変化のものにてはなかりけり、はや、
人にてぞありける。そのとき上下手々に火をともし、御覧あるに、齢六十ばか
りの法師なり・・・・・・・・・・
君御感なのめならず、「これを射も殺し、切りも殺したらんには、いかに念な
からんに、忠盛がふるまひこそ思慮ふかけれ。弓矢とる身は、かへすがへす
もやさしかり(褒め言葉)けり」とて、その勧賞に、さしも御寵愛と聞こえし祇園の
女御を、忠盛にこそ賜はりけれ・・・・・・・・・・
されば、この女房、院の御子をはらみたてまつりしかば、「生めらん子、女子
ならば朕が子にせん、もし男子ならば忠盛が子にして、弓矢とる身にしたてよ」
と仰せけるに、すなはち男子を生めり。
忠盛言にあらはして披露せられざりけれども、内々はもてなしけり・・・・・・
(そのお子を、大切に扱った)
忠盛、御前に参り、
いもが子は はふほどにこそ なりにけれ
と申されたりければ、法皇(白河の院)やがて御心得ありて
ただもりとりて やしなひにせよ
とぞ仰せ下されける。それよりしてこそわが子とはもてなしけれ。
この若君あまりに夜泣きをし給ひければ、院聞こしめして、一首の歌をあそばい
て下されけり。
夜泣きすと ただもりたてよ 末の世に きよくさかふる こともあるべし
さればこそ「清盛」とは名のらせけれ。
(注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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<あらすじ>
<白河院、たびたび祇園の辺に御幸>
鳥羽(74代)天皇の御世(1113~1117)、白河(72代))上皇はしばしば祇園の
辺にお忍びでお出かけになっていたが、ある日、訪ねる女房の近くのお堂で
怪しいものが現れ、すわっ!妖怪かと、供の平忠盛に「弓矢で射るなり刀で斬
るなり」退治するよう、お命じになった。
忠盛が、これを殺さずに取り押えたのだが、白河の院は大へんお喜びにな
って、褒美としてご寵愛の祇園の女御を賜ったのであった。
<清盛、ご落胤説>
忠盛が賜った女御は、白河の院の御子を身籠っていたので、「生まれてくる
子が、男子ならば忠盛の子として育てよ」と仰せられたが、男子が誕生し清盛
と名づけられたのであった。
<清盛、異例の昇進>
大治四年(1129)、清盛は十二歳にして兵衛(ひょうえの)佐(すけ)となり、十八
歳では四位(しい)の位となって、”四位の兵衛佐”と人々は呼んだ。
白河院のご落胤という事情を知らない者にとっては、「華族(摂家に次ぐ家柄)
の家柄なら、こうもあろうが・・・」と、驚く。
しかし、鳥羽(74代)天皇もご承知のことであったという。
<天智(38代)天皇の故事と、慈心坊のこと>
むかし、天智天皇が女御を藤原鎌足に賜った故事、生まれた男子が鎌足の
長男・多武峰寺の定恵和尚であったこと。
(多武峰略記:孝徳(36代)帝)とあり、(大鏡:天智(38代)帝)とある。
<慈心坊・尊恵の夢のお話>
摂津の国(大阪)、清澄寺の慈心坊・尊恵という僧が、夢に見た物語。
(嘉応二年(1170))、閻魔大王の招請があって、閻魔王宮で十万部の法華経
を十万人の僧が読み、供養する”持経僧”の一人に選ばれて法会の儀式に
参列した。
この折、閻魔大王のお話の中に、「日本国の平大相国(清盛のこと)は、横暴
な人と見たが、この人は慈恵大僧正の化身なので、私は日に三度、敬って礼
する」と、聞かされる。(慈恵:18代天台座主・広く信仰を集めた名僧)
・・・・・・・・・・・こゝで、夢から覚める・・・・・・・・・・・
慈心坊は都へ上り、清盛にこのことを伝えたということである。
<弘法大師と、真言密教の勝れたることを説く>
堀川(73代)帝の御世(寛治二年(1088))、和漢の学に通じた大江匡房が、
真言密教の尊さを説き、これを聞かれて白河(72代)院も高野山を深く信仰
された。
だから、その御子にあたる清盛が、高野の大塔を修理したことは、不思議
な縁である・・・・・と。(第二十四句「大塔修理」参照)
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