鶴が岡八幡宮において、院使・中原康定から“征夷大将軍”の院宣を受け取る三浦義澄
<本文の一部>
鎌倉の兵衛の佐(ひょうゑのすけ)頼朝は、「都に上らんこともたや
すからじ」とて、ゐながら征夷将軍の宣旨をかうむる。御使には、
左史生中原の康定とぞ聞こえし。康定は家の子二人、郎等十人具し
たりけり。
寿永二年(1183年)十月四日、康定鎌倉へ下着す。
兵衛の佐のたまひけるは、「頼朝は流人の身なりしかども、武勇名
誉長ぜるによって、今はゐながら征夷将軍の宣旨をかうむる。いかで
か私にては賜はるべき。鶴が岡の社にて賜るべし」とて、若宮へこそ
参られけれ。
八幡は鶴が岡に立ち給へり。地形石清水にちがはず。廻廊あり、楼
門あり。つくり道十余町見くだしたり。
「そもそも院宣をば、誰してか賜はるべき」と評定あり。「三浦の
介義澄して賜はるべし」と評定をはんぬ。この義澄と申すは、三浦の
平太郎為嗣が五代の孫、三浦の大介義明が子なり。父義明は君の御た
めに命をすてたる者なれば、これによって義明が黄泉の冥闇を照らさ
んがためとぞおぼえたる。
義澄も、家の子二人、郎等十人具したりけり。二人の家の子は、和
田の三郎宗実、比企の藤四郎能員なり。郎等十人は大名十人して、に
はかに一人づつしたてけり。十二人みなひた兜なり。
義澄は褐の直垂に黒糸縅の鎧着て、いかものづくりの太刀はき、大
中の矢負い、塗籠藤の弓わきばさみ、兜をぬぎ高紐にかけ、膝をか
がめて院宣を受け取りたてまつる。
「誰そ、名のれ」と康定申しければ、兵衛の佐の「佐」の字にやお
それけん、「三浦の介」とは名のらで、「三浦の荒次郎義澄」とこそ
名のりけれ。兵衛の佐、院宣を受け取りたてまつる。覧箱をひらき、
院宣を拝したてまつる。箱に沙金百両入れてぞ返されける。
(注)カッコ内は、本文ではなく“注釈”です。
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<あらすじ>
(1) 寿永二年(1183)十月、頼朝は鎌倉に居ながらにして“征夷大将
軍”の院宣を受け取ることになった。
後白河院の使者・中原康定から鶴が岡八幡宮において、受取り
役の三浦義澄がこれを務めた。
義澄はじめ、供の郎等たちは“完全武装”で控え、院使・康定
の後ろには京から随行の郎等たちが居並んでいる。
(2) 院宣を納めた“覧箱”には、沙金百両を入れてお返しし、院使
一行には大層なもてなしをした上、引き出物として康定をはじめ
供の郎等たちにも多数の馬や武具、絹布などを贈った。
(3) 頼朝は院使に対し、源行家(十郎蔵人)や木曽義仲が“手柄顔”
に振りかざす官位・官職を認めようとはせず、頼朝の命令に従わ
ない奥州の藤原秀衡や佐竹隆義の追討の院宣を要求するのであ
った。
(4) やがて康定は都に戻り、院の御所にご報告、後白河院も大へん
感心し、列座の公卿や殿上人も満足げにほほ笑んだということで
あった。
頼朝が、都の人々に評判が良かったのに引きかえ、その頃、
都を守護していた木曽義仲は、色白で目鼻立ちが整って良い男
ぶりだったにもかかわらず、その立ち居振る舞いが無作法で、言
葉遣いも木曽訛りで乱暴なことから、大へん評判が悪かったとい
う。
又、院使一行の帰途には、鎌倉から近江の国までの宿々
に、それぞれ十石づつの米を用意したと言われ、あまりに
も多いので“貧しい人”に施したといわれる。
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